短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(59) 塩を撒く女
前回のエモ山
と、言われましても、
『つうの店』というその店が、
どこにあるのか、俺は知らないのだった。
ネズミが引っ張る俺、
引っぱられ、ほぐれていくセーターとしての俺は、
引っぱられ、毛糸に戻っていきながら、
アイボリーと灰色のモザイク模様の、
歪んだシャッターの並ぶアーケード街を、
目指しているのかいないのか、
自分でもわからぬまま歩いた。
もしも俺が、『つうの店』を目指しているのなら、
俺は進んでいるし、
たどり着かないのであれば、
止まっているのと同じ。
長い長いアーケード街だった。
俺のはるか後ろで、
俺に『つうの店』を教えた男たちが泣いていた。
いや、実際に俺が、男たちが泣くのを見たわけじゃない。
泣いていたのは、俺の記憶の中でのみ。
だけど、泣いていた。
同じ話を繰り返し、
湧き上がるものをこらえることできず、涙を流していた。
たどり着かないのであれば、
止まっているのと同じだった。
しかし俺は仕事に行かねばならんので、
先を急いでいた。
一刻も早く、
ワイシャツを手に入れなければならなかった。
喫茶店のなれの果てのような、
かつてはおそらく喫茶店だったとおぼしき、
茶色い店の前に人だかりがしていた。
10人ほどの男女が、
円陣を組むようにして、立っていた。
あの人たちに訊いてみるのもいいかなと、
そちらに向かって歩いていると、
喫茶店の向かいのシャッターが、
大きな音を立てて開かれた。
半分開いたシャッターをかいくぐって出てきたのは、
着物の女。
緑の地に金糸の刺繍が入った、
豪奢な着物だった。
黒い帯が、
きりっと結った黒髪と同じくらいつやつやとしていた。
シャッターから出てきた女は、
喫茶店前にたむろする男女に、
つかつかと歩み寄った。
女は片手に味噌汁椀を持っていた。
椀には白いものが山盛り。
女はその白い山盛りに、
もう片方の手を突っ込んで、つかみ取り、
男女に向け、白いなにかをぶん投げた。
しぶきのように、白が舞った。
アイボリーと灰色のモザイクを背景に、
女の投げた白いものが、
薄暗さのなかにある、わずかな光を反射して、
虹色に光った。
女の投げ方は、
豆まきのような、
豆まきにしては、やけに力がこもっているというか、
至近距離から大きく振りかぶったので、
その勢いに、俺はつと、立ち止まる。
俺の中から毛糸が、
ぷつぷつとほぐれていった。
デジタル表示のストップウォッチの数字が変わっていくのと
同じリズムと速さで、
ぷつぷつと、
セーターが、ほぐれていくのがわかった。
白いものを撒かれた男女も、
驚いたように身を固くし、
あるいはあとじさり、
一斉に、ぎろりと女を見た。
すると女はもう一度、
椀からつかんだ白いものを、
男女に向けて撒く。
撒く。
撒く。
女の手から放射状に広がった白いものは、
それが描く放物線の延長線上で一番至近距離にいた、
ひとりの男の顔面を、直撃し、
男はきゃんと声を上げ、顔を覆い、その場にしゃがみこんだ。
「目が!」
しゃがみ込んだ男が大きな声を出した。
「目がああ!」
俺はその一部始終を、
立ち止まって見ていたわけだが、
その間も、俺の中からは、
ぷつぷつ。
毛糸はほぐれていっていたわけだが、
あ、
これはいつまでも、
立ち止まっていてはいけないな、
関わってはいけないな、
遠ざからねばいけないな、
ということで、
俺は、なにごともなかったかのように、歩き出した。
立ち止まっていたあいだに
ほぐれてしまった分を取り戻すべく、
速足になっていた。
女がもう一度、
椀に手を突っ込んだ。
そのすきに、
俺は女の背後を通り過ぎようとした。
ささっとね。
すると女の手が伸びてきた。
キャッチボールで球を受けるかのごとく、
女は見もせずに、
俺の顎をつかんだ。
俺は瞬間のけぞって、
足だけ前に進んだが、
しかしその力、思いのほか強く、
骨ばった手が、
俺がその先に上半身を進ませることを、許さない。
俺の顎をつかむ女の手には、ざらざらしたものがついていた。
それは俺に、
砂をさらう仕事を思い出させた。
女の指先が、俺の唇にあたっていた。
そこからじんわりと、味がつたわってきた。
「塩、撒いてやってんだよ」
女が俺に言い、俺はそのことばで唇に感じた味の意味を知る。
俺の顎をつかんだままの、
女の指が伝えた味は、たしかにしょっぱかった。
「見てみなよ、にーちゃん、こいつらを」
俺の顎をつかんだ女の手に、力がこもり、
俺の顎は動かされ、俺の目は無理くりに、男女の方を向かされた。
しゃがんだ男を取り囲み、見下ろす男女が、
ゆっくりと頭をもたげ、俺を見返した。
「塩、撒いてやってんだ」
女がもう一度言い、
椀を持った手を大きく振りかざした。
椀からぶちまけられた塩は、男女の上に、
シャワーのように降り注いだ。
それを男女が見上げるが、
全員、その顔に笑みをうかべているのだった。
塩が笑顔に降り注ぐ。
笑顔のまま、男女が固く、目を閉じる。
「ぼくたちは」
しゃがんでいた男が立ち上がった。
肩から気ぜわしく、フケでも払うように塩を落としながら。
「あなたに迷惑は、かけてないじゃないですか」
その目は、塩のせいで真っ赤に充血し、
しかし、笑顔なのだった。
両方の口角が肉厚の頬骨に刺さりこみ、
頬の肉を持ち上げて、両目を弓型に細くしていた。
そこから類推されるのは、
笑顔。
「そうよ」
男女の誰かがつぶやくのが聞こえたけど、
全員の口角が上がり、横に伸ばされた唇が、
わずかに開かれたまま硬直していたので、
誰かが奥歯あたりで、そう言ったのはたしかだったのに、
誰が言ったのかは、さだかじゃない。
「うちの前でそれやるんじゃねーっていつも言ってんだろーがボケカス」
塩を撒いた女が答える。
しゃがんでいた男が言う。
「ここは公道ですよ、おばさん」
言いながら、ふっと笑ったので、
頬にこびりついていた塩が、ぱらりと落ちた。
「コード―だろうーがなんだろーがここに来んなってんだ。何度撒かれりゃわかるんじゃこのボケカスが」
塩撒き女は早口だった。
言いながら、味噌汁椀を振り上げる。
「うちの儲けが塩のお代に消えるんじゃこのボケカスが」
「といってもなあ」
男は言った。
「ここはみんなの場所だし、とくにここは」
と、男は、笑顔で地面を指さす。
「ぼくたちの、たいせつな場所でもあるからな」
「そうよそうよ」
笑顔の誰かが応戦した。
「ぼくたちは」
男が言った。
「ここがいいのです」
「そうだそうだ」
「権利があるのです」
「しあわせになる」
「権利が」
「義務が」
「みんなしあわせになるのです」
「笑顔で笑顔で」
「しあわせに、なれるのです」
全員が顔に塩をまぶされ、
しかし笑顔のまま、腹話術のキーキー声でこたえた。
「うっさいんじゃボケカス。まだ足りねえってか」
塩撒き女は吐き捨てて、
俺の顎から手を離した。
それから女は、
持っていた味噌汁椀を俺の腹に、どすんとつきつけて、言った。
「塩のおかわり持っといで」
女が顎でしゃくった先に、振り向くと、
女が出てきた半開きのシャッターの内側に、
「塩」と印刷された、米袋みたいな、茶色いでかい袋が置いてあった。
ここは従っといたほうがいいだろうと、
俺は味噌汁椀を受け取って、塩のおかわりを取りに行った。
シャッターの内側は、
コンクリの土間みたいな場所で、
そこに塩の袋は置かれていた。
厚紙製のがさがさした袋の口は開かれていて、
内側の防水加工がぬめっと弱く光っていた。
袋の口は、紙がくるくると巻き下ろされてあって、
折りにくい厚紙が、ズボンの裾みたいにきちんと折られていた。
それを見るかぎり、
それだけで判断しちゃいけないかもしれないけど、
俺には、この塩撒き女がそんなに危険じゃないようにも思えた。
俺は味噌汁椀を塩に沈めた。
塩はざらざらで、少しべたべたしていて、その感触で、
俺はまた、砂さらいの仕事を思い出す。
俺は自分が、
あの仕事をけっこう気に入ってるってことに気づいた。
だから、ワイシャツを早く手に入れなくちゃ、と思った。
「早く持っといで!」
女の声にせかされ、
屈んだ姿勢から体を起こしたとき、
真っ暗な土間の奥に、障子の扉があるのが見えた。
格子状の白木の桟はまっさらで、桟に貼られた白い紙も皺ひとつなく、
暗いその土間で、そこだけ古びてないっていうか、
逆に、光っているようにさえ見えた。
まっさらな障子には、赤い貼り紙がしてあった。
決してのぞかないでください。
黒い墨で、そう書いてあった。
「おっそいんじゃこのボケカス。あいつらが入ってきちまうじゃねーか」
そう言いながら女が、土間に入ってきた。
俺から椀をひったくり、俺の視線に気づいた。
「だめだよにーちゃん」
女が言った。
「書いてあんだろ」
決してのぞかないでください。
「はあ」
女は言った。
「ライブカメラで撮ってんの。ネットで配信してっから、誰かがのぞいたらすぐわかるようになってんの」
だめだめ、と人差し指を振り、
「けっこうみんな、これ、見てんだよねえ」
親指と人差し指でMoneyの丸を作り、ニヤリと笑った。
決してのぞかないでください。
「あの中には」
俺は尋ねた。
「なにが」
女はなにも答えず、
またニヤリと笑った。
俺が飛びのいたのは、
女が俺のジャケットに手をかけて、胸元をがっと開いたからだった。
「あんた、ワイシャツだね」
俺は恥ずかしくなっちゃって、ちょっと身をよじった。
斜めに体を傾けた俺を見上げて、女が言う。
「ここが『つうの店』だよ」
「へ?」
「ここが」
「へ?」
「『つうの店』」
「へ?」
俺はあたりを見渡して、ワイシャツを探した。
その俺の慌てぶりに、女がけたけたと、高らかに笑った。
女の笑い声を聞いて、
シャッターの外にいる男女が、
笑顔のままわらわらと近づいてきた。
「ぼくたちも」
男が言った。
「中に入れてください」
「そうだそうだ」
「のぞかせてください」
「ずるいぞ」
「権利だぞ」
決してのぞかないでください。
笑顔の男女が、
中に入ってこようと、
シャッターに手をかけた。
錆びついたシャッターが、ガタガタ嫌な音を立てて揺れ始めた。
キーキー声の腹話術が、錆びついた音に重なると、
その場は急にざらつきを増した。
「しあわせに」
「しあわせになるのです」
「笑顔で」
「のぞいて」
「しあわせに、なるのです」
「うっせーぞゴラ」
女は小さく言うと、
「入ってくんじゃねーこのボケカス!」
シャッターの外に思い切り塩を撒きはじめた。
「にーちゃんも撒け!」
女が俺に言った。
「あいつらをここに入れちゃだめだ」
撒く。
「のぞかせて~」
撒く。
「しあわせに~」
撒く。
シャッターを揺らす男女の足の間をすり抜けて、
弾丸みたく、一匹のネズミが土間に入ってきた。
ネズミは塩の袋を避け、女の草履と俺の革靴の間すれすれを駆け抜けて、
土間の奥へと走り込んでいく。
その一匹を皮切りに、あっちからこっちから、
ネズミたちが湧いて出てきて、
みんな同じ方向に走って行く。
一本釣りされたみたく、
俺は引っぱられてよろけた。
見分けはつかないけど、
この大群に
俺をここまで引っ張ってきたネズミが、
いるらしかった。
俺は、
自分がまたほどけはじめていることに
気がついた。
「にーちゃんも、あっちから出ておくんな」
よろけた俺に、
塩を撒きながら、女が言う。
「障子の横っちょにさ、通用口あっから」
女は、草履で俺の足を軽く蹴った。
笑顔のゾンビたちに塩を撒くのに忙しく、手が離せなかったのだ。
通用口は鉄の扉で、
それはネズミには開くことのできない扉だった。
錆びたノブを回し、
俺がその扉を開きかけ、
扉のむこうの光が、縦一本の筋になり、
それがネズミの大群の上に、鋭角の三角形を描き始めたその瞬間、
開いた扉のすき間から、
ネズミたちはわれ先にと外に飛び出していった。
ネズミの一匹に、
最後にひとつ
強くついっと引っぱられた。
つんのめって、
俺が扉の外に、一歩出たとき、
そこで俺の毛糸は、
すっかりぜんぶほどけて、
俺の中のセーターは、なくなった。
***
O井町駅前のバスの停が小さくなっていくのを、
バスの窓越しに、俺は眺めていた。
俺はいつもどおり、
『利害関係調査委員会』行きのバスに乗っていた。
バスは満員。
駅前道路は混んでいて、
O井町駅にむかう人々が列をなしていた。
俺はちょっと、
病み上がりみたいに軽い頭痛がしていた。
それはたぶんきっと、
『概念の音姫』のせいだと思う。
俺はずいぶん長い旅をしたように思ったけど、
ニックが俺のワイシャツを焼いて、
『概念の音姫』をオシャカにしたのは、
昨日のことだった。
バスの中にいる人も、外を歩く人々も、
みんなワイシャツを着ていた。
俺もワイシャツを着ていた。
新しいやつだった。
俺はこのワイシャツを、
どこで手に入れたか知らない。
だけど、ワイシャツを着ていた。
決してのぞかないでください。
(続きます)
