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短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(49) 読めないシグナル

これまでのエモ山


「とくべつ…」

と、俺の目の前で沼田がつぶやいた。
紙ナプキンで拭っていたメガネは、とうに、
えんじ色のテーブルに転がっている。
レンズについた油は虹色に広がり、ここから先は、
どれだけ拭いても虹色が広がっていきそうな状態。

「…てあて……」
俺の隣でニックの目は、中空を見つめていた。
黄色い麺を何本かつまみ上げたまま、割りばしは止まっていた。
その唇は、「エ」のかたちでたわんだまま動かない。

「エモ山君」

ニックの口の「エ」のかたちを引き継いだみたいに、
いーだ課長が俺を呼んだ。

特別手当というワードで彫像化した沼田とニックのかたわらで、
いーだ課長だけは別の時間軸にいた。

課長の割りばしはどんぶりのふちに渡されて、組み合わされた両手はどんぶりのかげに隠れていた。
見れば課長のラーメンは、メンマやら、ホウレンソウなんかだけはきれいに消え、麺だけが残されていた。

「エモ山君」
いーだ課長は、アルカイック・スマイルを俺に向けると言った。
「戦争が、起きているね」

「はい?」

どこで?

ここで?

って、思ったから、俺の「はい」にはクエスチョンマークがついた。

けど、戦争はいつでもどこでも起こっているから、
クエスチョンマークはつけなくてもいいかもしれなかった。

「そうだわ、起きてるわ」

いーだ課長のことばに、
沼田がにわかに目を覚まし、あとを受けた。

「だな」

ニックも息を吹きかえす。

沼田は俺を見ながら、
手探りでテーブルから取ったメガネをきゅっとかけた。
「戦争の話をしましょう」

黒ぶちメガネのレンズは油膜で薄く虹色だった。
「戦争が、起きてるわ」
沼田も割りばしを取った。
「遠い国で」

「戦争は、だめだ」
ニックが真面目な顔をして言う。
「俺は戦争が嫌いだ」
うなずいて、麺をすする。

自分に聞かせるためみたく、
沼田とニックは、大きな音を立て麺をすすった。

汁を飛ばし、ラーメンに吸われていった。

その様子をいーだ課長は、背もたれに体を引き、腕組みして眺め、
そのいーだ課長を、俺は眺めてたわけだけど、
俺はじゃっかん、食欲をうしなっていた。

ラーメンは見た目以上にこってりしていたから。

手の甲で口を拭うと、
口のまわりはラーメンの油でぬらぬらだった。

俺は立ち上がり、店の端っこにある給水機へと向かった。

給水機の上の壁には、更年期啓蒙ポスターが貼ってあった。

俺は半透明のプラスチックコップに水をそそぎながら、
ポスターを見上げると、
立ったまま水を飲む俺に、啓蒙美女が微笑みかけてきた。

水はなまぬるかった。

もうちょっと冷たければ、
口の中のこってり感をすっきり流してくれただろうけど。
なかなか消えない油の感触は、遠い国の戦争みたいだった。

「そんなことは関係ないのよ」

テーブルに戻ると
ニックと沼田が、メニューを見ながら話していた。

ニックが文字を指さしている。

替え玉一回無料

「あたしは替え玉する」

沼田は手を挙げて、白衣のおっさんを呼ぶ。

「じゃ、俺も」

テーブルにやってきたおっさんに、ニックも手を挙げる。

「バイトが来ねえもんで、洗いもん増やしたくないもんで」

白衣のおっさんが、沼田たちに言った。
「替え玉の麺、直接どんぶりに入れちゃいたいんだども」

どんぶりを2つ持ち厨房に帰っていくおっさんを、
沼田がいつまでも目で追う。

「一緒に持ってかれちゃうとさ」
沼田が頬づえつき目を細め、厨房を覗き込むようなしぐさをした。
「どっちのどんぶりか、わかんなくなっちゃうと思うのよね」

「それ、困る」
ニックも厨房を見やる。
「間接キスになっちゃう」
「やだわ」
「まじでやだ」

沼田とニックが厨房のおっさんに目を凝らす横で、
いーだ課長が、俺をじっと見てきた。

「エモ山君」
課長が言う。
「ここのラーメンは、そんなにうまいのかい?」

「そっすね」
俺は答えて課長のどんぶりをチラリ見る。

課長の食べなかった黄色い麺たちは、すでに汁を吸い、透明感を失い、
けだるげに絡み合っていた。

「いや」
俺は自分の食べ残しに目をおとす。

「そっすかね」
あともうひと吸いかふた吸いくらいで食べ終わりそうだけど、
俺はもうそれを食べようとは思わない。

遠くから視線を感じてつと目を上げると、
啓蒙ポスター美女が、まだ俺を見ていた。

わたしが更年期になっても

だから何?って聞いたって、こたえるわけない。
それは誰にもわからない。

替え玉がやってきて、
沼田とニックはそれを吸う。
すぐに腹が減るのに、満腹になるまで食べ続ける。

暖房のきいた店は、気が遠くなるようなあたたかさ。

上昇気流が俺たちをふわりと浮きあげて、そのまま上へと持ち上げていこうとしてるみたいだった。

俺たちは、店ごと現実ごとゴムみたく縦に伸びていった。
虹色が、7色のレンジ幅をそれぞれに拡張させ円状に広がって、
音を消していった。

湯気の上がる、あたたかい店の窓はぴたりと閉じられて、
窓のガラスは古びてすこし白っぽく、
いつ死んだのかもわからない羽虫が貼りついていた。

壁の啓蒙ポスターは、
誰にも伝わらなくとも一向に困らないって無責任さで、
笑顔も文字も、ポスターに閉じ込められ、
それを見て誰が何を知るんだろうってくらい、
死んだ羽虫と同じくらい単一の情報しか伝えてこなかった。
ポスターってのは、
それをいつまでもいつまでも、繰り返すのが役割だからだ。

わたしが更年期になっても
わたしが更年期になっても
わたしが更年期になっても………………………………………………………

いつまでもいつまでも繰り返す。
誰も聞いてないのに、繰り返し続ける。

尻切れトンボのことばには、
延々と
時間の点が続く。

点々が聞こえるような気がして、
それが俺をいらだたせた。
丸ポツは、どんどん増えていき、聞こえないノイズに変わっていき、
いつの間にか俺たちの中に入り込む。

俺は思った。

俺たちも、
それだけなのかもしれない。

無限に増えゆく丸ポツノイズに埋もれていくだけかもしれない、
その途中なのかもしれない、と。

俺はラーメンの油に胸焼けし、なまぬるい水をもう一度飲もうと
立ち上がりかけたけど、
満腹感が、俺の体を重たるくしていた。

油が湯気が、
俺を曖昧なものにしていくような気がした。

「エモ山君」
いーだ課長の声が聞こえた。
「約束しては、いけないよ」

がしゃこんしゃっ。

俺を引きずり下ろしたのは、
厨房で、おっさんが中華鍋をふるう音。

熱した油でなにかを炒める音。

俺は目を開けて厨房に向いた。

がしゃこんしゃと炒めてるそれは、
油でてらってらになった緑と赤のピーマン。
あとなにか、タケノコの細切りのようなものが、
跳ねあがり、落ちていき。

がしゃこんしゃっ。

お玉で一気にたぐり寄せられて、
俺はその音に肩を強く掴まれて、
ノイズの渦から引きずり出された。

(続きます)



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