短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(56) エゴとワイシャツとわたし
たとえば俺がこれまでに見た夢は、
「四股踏む力士。しぱーんと土俵際、砂を撒く」
「上空から山の杉林。もわーんと煙幕のごとくたちのぼる砂」
といったような、砂関連の映像が多かったので、
おそらく俺はいつも、
寝ているときですら仕事、
プールで砂をさらう作業のことを、考えているのだろう。
俺はこれまでずっと、バカじゃねーのかなと思っていたのに。
恋人をヨロコバスかのように、
仕事をヨロコバソーとするひとびとって、
アレだと思っていたのに。
タイパ刻み上げ、
コスパ切り詰めるハックとは、つまり、
自分ではなく、「恋人」のライフのためのハックであることに気づかず、
ヨロコバスためなら、疲労は厭わず、
むしろ自身の疲労によってこそ、
苦労によってこそ、
「恋人」のヨロコビ度が
「成果」として確かめられるというような、
計算式。
「そういう公式が、憲法に載ってるんじゃね?」
キーボードに頬づえつき、エゴ山が言った。
「見返りのないものに身をやつすの、人間様の習性じゃね?」
女の体の脇腹を、エゴ山が、不機嫌にぼりぼりと掻く。
思春期が、終わらない。
俺はエゴ山に言った。
「おまえはエモツイートを作っておればよい」
「うっせーな」
「俺はお前とは違い、仕事に行かねばならぬのだ」
「うっせーな」
エゴ山は舌打ちし、PCに向かう。
思春期が、いつまでも、終わらない。
世界中の人間が全員思春期だったら、この世界は良くなるだろうか。
おとなになることを拒否したおとなは、
ほんとうの子供を排除してしまわないだろうか。
などということを考えながら、
俺は、部屋のガラス窓にうっすらとうつる自分の姿を眺めた。
引っ越してきてから一度も拭いたことのない窓ガラスは、
空気をただよう砂埃たちのガンダーラ。
ここにさえたどり着けばもうなにも心配はいらない、
と信じきっているかのごとく、
穏やかに、密着していた。
砂埃たちが、しがみついていた。
日差しを、きらきらとはねかえしていた。
それで俺はちょっと、
窓を拭いてみようかなと思った。
思ったんだけど、
今拭いちゃったらこの窓にいい感じにうつっている自分の姿は
見えなくなっちゃうかもしれなくて、
なおかつ、窓がきれいになったら、
外から俺が丸見えになっちゃうかもしれないし、
ていうかそもそも窓なんか拭いてる時間はないってことに気づく。
O井町駅からガリラヤ倉庫行きのバスが出るのは20分後。
「ま、俺もさ」
俺はエゴ山に言った。
「サラリーマンだからさ」
自分以外に誰が住んでるか知らないけど、
俺の安アパートは、すでにからっぽになっていて物音ひとつしなかった。
静まり返ったこのアパートから、
俺は毎朝、たぶん一番最後に外に出て行く。
外では車の音がしてるけど、スズメが鳴いてたりもするけど、
ときおりまったく音がしなくなって、
エアポケットにはまったみたいになった。
俺が思い出したのは、熱を出して学校を休んだ日の別世界の感じ。
熱にうるんだ目には、雨どいにとまったカラスがやけにくっきり見えて、
カラスがちょんと横移動するたび、
その爪が雨どいをひっかく音が、大きく聞こえた。
そして俺は思い出した。
熱なんか、もう何十年も出していないな、ってこと。
「クセになってんだ、音殺してPC打つの」
エゴ山は、しぱしぱとキーボードを叩きながら言った。
「エモツイ王に、俺はなる」
そう言いながら、エゴ山の体は女の体をしている。
もちろん両の手の小指も、蝶の幼虫の触角みたいに立っている。
俺もこういう時期あったよな、って思い出しながら、
俺はスーツのジャケットを、壁のハンガーからはずした。
砂埃に曇る窓は、薄灰色に見えた。
そのせいで、窓に映る俺の横っ腹までもが、灰色がかって見えた。
エゴ山と俺しかいないこの部屋をいま、裸族の住む家にしていないのは、
俺のスラックスだけだった。
ニックがライターの火で焼いちゃったから、
その日、俺には着ていくワイシャツがなかった。
無職を隠すためにもっともふさわしい服はスーツだが、
スーツであればなんでもいいというわけではない。
もしもワイシャツなしで
素肌にジャケットを羽織っただけのスーツ状態で仕事に行こうとすれば、
O井町駅前にたむろするひとびとから、
俺はきっと、無職として見られるだろう。
つまりジャケットなどというものは、
単なるお口汚しにしかならない。
だからといって、ジャケットを羽織らずO井町駅前へ赴けば、
人間として扱われることすら怪しく、
その後の自分にどんなことが起こるか、俺には想像できない。
かように、
ワイシャツというものはけっこうだいじなものなのだ。
呪文っていうか関数っていうか、
とりあえず、
ワイシャツさえ着ていれば、生きていけるっていうか。
「おまえはもう、死んでいる」
エゴ山はキーボードを叩く。
フレッシュマンのみなさんへ。
スーツはまだ、似合ってなくていいよ。
これからあなたが似合っていくから。
#社会エモ#フレッシュマン #新入社員
新社会人の皆さん。
スーツはまだ借り物みたいに新しい。
それでいい。
いつか、返せなくなるから。
#新社会人エモ
ラーメン屋の駐車場で、
俺が、『概念の音姫』から影響を受けたのは、
きのうのことだった。
そのあと俺は、
青のバンを運転し、ここまで帰ってきて、
いーだ課長と別れた。
課長の運転免許が失効していることは憶えてたけど、
だからなんだというのだ。
俺はそのままベッドに倒れ込み、
その晩、夢は見なかった。
「明日は休んでいいよ」
バンを降りるとき、いーだ課長は俺に言った。
けれども目を覚ました俺は、
仕事に行く準備をし、
ワイシャツがないことに困り果てていた。
俺はジャケットを、
窓の前で一応、羽織ってみた。
内側のてらてらした化繊の素材が、素肌にくっついて、冷たかった。
3つの前ボタンをぜんぶ閉めても、
ワイシャツを着ていないことは明白。
襟を立ててもあやしさが増すのみ。
ジャケットの、腰あたりに、
なにか重みを感じた俺は、ポケットに手を突っ込む。
出てきたのは「こどもぎんこう」の50円玉。
「こどもぎんこう」
俺はつぶやいた。
「こどもの、ぎんこう」
俺は曇った窓を見た。
この外に自分が出られるか、俺は考えた。
俺は『概念の音姫』が、俺に何をしたか、
俺の何かを変えたか、
変えなかったか、
まだよくわかっていなかった。
俺は。
そもそも俺は、目を覚ましたのだろうか。
「こどもぎんこうの頭取は」
俺はつぶやいた。
「信用取引をするか」
計算式は、どこにある。
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