短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(66) エモーショナル・ダウジング
前回のエモ山
おおまたびらきのガニ股で、
タモの長い柄を両手で持ち、
ゴルフのスイングのごとく、
しぱぴんっ。
ニックはプールの向こう岸で、
水しぶき弾かして砂をさらうわけだが、
しぱぴんっ。
「さっさと始末してくださいよお!」
こっちかしの三文判マンに、
プレッシャーを与えるのも忘れてない。
しぱぴんっ。
「あんな虫に飛ばれちゃあ!」
しぱぴんっ。
「仕事になんないんすよお!」
「でね」
三文判マンは、
体を横にずらし、
俺の視界に割って入る。
ニックの姿を背中でふさぎ、
俺の目の前に、
「これで」
スプレー缶を、高く掲げる。
「僕たち有機課は」
このもんどころが目に入らぬか、
とばかりに、
「シュッとひと吹き、はいコロリ」
三文判マンは、
だだっ広いプール室の、
どこかを飛んでいる、
その虫に向ける。
「それが、できるわけなんだけれども、さて君は」
「有機課さんさあ!」
ニックの声が響く。
しぱぴんっ。
ニックの強打が壁を打つ。
三文判マンは、
向こう岸を見る俺の目の前に、にじりよる。
「君は…」
「早くやっちゃってくださいよお!」
しぱぴんっ。
「こっちも暇じゃあないもんでえ!」
しぱぴんっ。
「僕たち有機課…」
「流れってやつがあるもんでえ!」
しぱぴんっ。
「ぬあああああ」
三文判マンが、
ため息とも呻きともしれぬ低い音を出した。
叩きつけるみたくスプレー缶を下げたから、
缶の中の液体が、
しゃん
と冷えた音を立てた。
三文判マンは、くるっと振り返り、
「あんたちょっと黙っててくれないかなあ!」
対岸にいるニックに叫んだ。
「あんたの声が邪魔で、虫の音が聞こえないんだよ!」
ぷうううううううううううううううん。
俺の目の前を、羽音が通り過ぎていく。
その音が見えるようで、
俺はそれを遠くまで見送った。
俺の胸ポケットは、まだ
ざわざわしていた。
ぷうううううううううううううううん。
羽音が戻ってくる。
その羽音は、さっきより速度を落としていて、
俺はその音に、「…」に似た、
長く後を引くような尻尾を感じた。
その羽音、
やはり、
においのような音だった。
尻尾の先っぽの、一番細いところが
俺の鼻先をくすぐるようだったので、
俺はむずがゆい鼻を軽く掻く。
すると俺の足はよろりと一歩前に出て、
羽音を追いかけているのだった。
ぷうううううううううううううううん。
歯をむき出して笑うニック。
そのニックに地団太踏み震える三文判マンは、
視界には入ってたけど、
俺はけっこう最初から、
この件については無関心だったというか、
いや、その逆かもしれない、
ニックと三文判マンのほうこそが、
この件について無関係だったということ、
かもしれない。
羽音は俺に、連想させた。
パスポートを持たない俺が、
行ったこともない場所を。
それはどこか遠い世界で、
ジャングルみたいに木が生い茂っていて、
そのなかの一本は、
なんの変哲もない木なんだけど、
その幹の、ざらざらした樹皮のあいだから、
もう何日も前から、
透明な樹液が染み出ている。
樹液はかつて、
一匹の蟻がつけた、
ほんとに小さな、
あるかなきかもわからぬくらい
かすかな傷から染み出ている。
染み出た樹液はふくらんで、
ビーズみたいな球になり、
いまにも転がり落ちそうで、
けれども持ちこたえている。
そこに蟻が一匹やってくる。
蟻は長い時間かけ、
かさこそかさこそ、
細い肢をうごめかし、
誰にも聞こえぬかすかな音を立てながら、
幹を上ってきたわけなんだけれども、
なぜかっていえば、
幹に傷をつけたのは、
その蟻だからで、
その傷は、
蟻が樹液を吸うためにつけたものだからだ。
幹にポツっとひとつだけ
小さな球になってる樹液に、
小さな頭を
蟻は突っ込む。
そのときだけ、
樹液越しに、
蟻の頭は一瞬巨大に膨らんで見える。
蟻の頭の突入で、
樹液の球が保っていた均衡はくずれ、
球ははじけて垂れ落ちて、
ぷちんと弾けた樹液にのまれ、
蟻の体は、
樹液に閉じ込められる。
透明だけどねばっこい
樹液の中で、
蟻は身動き取れなくなる。
そのまま何時間かが過ぎる。
ぷうううううううううううううううん。
羽音が通り過ぎていく。
陽が落ちて、またのぼり、
陽が落ちて、またのぼり、
雨が降り、風が吹き、
そのまま何万年も過ぎる。
ぷうううううううううううううううん。
俺はその蟻が、
自分であるような気もするし、
自分じゃないような気もした。
蟻が樹液に閉じ込められた
その日から今日まで、
何万年もの時間が過ぎていることを、
なぜ自分が知っているのか、
俺には説明ができない。
ぷうううううううううううううううん。
この羽音は蟻のその日から今日まで、
何万年ひっきりなし鳴り続けていたのかもしれないと、
ただそれだけ思う。
俺は羽音を追い廊下に出ていた。
リノリウムの廊下は、
天井の蛍光灯をねばっこく反射して、
それは消化液のようだった。
俺は、自分が蛇の腹の中にいるようだと思った。
ゆっくりと消化されている最中かもしれないと
思った。
だったら早く出ていかなきゃならないんだけど。
まっすぐな廊下は、
行くほど行くほど、
先細るように暗くなっていく。
そして羽音は、暗いほう暗いほうへと
俺を導く。
俺が思い出したのは、
アーケード商店街のこと。
俺はいつもこういう場所に出てしまうと思った。
俺の行く先はいつもこういうところで、
そしてそこを、俺はいつも
おそるおそる歩くことになっている。
デジャブデジャブデジャブのくりかえし。
もしかして時間って、
デジャブでできてんじゃないのかな。
アーケードと違うのは、
両側が壁で、横からなにかが出てくる心配はないってこと。
横からなにかが出てくることが
万が一、あれば、
それは確実に、
恐ろしいものであるので、
俺は横を見ない。
「検出しちゃうからいけないんだよ」
三文判マンも言っていたではないか。
俺は横を見ない。
センサーでもあるのか、蛍光灯の光は、
俺の少し先で灯り、
通り過ぎると消える。
だけどもしかするとあれだよね、
前を向かせるため、
わざと両側を、壁にするってことも
ありうるよね、
なんてことも考えつつ。
俺は横を見ない。
廊下の先、
もっとも暗いところは、
俺が進むのと同じ速さで遠ざかっていくから、
あるのかないのかわからない。
デジャブを自分に禁じた俺が、
進んでいることを自覚できたのは、
廊下の先に、
子どものような人影があらわれてきたからだった。
短いワンピースの裾をひるがえし、
スキップしている、
AIお針子が見えてきた。
お針子は、
廊下の途中で、スキップしながらくるくる回り、
ひとりごとみたく歌っていた。
「チンパンジーは腕が長い。
キリンは首が長い。
象は鼻が長い。
じゃあ、人間は、
なにを長くしたの?」
「根っこは伸びる。
菌糸も伸びる。
川は大地を削って進む。
じゃあ、人間は、
どこに進んでるの?」
近づく俺に気づかぬ様子のお針子は、
柔らかいささやきで歌っていた。
靴の裏が、
スキップのたび、
リノリウムからはがれて、
びたっ
びたっ
と、
ねばっこい音を立てた。
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