短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(50) ほかのことばで言ってくれ
これまでのエモ山
ランチタイムのサービスコーヒーは、
白いカップにそそがれて、俺たちの前にやってきたけど、
石でできてんのかと思うほど重い、ぽってりとしたそのセラミックのカップのなかで、
コーヒーの「●」部分、液体が占める面積は、なんだか小さかった。
もしかして深さがあるのかな、とか思い、
俺はカップを持ち上げて、横から眺めてみたけれど、
そのほんとうに、どこでも見かけるような、
どこでも見かけるからどこで見かけたか思い出せないような、
普通のカップは、
ほかの店でかつて見たことがあったときと同じで、
消え入るように普通で、
とくに深さがあるわけでもなかった。
業務用のセラミクス。
ガラス化された土でできたそれは、
洗いやすいようにシンプルで、頑丈そうだった。
落っことしたって、たぶん割れない。
だから驚くことがある。
セラミックという素材が、あるとき突然割れるとき、
ちょっと欠けるとかじゃなくて、
バラッバラに粉々に砕け散ってしまったとき。
俺たちは、その飛躍に驚愕する。
「やだわ」
テーブルにカップを戻し、沼田ミソギが頬づえついた。
「ラーメン食べすぎちゃった」
替え玉でいっぱいだった沼田のどんぶりは、
茶色いスープだけを残していた。
ニックは沼田のそのどんぶりを、のぞきこむ。
「俺なんか、スープも全部飲んじゃった」
「塩分摂りすぎよ」
「わはは」
満腹感という平和の錯覚が、俺たちを油のようにくるんだ。
「そろそろ店を出ましょうか」
いーだ課長がぽつりと言って、
俺たちは、あわててコーヒーを飲み干した。
さいごのひと啜りで俺が見たのは、
コーヒーの水面にしずかに広がった、油の波紋。
駐車場に出ると晴れた空。
空気は冷たくて、そこで俺は現実に引き戻る。
店を出たとこに置かれた、灰皿の赤い四角い缶のところで、
ニックは空を見あげていた。
沼田たちが乗る黄色い保育園バンの扉が閉まる音が二つ聞こえた。
沼田たちの車は、俺たちの青いバンから3台分離れた位置に停めてあった。
俺は、青いバンの横で、運転席の扉の外で、
車に寄りかかって、ニックが吐き出す煙を眺めていた。
いつ降ったのか、もう覚えてないけど、
駐車場のアスファルトは、ところどころが濡れていた。
かつて真新しく輝いてたはずの白い停止線は、
亀の甲羅みたくひび割れていた。
ヒビにはコケなのかカビなのか、なにかわからない黒とか深緑色のものが
ごっそり生えていて、
名前のわからないその植物が俺に教えたのは、その場所の日当たりの悪さだけだった。
白い線は、ところどころ消えたりもしていた。
俺は思い出していた。
ここに車を停めたとき、俺が見た停止線は、
バラバラに散らばったその白い部分の、もう見えなくなった部分を
「だいたいここだろう」と補てんしながらのまぼろしだったこと。
ニックが遠くから、こっちに振り向いた。
俺たちは、それぞれの場所で、自分たちが載ってきた車に
なにが詰め込まれているのかを思い出していた。
『概念の音姫』は、
小さな箱にひとつずつ小分けされ、
大きな段ボールに整然と並べられている。
大きな段ボールは車にいくつも積み上がり、
それを運ぶのは俺たちの仕事。
タバコを吸いながら、ニックは俺に背を向けた。
ニックの肩が大きく上下したとき、俺もニックの真似をして、深く息を吸ってみた。
大きく一気に吸い込んだから、俺の唇は、口笛の音を立てた。
吸い込んだ空気は冷たくて、針のようだった。
「非常にまずいですね」
聞き慣れぬ声がして、俺は、
吐き出そうとしていた息を止め、口をぱかっと開けたまま、
いつのまにか隣に立っていた知らない男を見おろした。
俺たちの青いバンの前輪は、
いつか降った雨がのこした乾きかけの水たまりを踏んでいた。
知らない男は、水なのか泥なのかわからんがともかく
アスファルトがその他の場所よりも濃く黒く染まった部分を、
白スニーカーの爪先でつっつきながら、
「非常にまずいですよ」
明らかに俺に向かって話していた。
俺はこういう存在にはすでに慣れ切っているため、
それはそれとして、いないものとしてあつかうことができた。
俺のこの態度を肯定するのは「犬」だった。
「犬」は「犬」の世界の中にいる。
「犬」の世界は「猫」の世界ではないし、人間の世界とも違う。
仮に「犬」を我が子のように溺愛する人間がいたとしても、
「犬」のほうはそう思っていない。
「自分はこの人間から実子同然に溺愛されている」とは思っていない。
もしもそこに意見の一致をみたければ、
「犬」と人間のあいだで、
「我が子」という概念から話し合わねばならないだろう。
俺はこのような態度を「犬」から学んだので、
この知らない男を見て見ぬふりすることにした。
ただ肩で息をして、ニックがタバコを吸いおえて車に戻るのを待った。
「誰かがどうにかしてくれないかな」
知らない男の声がした。
「これはとても非常にまずい。非常にまずいことだからね」
俺は知らない男のその声に、
自分の中の「さまざまなまずいこと」をあれこれと、
いくつもいくつも呼び起こされながら、
腕組みし、
腕時計にて時刻を確認し、
空を見上げ、
羽田に飛んでいく旅客機を、見えなくなるまで見送って、
自分の中の「まずいこと」をあれこれと思い返し続けた。
反対側に顔向けて、沼田たちの車に目を向けると、
運転席にいる沼田が、助手席のいーだ課長になにか話す様子が見えた。
声は聞こえなかったが、両手を大げさにふりあげて、
それはたしかに沼田らしい、抗議のしぐさだった。
俺は沼田を眺めていた。
「ういーっす、おまたせー」
ニックがガシガシ歩きながら戻ってくるまで。
「非常に、まずいんです」
という男のことばに、ニックが反応するまで。
世界は頑丈につくられてるから、壊れないと思われている。
頑丈に作られていると思われているから、
壊れないように使おうと、誰も思ってない。
胸ポケットにタバコのパックをつっこみながら、
「なにが?」
もみあげをうしなった男は、知らない男に尋ねた。
その瞬間俺がかすかに震えたことに、ニックは気づいていなかった。
「なにがって」
知らない男はニックに向いた。
「僕が記録されているからさ」
ニックがきょとんとし、知らない男から、俺にずいっと視線を動かした。
俺はただ、ニックを見返した。
「ちなみに」
男は言った。
「僕の名前はログオです」
「ちなみに」
男は続けた。
「本名は、オグロなので、オグロログオと名乗っています。ちなみに」
男は笑った。
「『ロ』がふたつ続くので、少し言いにくいです」
ニックは男をじっと見つめたあと、
急に顔を背けると、俺に明るくふるまった。
「さ、行くか」
ニックが助手席の扉に手を伸ばした。
「誰かがどうにかしてくれないかな」
男がつぶやくと、ニックも小さく答えた。
「自分のことは、自分でどうにかしろよ」
「おまえ、言ったな」
男はふてくされたようだった。
「ちなみに」
オグロログオは言った。
「あなたたちはこれから、とてもまずいことをしようとしている」
「ちなみに」
オグロログオは続けた。
「このログは、削除されません」
(続きはこちらです)
