短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(24) フェロモン・アタックと感電びりびり
これまでのエモ山はこちらです。
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「エーモやーまくん♡」
俺は自分が呼ばれたことに気づいていた。
「ねえ、エーモやーまクン!」
聞こえていても、俺は振り向かない。
俺は広いプールの水に、長い柄のついたタモをつっこむ。
青い水面にはタモを中心に丸い波紋ができる。
〇が◎になって◎のなかにつぎの〇ができて◎が大きくなっていくのを、
俺は見つめる。
俺の心はもうめろめろだから、俺はほかのことを考えなければならない。
俺は昨日バー「情念」でチーママと最高のクリスマスイブの朝を過ごしちゃったせいで、今日も最高の気分だから、
ほかのことを考えなければならない。
チーママが、チキンを食べるだけの姿。
その笑顔。
「ウーロン茶いる?」
とか、ただのそういうことばが、頭の中で何度もループ&リピートしちゃってるから。
ほかのことを考えなければならない。
「ねえ、エモ山君♡」
俺はタモで砂をさらう。
「ねえってば」
タモを使い、ひとつの波紋の隣に別の波紋をつくる。
いくつもいくつも波紋を作る。
隣り合った波紋が弧をおたがいに交差させながら広がっていくのを、ただただ見つめる。
波紋を見ている俺は、そのうちなんだかちょっと、変な気分になってくる。
変な気分っていうのは波紋に興奮してるとかじゃない。
俺はそういう種類の変態ではない。
たくさんうまれた波紋の、重なったり交差する線が、ダイアグラムになり、そのうち網みたく見えてきて、変な気分になってくる。
「エモ山クン♡」
うっせーな。
「エモやーん」
しつけーなニック。
さっきから。
肩に手を置かれ、振り向くと、ニックの笑顔がそこにあった。
クリスマスイブの昨日、ほんとうに床屋に行ったらしきニックは、まだあげそめしもみあげを青々させながら言う。
「あんまり根詰めてやっちゃうとさ、ほら」
「はあ」
「腰とかさ、やられちゃうといけないからさ」
「はあ」
俺を見つめるニックの目は充血していた。
白目部分に細くて赤い線がダイアグラム状に走っている。
ニックの充血は俺にニックの前の晩のことを考えさせてしまう。
前の日に電話で俺をボケカス呼ばわりしたニックは今日、まるで別人のような猫なで声で俺に話しかける。
そのまま見ていたら、ニックのイブに何があったか考え始めてしまうから、俺はニックから目をそらし、プールの対岸に目を向ける。
対岸にはいーだ課長、そのすぐ近くには、沼田ミソギが立っていた。
黙々とタモで砂をさらういーだ課長の横で、沼田は腕組みし、難しい顔をして、プールの水を見つめていた。
「ちょっと休憩しようよ、エモ山クン」
ニックが俺の手からタモを取りあげ、プールサイドに放った。
タモの柄が床を打ち、かーんと音が響き渡り、その音にいーだ課長が、沼田が顔をあげ。俺たちの方を見た。
「沼田サーン。僕たち、ちょっと休憩してきまーす!」
ニックが沼田たちに手を振り、俺の袖を引き、歩き出した。
「ったくよー」
ゴミ収集所で、ニックはタバコに火をつけた。
「なんで沼田が来てんだよ」
ニックの吐いた煙が、がらんどうのゴミ収集所にただよった。
「昨日の話、おまえにしてやろうと思ったのに、沼田がいるからできねえぜ」
「なるほどですね」
「ああ、楽しかった。夢のようだった」
ニックのもみあげの下の皮膚が、少し赤くなった。
「ラッキーだったんだよねー。あの姫、人気あるからさあ」
ニックが深くタバコを吸い、煙をぶはあと吐きながら、しみじみ言った。
「キャンセル待ちしといてよかったなあ」
「はあ」
「フェロモンがさあ、すごいんだよねー」
タバコの煙が、ニックの顔を覆い隠した。
この前までぱんぱんに砂が詰められたゴミ袋が積み上げられていたその場所は、からっぽになっていた。
すたたんすたたんと、今ならAIお針子が、思い切りスキップして回れそうだったがAIお針子の姿もない。
「何したか、聞きたい?」
ニックが俺に尋ね、俺はニックに尋ねる。
「ふだんは来ないんですか、沼田さんは」
「そっちの話かよ」
ニックは言い、目を伏せた。
「なんか、たまーに来んだよね」
ニックはタバコから灰を落とす。
「しゃんしゃん列車の日にだけ」
「しゃんしゃん列車?」
ニックは口の脇にタバコをくわえ、立ち上る煙に充血した片目をぎゅっとつぶる。
「砂、運ぶ列車のこと」
ニックが顎で一方を示す。
俺はニックの顎が示した先を見る。
薄暗いましかくの部屋、外につながる搬出口の両開き扉のすき間から、外光が、金色の一本の縦線を引いている。
「列車?」
俺が尋ねると、ニックはうなずいた。
「砂を、運ぶわけよ。こっから」
俺はあまね君に会った晩を思い返した。
プールからさらいあげた砂を、土とすり替えて、東京に戻す、と、あまねくんが、熱く話す様子を思い返す。
「沼田、いつもその時しか来ないのにさー、なんで今日いんだよチクショーメ」
短くなったタバコを、ニックが床に放った。
火がついたままのタバコは、コンクリの床を転がった。
俺はそのタバコを追い、足で潰した。
俺の革靴の底は、じょりっと音を立て、そこに砂があったことを俺に教えた。
俺はあまね君を、遠い過去のように思い出す。
あまね君はいつも遠いところにいるような気する。
遠いなら見なくてもいいのに俺はもう見てしまう。
なんでだかわかんないけど、大きな流れの中で見つけてしまった一粒を、
見るしかなくなっている。
そして俺はチーママを、また思い出してしまう。
チーママは昨日からずっと俺の脳内で鳴っているからだ。
それはフェロモンの音として、俺の脳内で鳴っている。
俺は交差点の真ん中に立ってチーママのフェロモン・アタック音の喧騒に
巻き込まれそうになっている。
けれども俺は、あまね君の姿を遠くにも見ている。
搬出口の扉のすき間の金色の縦線が、やけに気になってくる。
そしてその結果、俺はちょっと「祈り」みたいな気持ちと化す。
俺たちがプール室に戻ると、沼田が俺のタモでプールの水をつついていた。
「なにかがいるわ」
沼田が言った。
「この水の中に」
言われて俺も水面を見たが、沼田がタモでバシャバシャやるせいで、水はやけに濁った。
それはこの水に砂が含まれているせいもあるけど、バシャバシャとやるから余計見えなくなるんだけどなと俺は思った。
「あたし、さっき見たの」
「なにがいたんですか?」
ニックが尋ねると、沼田はちょっと考えて、小首をかしげると、答えた。
「くらげ?」
「くらげ?」
「…みたいな」
沼田は小首を傾げたまましばし黙った。
そして記憶をたどるように虚空を見、自信なさげにぽつりとつけたした。
「人魚かも」
「人魚?」
「手があったわ」
沼田は言った。
「水の中から、こっちに手を振ってた」
ぶふふ。
ニックが笑ったのをうけ、水を見たまま沼田が低く言う。
「なんで笑うの?」
ニックは笑顔を固まらせ、俺の方を向くと、そっと肩をすくめてみせた。
「ああ、それはね、『感電びりびり』だよ」
歩み寄ってきたいーだ課長が、俺たちに言った。
「害はないから、優しくしてやってほしいね」
「くらげ?」
ニックが訊くと、いーだ課長はかぶりを振った。
「じゃあ、何?」
「人魚よ」
沼田が言う。
ぶふふ。
ニックがまた笑った。
いーだ課長が言った。
「『感電びりびり』は、『感電びりびり』だよ」
「だから何だよ、それ」
「僕は見たことがないんだけどね」
「あたしは見たわ」
「その『感電びりびり』を、ですか?」
「わからない」
沼田がプールに目を落とす。
「けど、何かが見えたのよ」
沼田が俺にタモを返してきながら言った。
「そんなもん、いるわけないじゃないっすかあ」
ニックが大きな声で言った。
「だってここ、プールっすよ。濾過装置っすよ、沼田さん」
「知ってる」
ニックがタモで水面をバシャバシャやり出した。
「いるわけないじゃないっすか―」
「そっとしておいてやってくれよ」
いーだ課長が言うのも構わずに、ニックは水をバシャバシャやる。
「いるわけないじゃないっすか―」
沼田がムッとするのを喜ぶかのように、ニックは、ばっしゃんこばっしゃんこやった。
ばっしゃんこばっしゃんこ、わざとやった。
そのときだった。
俺にはそのすべてが、スローモーションに見えた。
ニックがタモで、水をかき回す。
ばっ
しゃん
こ。
沼田はムッとして、固く腕組みし、横目で天井を見る。
ばっ
しゃん
こっ
いーだ課長が、やれやれと首を振る。
ばっ
しゃん
こっ
ばっ
しゃん
こ…
水中から腕が2本伸びてきた。
腕がニックのタモをつかんだ。
ニックが目を丸くした。
ニックの体がつんのめった。
ニックの額が水面についた。
ざぶん。
びりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびっ。
「きゃあああああっ!」
沼田の叫び声がプール室に響いた。
ニックの体が、水の上で暴れていた。
ひとりあばれ太鼓のようだった。
びりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびり
びりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびっ。
「きゃああああああっ!」
いーだ課長が駆け寄って、プールサイドに膝をつき、ニックに自分のタモを差し伸ばした。
あばれ太鼓がタモにしがみつき、いーだ課長が、綱引きみたいにタモを引く。
俺も課長に加勢して、いーだ課長を引っぱった。
びりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりび
「きゃあああっ!きゃあ!きゃああああああっ!」
俺たちは3人のあばれ太鼓になった。
沼田の叫びを聞きながら、俺の脳裏は、やけに静かだった。
俺の脳裏はバー情念で、バー情念には、あたりまえのようにチーママがいた。
そして、
ことばが浮かんだ。
変えることのできないものを
静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する
賢さを与えてください。
「ぶはあ」
ずぶ濡れのニックがプールサイドに横たわり、肩で息をしていた。
いーだ課長が言う。
「これが、『感電びりびり』さ、ニック」
「ぶはあ」
ニックはもう「ぶはあ」しか言えなかった。
その時俺は見た。
プールの水の中に。
なにかがいた。
それは、体のある生き物だった。
水色に見えたのは、体が透き通っていたから。
そいつは、俺を見ていた。
水の中から、俺に向かってサムアップしていた。
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