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短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(68) 実存の侵食 / The Erosion of Existence

これまでのエモ山


事故でバイパスは渋滞し、
その朝、俺たちは、
バスに閉じ込められていた。

ハンドルに肘を乗せ、
身を乗り出し事故を見つめるドライバーの背中を、
俺たちは、
判決を待つように見つめていた。

木の数珠でできた背あてみたいなものを
椅子の背にくくりつけ、
ハンドルにも木目模様のカバーをつけて、
運転席を、まるで自分の部屋みたいにしつらえている
いつものドライバーが、
その事故を、
いちばんいい席から眺めることができていた。

俺は、そのドライバーと
口をきいたことがなかった。
名前も知らないし、
顔もろくに見たことがない。
ドライバーは二人いて、
このドライバーが、
その片方であるということくらいしか、
知らない。

O井町駅と「利害関係調査委員会」を巡回するバスが二台あることは、
ドライバーの顔じゃなくて、
俺は、
運転席にしつらえられているシートの違いで見分けていた。

さっき、
急ブレーキが、
「利害関係調査委員会」に向かう俺たちを
通勤前のまどろみから目覚めさせたばかりだった。

俺たちは、20人ばかしが、
それぞれの席でそれぞれ、
ゴムに引っぱられ、そのあと手放されたみたく
背もたれに打ちつけられ、

だけどその様子はまるで、
プラスチックのコンテナが乱暴に積みあげられたとき、
中の空き瓶が、
ガチャンと揺れるさまとそっくりで、

その揺れのあと俺は、
あのコンテナが、「通いバコ」と呼ばれていることを、
思い出す。

運ばれていた俺たちは、
急ブレーキに一皮むかれたようだった。
衝撃の瞬間沸き上がった恐怖が
かすかな苛立ちにかわり、
手近な相手に顔を向け、
苛立ちの炭酸を抜こうとしたけど、
相手側からもおなじものがくるので、
炭酸は抜けきらない。

それでぱたりぱたりと、
ひとりひとりドライバーに目を向けはじめ、
いまやその背中は
俺たちの注目の的だった。

「ずいぶんと」
どこかの座席で誰かが言った。
「大きな音がしたわね」

「事故だな」
別の誰かが答え、
うなずき合う空気がただよって、
知らん顔していたやつも、スマホから目を上げる。

行先は同じでも、
俺たちは、見知らぬ者同士だから、
俺たちは、空気を介してやりとりする。
誰かがなにか言えば、
誰かがなにかをこたえるけど、
それはけして
自分を明かさないことで成立させる会話。

「車同士かしら」
「バイク」
「バイク?」
その声に、
若い男が、耳からそっとイヤホンを外す。
「宅配の」
「ああ」
深いため息が漏れ、
若い男がイヤホンを耳に戻そうとしたそのとき、

「ちがうわ」
俺の隣の女が、
シートをぎゅっときしませた。

女は自分の前の背もたれに、
しがみつくようにして、背筋を伸ばした。

「カートだわ」
車内全体に聞こえるよう、女が声をあげた。
「観光用のゴーカート。最近よく見る、小さな車」

女は白い不織布マスクをつけていた。
「あれがずっといたんです。外国人。4台行列して、」

俺は窓から前方を覗いた。
バスの数台前、車同士のすき間、ずいぶん低い位置に、
三角形の青い旗が見えた。

ちろちろ揺れる青い三角旗の先が、斜め下を向いていて、
その向きが、見慣れたものではない気がする。

「これ、しばらく動かないかもな」
どこかで言う誰かの声が、やけにおびえて聞こえた。
大きな舌打ちの音がして、
「観光客!」
別の誰かが吐き捨てた。

ドライバーの背中は、
固まったまま動かなかった。

救急車のサイレンは、まだ聞こえてこず、
俺は腕時計を見る。

デジタル表示がチッカチカ動くのが、
その時だけ、
ニックのチッカチカに思えてくる。

シフト表のいーだ課長の欄に、
「出」の文字があったか思い出そうとして、
万一その文字が、「外」または「休」だった場合の
ニックが振り回す、タモの音なんかを考えてみたりして、

「休みたい」

と思いながら、座席に沈み込む。

行く先が同じ俺たちは、
動かないバスの中、
たぶん同じことを考えた。

もうすぐ始まっていたはずの
仕事を思い浮かべていた。

行く先が同じだから、
誰かの気持ちの中にある苛立ちは、
簡単に嗅ぎ取れてしまう。

ピリついたような表情に混じるのは、
間に合わないことへの困惑だけじゃない。

それは、
始まると思っていたことが、
始まらないと気づいて、
いったん、道で立ち止まり、

波が壁にあたって、
返って来るみたく、

どこ行くんだっけ?
どこ行こうと思ってたんだっけ?
約束なんか、あったっけ?

っていう、変な疑念みたいなものが、
自分の中に
さざなみみたく広がってきたことに
ただただ当惑する顔。

どこ行けばいいんだっけ?
どこ行こうとしたらいい?
約束なんか、あるはずなくない?

腹のなかににじみ出る焦りは、
自分がただ
通いバコで運ばれているだけってことが
わかりかけた時に出る汁かもしれなかった。

ドライバーは、この点でだけ、気楽だな。
俺は思った。
車列が動かなければ、
背中を固めたままでいられるから。

白いマスクをつけた
隣の女は、
前のシートにしがみついたままだった。
「走りながら叫んだり、立ち上がったりして」
マスクの女が俺に向く。
「すごく危ないと思ってたんです」

「え?」
なんの話? って思ったら、
女はまだ、ゴーカートの話をしているのだった。

「ああいうの、わたしほんとにだめ」
浅く息をつく。
「怖くて見てられない、…って言いながら、見てたんですけど」

マスクの下でくすりと笑う。
「そう思いませんか?」

そう言って俺の目を見たので、
俺は居住まいをただし、席に座り直してこたえた。

「あ、」

ずっと黙ってたから喉ががらっついてて、
変な声が出たので、
咳払いして仕切り直し、こたえた。

「あ、はい」

女はバスの中ですでに
「利害関係調査委員会」の入構証を
首から提げていた。
カードに印刷された顔写真は、
顎が細くて尖ってて、
俺はマスクの下にその顎があることを、
女の実際の顔に思い浮かべる。

「私」
俺の視線に気づき、女は入構証を
俺の目の前にかざす。
「こういうものです」

総務局 カゼシロ渚

「あ、はい」
俺がこたえると、
カゼシロ渚のマスクの上の目が、
弓型にたわんで、
まぶたに塗った薄青が、きらめいた。

いつものバスだから、
顔ぶれなんかは大して変わりないんだけど、

カゼシロ渚は、それが初見というか、
入構証の写真およびその実際の顔面は、
マスクをしていても、
一度見たら覚える。

こんな人を一度見たら俺が忘れるはずはないので、
たぶん絶対初対面。

総務局という部署が、
いったい何をする場所なのか、
俺にはわからないが、
日給3万円の俺とは身分が違うことは明白だった。

「しあわせを語りたい」

俺の頭には、突如としてそのような言葉が浮かび、

俺は、
ときどき街角で見かける、
パンフレットを持ち、
一日中突っ立っている勧誘の人が、
一日中浮かべている笑みのようなものが
自分の頬に生まれるのを感じた。

そして考えた。

あの笑みはもしかすると、
時間を止めるためにするものなんじゃないか。
浸っていたいときの顔なんじゃないか。
浸っている水を、
にぎりしめようとする顔なんじゃないか。

歯ぎしりみたいなサイレンと、
道を開けるように指示するスピーカーの声が近づいてきて、

ばちこん。

車内で大きな音がして、
それは、
運転席で固まっていたドライバーが、
ペダルを踏み、シフトレバーをはたいた音。

うしろを振りかえり、
片手でハンドルを、動かして、
バスはじわっと斜めにバックして、
ドライバーは前を向き、
がしゃくしゃと、大急ぎでハンドルを戻す。

その繰り返しで、
ドライバーは、
バスを使い、俺たちの体を左右に揺らした。

俺は揺るがされ、
自分が通いバコにいることを思い出す。

サイレンの音が近づくにつれ、
結束が解けていくように、
乗客は他人に戻っていった。

みんなそれぞれそっぽ見て、窓に頬をすりつけ、
近づいてくるものを待ち受け、
知らん顔だったやつは知らん顔に戻り、
若い男はうつむいて、イヤホンを耳穴にひねり入れる。

海を分けるみたく
救急車が通り過ぎていった。
そのあとを消防車とパトカーが追ってきているのは、
音でわかった。

カゼシロ渚が、
バッグを胸に抱えた。
黒い革の、高そうなバッグだった。

カゼシロ渚が、
そして俺に言った。
「降りませんか?」

カゼシロ渚は、
あたりをそっと見渡してから、俺に顔を近づける。
「降りましょうよ。降りるなら、今だと思う」
秘密を囁く言い方だった。

「パトカーが来ちゃったら、しばらく動かしてもらえないかも」

カゼシロ渚の眉間はまっさらで、
それが俺に、
ビキニの間にある、まっ平らなおなかを連想させた。

「今?」

俺は、
今っていうことばを、
奇妙に感じた。

ここは、
すでに仕事に入っているはずの時間。
動けなくなったバスの中の、
エアポケット。
俺たちは、ここで、
なにもできないはず。

「行きましょ」
すでに席を立っていたカゼシロ渚が、
俺のワイシャツをついと引っぱった。

「あ、はい」

俺は、引っこ抜かれた。

(続きます)



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