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短編小説「ラムシャックル夫人―Ghost of the Honky-Tonk」前編

そのほんとうの名を知るものはいない。
「ラムシャックル夫人」と呼ばれる女の幽霊が、ソールズベリーのはずれの屋敷にあらわれる。
過去と現在、音楽と亡霊が交わる小さな物語。

ラムシャックル夫人というのは彼女の通称で、本人がそう名乗ったわけではない。

日本語に直訳すれば「あばら家夫人」と呼ばれるその女性はイギリス郊外のソールズベリー地区に建つ古い屋敷にあらわれる。

ソールズベリーといえば、ストーン・ヘンジで知られた場所だ。ロンドンから約130㎞の場所にある古い町。一年中雨がよく降り、天気予報はいつも「くもり」。灰色の石造りの水路が碁盤の目のように張り巡らされた街並みは13世紀に造られたもので、現在でも当時の生活の様子が色濃く残る。

屋敷はその街のはずれに建つ。
町の中心から続く石畳の道を北西に進むと道は徐々に悪くなっていく。
四角い石が敷き詰められた道は石の間に雑草が生い茂り、その頑強な根っこに地中から突き上げられた四角い石は耐え切れず、あちこちでぼこぼこ浮き上がりはじめる。灰色の石畳はやがて、緑色の波に浸食され消えていく。
その先に屋敷は建つ。

ソールズベリーに建つ以上、石造りであることは言うまでもないが、屋敷は長年蔦に覆われ、蔦の侵食にその体をゆるしている。
黒っぽい緑色の葉の間に垣間見える窓ガラスが太陽光をはねかえすのは夕方のごく短い時間だけ。夜になれば真っ黒い巨大な影となる。風が吹くたびに蔦は震えオペラ会場の観客がささやきあうようにざわめく。

いつぞやの火事により内側から燃えた屋敷には、消火のためつるはしで叩き壊された壁の穴から誰でも入り込むことができる。
穴付近は吹き込んだ落ち葉に埋め尽くされそこに小鳥の死骸なども混じる。蔦に窓を塞がれた屋敷は昼間でも夜のように暗く足を踏み入れれば時間の感覚を失う。冷えた湿り気が全身に貼りつき自然と足取りは重くなる。

遊戯室は二階にある。荒れ果てた屋敷の中でこの部屋だけはわずかに、侵食や衰えから遠ざけられているように見える。黄色い蔦模様の壁紙。壁と天井の境目を縁取るコーニスは懐中電灯の光に鈍い金色の光を返す。部屋の端に置かれたグランドピアノは天板が開かれたままになっていて、むき出しになった象牙色の鍵盤にはほこりひとつなく、最後に弾かれた音の響きをまだ引き延ばしてでもいるかのように、黒鍵はもったりと艶やかだ。

噂は、はるかむかしからあった。あの屋敷には幽霊が棲みついている。遊戯室のピアノの前にあらわれる。美しい女の幽霊。胸元の大きく開いたオフショルダーのドレスを着ている。

どこにでもありうる幽霊話。たいていは、退屈な日常に別の味わいを添えるための想像の産物。ただのあばら家も、幽霊がいると思って見てみれば、違うものに見えてくる。
場合によっては町おこし。観光客狙いの捏造もありうる。

けれどもここはソールズベリーだった。ここにはすでにストーン・ヘンジがある。紀元前の巨石建造物という莫大な遺産、大きな強い光を持つこの町に、ちっぽけな幽霊話をいまさら添えるメリットが、いったいどれくらいあるだろうか。

そしてまた注目すべきなのは、この話を他の幽霊話と区別するディティールだった。幽霊が頭を日本髪に結っているという特異な描写。
これについて、誰がどう結論付けることができるだろうか。
これがラムシャックル夫人だった。
おそらくは日本人だろうと憶測されるのは単に彼女の髪形からだけで、それ以外の証拠はない。
彼女のほんとうの名前は誰も知らない。

彼女はただの、イギリスではよく見られる、なんの変哲もない幽霊のひとりだった。
見える人には見える。ときおり写真にもうつりこむ。割れ窓のひびから入り込む夜霧か、壊れかけたピアノに覆いかぶさる影のようにうつるだけの幽霊。

見る人によっては、切れ長の瞳、赤く塗られた唇や、黒いシルクのドレス、そこに施された刺繍まで見えるという。彼女が身じろぎするたびに、絡まり合う蔦模様が月光を反射して銀色に輝くともいう。豊かな髪を大きく結い上げているせいで、彼女が首を傾げるたびに、華奢な首筋は折れてしまいそうに見えるらしい。赤いガラス玉の揺れるかんざしは二本。かんざしのガラス球は鈴のようにつねに震えているという。

それでも彼女はただの、無名の幽霊だった。
とある日本人により、とある歌の中から発見されるまで。
歌の発見により、墓は掘り返され、真新しい土と共に棺の蓋は開かれた。
それは、ごく最近のことだった。

その発端はアメリカだった。南部ミシシッピ州にある世界最大のブルース音楽のアーカイブ施設『The Blues Archive, University of Mississippi』。ある日ここを訪れた日本人がいた。アメリカ在住のブルースマニア、音楽研究者の男だった。研究のため、自身が運営するブログ記事執筆のため、つね日ごろから、彼はこの施設を訪れていたという。

貴重な音源資料は、一度きりしか再生できない。デジタル移行の完了していない音源は、アナログで保管されているためだ。
再生は、狭い防音室でスタッフの付き添いの上で行われる。素材の劣化を防ぐため、防音室内での会話は禁じられている。
白手袋をつけた顔見知りのスタッフが、重々しくスイッチを入れたあとのことだった。オープンリールが回り出し、砂混じりのようなアナログの音源が再生されたそのとき、日本人マニアは思わず、驚きにうめき、厳しい顔をしたスタッフから目でたしなめられることとなった。

『Ms. Ramshackle―Ghost of the Honky-Tonk(ラムシャックル夫人とホンキートンク・ピアノ)』。それがその曲の名だった。マニアの驚きの理由、それは歌のことばだった。英語で歌われるその古いブルースの中に、マニアはたしかに日本語のひびきを聞き取った。
傍らのノートをひっつかみ、マニアはあわてて歌詞をメモした。

その晩マニアは、興奮の語調で、SNSにこんな投稿を行った。

Found an unidentified blues reel today at The Blues Archive (Ole Miss). Handwritten label says “Ms. Ramshackle – Ghost of the Honky-Tonk.” The track is in English, early 20th century, but—there are words that don’t belong. I heard “shinsya,” “kuchinashi,” “moegi.” Japanese? Or just my ears?

(きょう、ミシシッピ大学のブルース・アーカイブで、正体不明のリール音源を見つけた。
手書きのラベルにはこうある。
「Ms. Ramshackle – Ghost of the Honky-Tonk(ラムシャックル夫人とホンキートンクの幽霊)」
英語で歌われた古いブルース――おそらく20世紀初期のもの。
だが、その中に、場違いな言葉が混ざっていた。
「しんしゃ」「くちなし」「もえぎ」
日本語? それとも、聞き間違いだろうか。)

投稿への反応は、マニアが期待するほどではなかった。
それもそのはず。そもそも世界には、ブルース愛好家が少ない。なおかつその年齢層は高く、SNS利用者が多いとは、けして言えない。
だからその導線はどこにもつながらなかった。リプライはおろか、ハートマークひとつつくことはなく、マニアの興奮は、数日間、彼の中でだけひたと燃え続けることとなった。
必要なのはハートマークではなかった。
彼が必要としていたのは情報だった。
この歌は、いったいなんなのか。

アーカイブに残された資料には、タイトル以外の情報は残されていなかった。録音されたのは1920年。ブルースとは口承文化である以上、古い音源には楽譜すら付随しない。アーカイブでは音源の録音や貸し出しは禁じられており、マニアの手にあるのは一度だけ聴いた歌の記憶、ノートに殴り書きした歌詞だけ。
マニアは歌詞を読み返し、日本語部分の旋律を幾度となく繰り返した。
自分で口ずさんだものを録音した。
それはこのような歌詞だった。

しんしゃ くちなし いわぬいろ
もえぎに つきそめ わすれがみ
もものみ くちびる すみれのか
こころ おばなの かれすすき
ももとせ もどれぬ とおつくに

まるで呪文のようだった。
もしもその歌詞が、本当に呪文であるならば、マニアが繰り返すたび、それは力を持つだろう。
マニアがほんとうに、それを呪文と信じれば、力はだんだんと強くなっていくだろう。

あとから考えれば、すでになにかが始まっていた。
マニアが歌を見つけた時、その曲を耳にしたとき、あるいはその歌詞をメモした時、歌詞を呪文のように唱え始めた時、すでになにかは始まっていた。

つながらないと思った線が、つながったのをマニアが知ったのは、投稿から数日後のことだった。
マニアの投稿に、一人のソールズベリー在住の音楽愛好家が反応し、リプライしてきたのだ。

Those words — I’ve heard them before.
A woman sings them near Salisbury, they say.
In a ruined house.

(その言葉……前にも聞いたことがある。
ソールズベリーの近くで、ある女がそれを歌っているらしい。
壊れた屋敷の中で。)

(明日の後編に続きます)


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