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読みきり短編小説「毒舌子犬」

灼熱の夏が終わりかけた路地で、ナオは一匹の子犬と出会います。
その子犬、どうやらただの子犬ではなくて…。

「子犬」という生き物は、「よい気分」の代名詞として、まさにちょうどよくはたらく。

丸っこい小さな毛むくじゃら。まっ白よりクッキー色がいい。鼻は真っ黒がいい。クッキー色と真っ黒の境目は、くっきりしてるほうがいい。ボールのように跳ね、脚は短いががっしりとしていて、尻尾はまだおまけのようにささやかだけれど、しかしそれを千切れるかと思うほど左右に振る力に確実に獣を宿している。

「この犬は大きくなりそうだわ」
ナオは子犬を見下ろして、つぶやいた。いつのまにか頬は緩んでいた。
いずれ大きくなっても、この子犬、今よりずっと太く長く伸びた尻尾を、より重々しくも、しかしきっちりと同じリズムで振ることができるだろう。
垂れた耳も丸い目も真新しい。薄い小さな舌をのぞかせる口は、ゴムパッキンのような縁取りが、黒よりもまだピンク色をして、血色を感じる。
なんの用もなく、ただ道端にいる感じも愛らしい。こんなふうに自分も、なんの目的もなく、ただそこにいられたらいいのにとナオは思う。
人間にできないことを、子犬はする。「よい気分」の代名詞として、青空の下、無垢な目で、ナオを見上げる。

何か月も繰り返されてきた昼間の灼熱がさめ、日差しはフェードアウトの途中みたいに弱まって、やわらかくなり、夏の間、太陽に負けじときりきり噛みしめていた奥歯からも、しらずふっと力が抜け、人間までも輪郭を曖昧にする。
そこに秋の風が吹いてきて、無防備な首筋をなでていく。
ときによれば半そで一枚じゃあ肌寒く感じることもある。道端で、立ち止まり、ナオは後ろに振り返り、通り過ぎてきた夏の日々を思い返す。

そこは駅から少し離れた路地だった。遠くから、高架を走る電車の男が聞こえてくる。その音を、ひとごとのようにナオは聴く。
しばらく仕事を休むことにした。休みに入り三日が過ぎて、もう不安になっていた。長年飛行機内の気圧変化に順応してきた体が、空を求めていた。飛ばなければ、バラバラになりそうな気もしていた。

家にいたって、することはとくにない。
外に出て、子犬を拾うくらいしかない。
立ち止まり、振り返ると、子犬がいた。家と家の塀の間の、真夏に落ちるそれよりも薄い、薄くやわらかくなった影の奥から転がり出るようにして、ナオの足元に駆け寄ってきた。ナオが思わず受け止めて、抱き上げてしまったのは、子犬が少し暖かそうに見えたから。もっと寒くなれば、もっと大きな犬がいいけれど、今日みたいな日には、暖かすぎないぬくもりがいい。まださほど、汚れていないのもいい。子犬は、まさにちょうどよかった。

「さあ、私をよい気分にしてちょうだい」
胸に抱いた子犬の、クッキー色のたれ耳に、ナオはささやいた。

「それ、俺に言ってる?」
しゃがれた野太い声が聞こえ、ナオは驚いて、あたりを見回した。
近くに人影はなく、だとすれば路地の両側にひしめく小さな一戸建ての窓のどこかから、誰かが声をかけてきたのかもしれなかった。声からするとたぶんおじさんで、もしかすると、子犬の飼い主が、逃げた子犬を探していたのかもしれない。そこにちょうど現れたナオが子犬を拾い上げたので、おじさんは、犬を盗まれると勘違いして、声をかけたのかもしれない。

ナオは頭を巡らして、周りの家々の窓を見上げた。別に子犬を盗むつもりなんかなくて、ただ抱き上げたかったから抱き上げただけだし、気がすめば地面に下ろし、さっさと立ち去るから心配しないでほしい、声の主にそれを伝えようと思ったけれど、しかし、見渡した窓はすべてぴたりと閉じ、青空と雲を実際より黒く映しているだけだった。
「こっちだよ」
ナオの胸元で、子犬がしゃべっていた。
「俺が聞いてんの」
「俺?」
子犬を見下ろすと、つややかな小さな丸い目が、ナオを見上げていた。

「イメージと違うわ」
ナオは子犬の目を見て言った。
「まず声が違う。あなたは子犬でしょうに」
「わん」
しゃがれ声で子犬が小さく吠えてみせた。
「違うわ」ナオは頭を横に振る。
「くうーん」
「それも違う」
ナオは子犬を抱えたまま、小さく続けた。
「軽々しく抱き上げたり、しなければよかった」
「もう遅いね」子犬が言う。「もうすでに、会話しちゃってるし」
「なぜこんなことができるのかしら」
「俺たちは今」子犬は答えた。「非現実の中にいるのさ」
「ひげんじつ?」
「なんちゃって」子犬が鼻をひくつかせた。「冗談です」

ナオは子犬を長く見つめ、それから口を開いた。
「子犬のくせに、生意気」ほんとうにそう思っていた。「人間を、からかうなんて」犬っていうのは、単純でなくちゃいけない。「あなたがたは、機嫌良くしてればいいの。ご飯を食べて、散歩して」
冗談もだめ。犬は冗談禁止。
「あなたがたは余計なこと考えなくていいの。フリスビーを追いかけて、ひたすらなにかを齧って、のんきに生きてくれなくちゃ、困るわ」
「それは人間様お得意の、驕りたかぶりってやつだね」
子犬は答えた。
「犬をばかにしちゃ、いけねーぜ相棒」
「相棒?」
「相棒って、いいものだろ」
「相棒によるわ」
「犬も歩けば棒に当たる、ってね」
「笑えない」
「俺たち、仲良くなれそうだな」
「根拠はなに?」
「諦めなよ、乗りかかった舟だ」
「降りたいわ」

ナオが子犬を地面に下ろそうとすると、子犬はナオの胸に爪を立て、しがみついてじたばた抵抗した。
「さっき言ったじゃねえかよ、相棒」
ナオが子犬を抱き直すと、ゴムパッキンの口をぱかっと開き、子犬は舌をひらひらさせた。
「よい気分にさせてくれって」
「言ったけど」
「だからやってさしあげてるとこじゃねーか」しゃがれ声が言った。「犬も歩けば棒に当たる、ってな」

ナオは子犬を長く見つめ、それから口を開いた。
「あなたそれ、何回も言うけど」
「犬も歩けば、棒に当たる」
「私にはちょっと、わからない」ナオは言った。「それ、犬には笑えることばなの?」
「笑える」子犬は口をスマイル型にして、尻尾を振った。「むっちゃ笑える」

「人間て、なんにもわかってないよね」
子犬のことばにナオは眉を上げる。「なにが」
「だってさあ」子犬は言った。「笑っちゃうよ。『棒に当たる』」
ナオは答えた。「ただのことわざよ」
「むっちゃ笑える」子犬は目を細めた。「『棒に当たる』」
「そんなにおかしいかしら」
子犬の言い方に、むしろ自分のほうがおかしいのかもしれないという気が、ナオにはしてきた。

「棒に当たる」子犬はくすぐったそうに体をねじる。
そして言った。
「つまりそれ、ラッキーってことじゃん?」
「ラッキー?」
「だって、『棒』って、すごくいいものだろ? 俺、絶対すぐに追っかけちゃう。それがむこうから当たってくるんなら、むっちゃラッキーってことじゃん」

ナオは子犬を長く見つめた。
「ああ、あなた」
秋風が吹いてきた。
胸の奥でくすぶる不安の乱気流は風に巻き上げられ、すとんと落ち、そのかわりに腹の底から、くすぐったいような気分が、ふつふつ湧いてきた。
「かわいいわ」
ナオは思い切り子犬を抱きしめて、頬を寄せ、目を閉じた。


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