短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(58) こっけいな部分と〇〇
前回のエモ山
「センセイは、このあたくしをですね、本気で叱ってくれたのです」
「本気で?」
「本気で」
「本気の本気で?」
「ええ、もうそれはそれは」
「殴られましたか」
「殴ったりなんかしやしません」
「じゃ、蹴り飛ばされたか」
「んなわけないでしょうに。ことばです。ことばで叱ってくだすった」
「ことばだけですか」
「あ、そういえば、机は叩いておられました」
「机」
「ばしばしと、叩いておられました。口角泡飛ばしてね」
「泡飛ばし」
「あたくしのため、思ってくだすった」
「ばしばしと」
「ええ、ばしばしと」
「いったいあなたは」
「はい」
「なにをしたのですか」
ワイシャツの店『帯壱』が、
どれほどの店なのか、俺は知らないが、
その店のたたずまいが、立ち話に向かないことだけは確かだった。
しかし、
古びたシャッターの見本市のようなアーケード商店街は、
アイボリーと灰色のパッチワークでできた松の廊下。
御簾シャッターの向こうには、
明かり取りのない埃まみれの
幾多の小部屋が時間を止めていて、
そこにどんなものが潜み、
誰が耳をすましているか、わからないので、
すくなくともシャッターは開かれて、電灯がついていて、
ここだけ周辺より明るいし、
ムスクちゃんとヒビキ君と、あのピンクの女が
どっか行っちゃったあとも、
店主の老人はいっこうに戻ってこないし、
残ってるのはムスクちゃんの残滓
と
ショーウインドーのトルソーたちだけなので。
ショーウインドーに並ぶ、
首から上のないトルソーならば、
ワイシャツは着ていても、耳がない。
それなら盗み聞きできぬだろう、
どこにもつながらぬだろうと、
考えついたのか、知らないが、
俺のすぐ隣で、
二人の男がひそひそと、話し合っているのだった。
「本気でね」
「本気で」
「叩いておられました」
「いったいあなたは」
「大変強かった」
「なにをしたのですか」
俺の地獄耳は他人の立ち話を吸収してしまう。
俺はスーツからワイシャツだけを抜いた状態で、
ワイシャツの店の前に立っていた。
俺の革靴の、右爪先の、
カブトムシの尻みたいにまるっこいところから数センチ離れた位置には、
ムスクちゃんが残していった残滓を転がしていた。
この残滓がブドウの実に似ていることを、
俺はけしてみとめたくなかった。
もしみとめてしまったら、
俺はこの先しばらく、
ブドウを食べられなくなるからだ。
干しブドウも無理だな。
「強ければ、強いほど、いいのです」
男たちが話しているので、
俺は体を動かしてはいけないような気がしてくる。
頭を動かして、
アーケードの先に目を向けたいと思うけど、
俺が動けば、
男たちが話を止め、俺の方に向くかもしれないとかんがえる。
それがなんとなく、
いけないことのような気がして、
俺はトルソーの真似をして、足元に目を落としたまま、
ムスクちゃんの残滓が干しブドウに変わっていくのを見つめる。
「叱るときは、強ければ、強いほど」
アーケードの遠くから、
なにか別の風が吹いてきたように、俺は感じた。
頬にあたるその風がさっきよりも生ぬるく感じたのは、
汗が引き、俺の体温が下がったからだろうか。
「痛かったでしょうなあ。苦しかったでしょうなあ」
「あなたは」
「センセイ」
「なにをしたんですか」
ショーウインドーの端っこには、
水入りのグラスが置かれてて、
その水が、だいぶ減っているとこから考えると、
このアーケードにはつねに風が吹いている。
乾いた空気がグラスから、水を吸い上げて、
グラスの内側にカルキの白いシミだけを残す。
グラスに残った水が濁っているのは、
風のなかになにかが含まれているからかもしれない。
それは、風がグラスに、
吸い上げた水の代わりに差し出したものかもしれない。
この男たちがいつからここにいるのか、
それはあまり俺には関係がない。
もしかするとこいつらは、
俺がここに来る前からここにいて、
ずっとこうやって、
延々ひそひそと、話し続けていた。
こいつらは、自分たちがやるべきことを
やってるだけだ。
すぐ隣にいたとしても、
やつらにとって俺はトルソーと同じで、
だから俺は、自分から動いてはいけない。
こいつらの話していることは、
ワイシャツに関係ないかもしれないけど、
こいつらの話を聞けば、
ワイシャツを手に入れられるような気が
俺にはしていた。
それが、
このアーケードの
規則のような気がしていた。
「しかし」
片方の男が、言い淀んだ。
「なんですか」
もう片方が、せかすように尋ねた。
ひゅううという音が、耳の横を通り過ぎ、
それは俺の耳たぶに
生ぬるい感触を残した。
ショーウインドーの中のトルソーは、
ワイシャツの長い袖を
後ろ手に縛られている。
俺は、動かないようにして、耳だけそばだてる。
「どうしたのですか」
せかした男は、声を低め、
「実は」
応える声も、一段低くなった。
秘密めかしたの声音が、
アーケードの天井を、一段低く薄暗く、ととのえなおした。
通路はちょっと狭くなり、
そのせいで、
壁の内側から一匹、どぶネズミがあぶりだされ、
突然のことに、
ネズミは慌てふためいて、
シャッターと地面とのすき間の溝に身をひそめる。
だけどじゅうぶん隠れきれてなくて、
溝の暗がりから、尻尾の先がちょっと見切れて、
その尻尾は小刻みに震えていた。
「わたくしは」
片方の男が言った。
「あのセンセイに、もう一度叱られてみたいのです」
「もう一度?」
「ええ、願わくば」
ネズミがついと走り出した。
「しかしてそれ、もはや叶わぬ夢」
男が言った。
「時すでに、遅し」
通路に沿ってつくられた溝を通路にし、
ネズミはときおり軽く跳ねながら、
一直線走り去っていく。
「そりゃそうだな、あなた」
もう片方が言う。
「そりゃあ、そうだ」
ネズミ本体は、とっくにどっかに行っちゃったんだけど、
指揮棒みたく小刻みに震えていた尻尾が、
突然静止して、
いきなりどこかに走り去ったので、
俺はその尻尾に、
なにかを引っこ抜かれた気がしてならなかった。
それはたとえば、
セーターから飛び出た毛糸をちょいと引っぱって、
引っぱれば引っぱるほどセーターがなくなっていく感覚にも
似ていた。
俺はほどけていき、
かわりにことばが立ち上がってきた。
ワイシャツ。
セーターが毛糸の山に変わってしまう寸前、
俺は、つんのめるようにして歩き出した。
「あ、ちょっと」
うしろから声がしたけど、
ばらばらにほどけてしまわないよう、
俺は歩かなければならない。
「ワイシャツのないおにいさん!」
俺のことだけど、俺は振り向かなかった。
立ち止まれば、毛糸がほどけてしまうから。
振り向くことは、必要なかった。
誰が呼んでるか、もうわかってれば。
「あんた。ちょっとあんた!」
男の声がアーケードのシャッターに響いた。
「ワイシャツだろ?」
もう一人の男も加勢した。
「『つうの店』に行きなさい」
声が、俺の背中を押した。
(続きます)
