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短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(64) 水質検査で アポファシス

これまでのエモ山


「検出なし!」

プールの向こう岸から、
ニックが言った。

俺はこっち側で、
壁に貼られたクリアファイルから
「インターネット・デブリ検査票」を一枚ひっぱり出す。

検査票はA4サイズの紙に印刷された一覧表で、
濾過課プールの水質を
チェックしたあと毎朝ハンコを押すもの。

壁にくっつけられたクリアファイルの、
ポケットみたいなところから、
俺は三文判を取り出して、
紙にぺたんと押しつける。

一覧表、
といっても、
ほぼ真っ白の表。

黒い罫線で囲われたボックスが
2コマ漫画みたく縦に2段あって、
その下の段、
「検出なし」の欄にひとつ、
いーだ
の赤い文字がくっつくと、
白いボックスは日の丸弁当のようになった。

ハンコ押すときは、
自分の名前が、
ちょっと左に傾いてないといけないと、
俺は
前の会社で教わった。
右に傾いてると、ふんぞり返ってるように見えるから、
左に傾かせ、
頭下げてるみたくみせないといけないと言われた。

それってちょっと
ブレーキランプ5回点滅ア・イ・シ・テ・ルのサインかよ。
ていうか、
ア・イ・シ・テ・ルって5回点滅させるためには、
ブレーキを5回踏むということだから、

ちょっと進んで止め、
ちょっと進んで止め、

を5回繰り返すってこと。
で、
ブレーキとブレーキのタイミングを、
「ア・イ・シ・テ・ル」
のスピードにするには、

アクセル → ブレーキ。
アクセル → ブレーキ。

の繰り返しを、
素早く5回行わねばならないということだ。

「アクセル → ブレーキ」の繰り返しにより、
運転者の頭は、

がふん。
がふん。

がふん。
がふん。
がふん。

と、5回揺れるにちがいない。

その様子に、恋が醒めるということは
ないのか。

それ見ても、醒めないのが恋
だというのか。

などということを考えながら、
前の会社では、
ぼんやりと、
片手間に、ハンコを押していたわけだけれども、

そんなことを思い出しながら
いまふたたび片手間に、
検査票に押したハンコは、
「いーだ」の文字が、
マトリックスみたく90度に反り返ってしまって
もはや、
これは、なにを意味するものなのか。

「読めない」

俺がつぶやいて、検査票をクリアファイルに戻していると、

「俺にはわかるぞ」

いつのまにかニックが俺のそばに戻って来ていて、
「俺には見えるぞ。検出している」
と言った。

「なにが」
「ほら見ろよ。ここに男がいる」
ニックは「いーだ」のハンコ文字に顔を近づけた。
「右目に傷あとを持つ男がいる」
「男?」
俺もニックの横で、「いーだ」にぐっと目を寄せた。
ニックが俺の耳元で言う。
「目え閉じて、なんか考えてるみてぇな顔してやがる」

しかし俺には、
ニックの言うような、「右目に傷跡のある男」など
見えなかった。

「ここが、口」

ニックは人差し指の爪の先で、「いーだ」の「ー」の部分を
ちょいちょいとさして言った。

「へ?」
「ここ!」
「へ?」
「右目に傷跡、あるじゃんか」
「へ?」
「目ぇ閉じて、ちょっと笑ってるよな」
「へ?」


いつまでたっても、
俺に、そんなものは見えてこない。

「エモ山君は、想像力が、ないのねえ」
首を傾げる俺に、
ニックは、
なにか勝ち誇ったかのように笑うのだった。

ハンコの主であるいーだ課長が、
沼田ミソギと共に、「概念の音姫」配りに出ていたので、
いつもは課長の業務である水質の検査を、
今日はニックがかわりに行い、
俺はニックのかわりにハンコを押す。

検査っていったって、
別に飲むための水じゃないから、
人間のための検査ではない。
それは、
しいて言えば、東京湾のための検査。
太平洋のための検査。
地球のための検査。

「さ、お仕事よ、エモ山ちゃん」
課長がいないので、ニックは上機嫌だった。
「タモ取ってこいや」

俺はタモを収納するタモロッカーまで歩きながら、
検査票に印字された黒い文字のことを考えていた。

検査票にハンコ押し、残さねばならぬ情報が、
・検出したか
・しなかったか
だけだったことを、考えていた。

そして票の上に、

検出項目 : 有機物(TOC)

と記されていたことを、考えていた。

東京湾に流してしまう水なら、
有機物が入っていても、
問題はないんじゃないのかな、なんて考えて、

しかしところで、
コピペ部から流されてきて、
巨大洗濯機でぐわんぐわんと回されたあげく、
排出されたこの水に、
混じっているのはおもに砂だったはず。

それを俺たちがタモでさらうわけだけれど、
それで俺は日給を頂戴しているわけだけれども、

元天才少年だから、俺は知っている。
砂は有機物じゃない。
無機物は俺がタモでさらっている。
日給3万円でさらって捨てている。

プールの水に、
わざわざ検出作業を日課にするほど
入りこむ
有機物とはなんだろう。

なんだろう。

なんだろう。

と、
俺がそんなこと、いくら考えても、
俺はソクラテスじゃないし、
考えるだけで
答えなんか出るはずがないのだった。

もしも
考えるだけで答えが出るのなら、
俺もソクラテスになれてしまうし、
俺がソクラテスになれるくらいなら、
誰でもソクラテスになれてしまう。
そうなれば、
ほんもののソクラテスは、
これまでのソクラテスでは
いられなくなってしまう。

俺はソクラテスをまもるため、
無知のまま、
プールにタモをつっこんだ。

朝の光を反射しながら、
静かに大きく渦を巻くプールの青い水面は、
タモの一撃で、
うろこみたいに粉々に割れた。

俺は水を吸ったタモの網部分を引き上げて、

しぱぴん。

壁に向かって砂を投げた。

朝のうちはまだ、
柄の部分が渇いてて、滑りやすいから、
しぱぴんのスイングも、大振りで、
網部分が空気に描く弧も長い。

その日最初のしぱぴんが、
いつもより重かったのは、
たぶんその日のプールが、
俺とニックと二人だけの場所だから
という理由もあるだろう。

いつもはいーだ課長がいて、
俺たちは3人で仕事をする。
あの課長なんて、いてもいなくても
そんなに変わらないと思ってたけど、
「いない」ってことから
つくられる意味もある。

ニックも同じことを考えてるのか、
俺たちは、
いつもより、
すこしぎこちなかった。

しぱぴん。

しぱぴん。

俺たちは、そ知らぬふりで、
かしこまって仕事をした。

そろそろこの辺はいいかなと思って、
というか、水が回転してるから、
プールサイドのどこに立っていようが、
作業効率は変わらないわけだけれども、
俺はちょっと、空気を変えたい気がして、
向こう岸に移動しようと思った。

俺がタモを持ち上げた瞬間、

「ところでおまえさあ」

ニックが言った。

タモからしずくを垂らしながら、
俺はニックを見た。

ニックはタモをぶんぶん回して、

「だいじょーぶなの?」

と言った。

しぶきを避ける俺の動きを封じたかったからなのか、
ニックは自分のタモの先を、
俺の肩先に向けた。
そしてもう一度言った。

「あのあと、だいじょーぶだったの?」

ニックのタモで、
新しいワイシャツを濡らしたくないから、
俺は少し後じさって、こたえた。

「あのあと?」

「エモ山君は、想像力が、ないのねえ」

腕を伸ばし、ニックがタモ先で、
俺の胸ポケットをついついとつつく。

俺の胸ポケットが、ついと水を吸った。
俺は胸ポケットが、
急に冷たくなったのを感じた。

それはニックの狙い通り、
俺にあのことを思い出させた。

ラーメン屋の駐車場で
ニックから
「概念の音姫」を胸ポケットにくっつけられたのは、
ほんの数日前のことだった。

俺たちのあいだで、それは明白だった。
いわずもがな、俺たちにかぎっていえば、
俺のワイシャツの胸ポケットは、
そういう場所だった。

ニックがあの話をしたいんだなってことが
俺にはわかったけど、
俺自身は自分から、
そのことを、話したくなかった。

話せることが
少ないと思った。
つかめているものが、
はっきりしないと思った。
もしも、
わからないままにこの話を誰かにしたら、
どこからスタートしても、
結局いつのまにか、まったく別の道を
進んでいることに、気づいてしまいそうだと思った。

俺はプールにうつる自分の姿を見下ろした。
水面に映る俺の姿は、その輪郭を、二重三重にゆがませて、
ゆらゆら揺れていた。

ああ、これだな

と俺は思った。
俺の記憶も確信も、
その像とちょうど同じ程度にあいまいだった。

俺の胸ポケットが、
冷たくなっていった。
ニックのタモがしみ込ませた水は、
波紋みたく広がっていった。

そして俺は、
その冷たさのなかに、
なにかが小さく動くのを感じた。
古い映画の画面に出てくる、フィルムについた傷のような、
じりりとした感触が、
最初は小さく、
徐々に大きく、はっきり感じられてきた。

「あ」

俺の胸ポケットの変化に、ニックが目を丸くした。
ニックは俺の胸ポケットを指さして言った。

「検出あり」

ニックの手から、タモがからんと落っこちた。

(続きはこちらです)


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