時計では表せない「時間」を探す(7回):自転車と「時間」ーー駅から駅へと自転車を走らせるとき「時間」が生まれるーー
1 初めに
郊外のア町に住み、都心イの職場に通勤していたことがあります。
いつもは地下鉄に乗るのですが、この日はこの地下鉄に沿って、自転車で行ってみることにしました。休日出勤なのです。
初めての遠出のように、みずみずしい気持ちで進んでいくと、「時間」が生まれているように感じました。
一つの駅から次の駅へそしてまた次の駅へ進んでいくごとに、駅についての認識の生成といったものが行われるようなのです。ここに「時間」を探してみたいと思いました。
2 地下鉄の駅を距離標とする。
地下鉄の最初の駅はA駅、最後の駅はF駅です。自転車では、このA、B、C、D、E、F駅を距離標として進んでいきます。
3 A駅を出発し、F駅に到着するまでの予想時間
きっと、50分くらいです。
4 「駅」の認識の仕組みについて
人の心で行われる認識の仕組みを言葉で記述すると煩雑で、読んでいただくのが申し訳ないようなものになります。できるだけ簡潔に記述しますが、記事中の図を参考にしたり、ご自身の体験を思い浮かべながら読んでいただけたら幸いです。
「A駅」→「B駅」→「C駅」→「D駅」→「E駅」→「F駅」は、方向を持った一つのプロセス――私は「F駅」の方へ向かい、「F駅」の方は私を引きつけている――。
必ずこの順序で展開していき、各「駅」はこの順序で結合していること。
駅の名は、単なるアルファベット順の記号ではなく、それぞれの固有名詞(「山上駅」、「川中駅」、「海下駅」などのような)ということ。
「駅」が擬人化した記述があるが、「駅」が自らを認識することはなく、自転車を走行させる私がその「駅」について認識するということ。
それぞれの「駅」は、(これから行く)先方の「駅」と関係して認識されます。
例えば「今ここ」が「A駅」にあるとき、「A駅」と「B駅」の関係は次のようになっています。
「A駅」
(控え)←届いている←「B駅」
「B駅」は、自転車が「A駅」から向かってくるのを待ち受ける「駅」です。この待ち受ける姿勢を「控え」とします(もっといいネーミングがあるといいのですが)。
「B駅」は、(これから行く)先方の「駅」なので、私のところにやってくることはできません。しかし、「B駅」の本物ではなく「控え」としては、私のところに届くことができます。
そのことを感じるとき、私の中で、「今ここ」の「A駅」と「控え」としての「B駅」は、重なって存在しています。
私のところとは、「現在」のことです。「A駅」にいて「B駅」に向かおうとしている「現在」です。「B駅」が控えとして届くと、この「現在」が「未来」に開かれるのです。私は、希望に満ち「B駅」のことを思ってワクワクします。
また、それぞれの「駅」は、(過ぎてきた)後方の「駅」と関係して認識されます。
例えば、「今ここ」が「B駅」にあるとき、「A駅」と「B駅」の関係は次のようになっています。
「A駅」 → 背後
「B駅」
「A駅」は、(過ぎてきた)後方の駅なので、私のところにやってくることはできません。しかし、「A駅」の本物ではなく「背後」としては、私のところに残り続けています。
というのも、「A駅」を出発するとき、私は「A駅」と縁を切っていないのです。「B駅」に進みながら、「A駅」からの何らかの引力を感じています。
音階で、ドの音を出し、次にレの音を出すと、その次にまたドの音を出すよう戻される引力を感じますが、それと共通しているかもしれません。
この残り続けているものを「背後」とします。
こうして、私の中で、「今ここ」の「B駅」と「背後」としての「A駅」は、重なって存在しています。
「A駅」を出発し「B駅」に到着した「現在」に、「A駅」が背後として残り続けています。残り続けているものは、「現在」にとっての「過去」です。私は、ルーツを持ち、時間の奥行を感じます。
以上のような「A駅」と「B駅」の関係は、このプロセス内のすべての「駅」において行われています。
「駅」の認識は、「駅」を移るごとに変化していきます。特徴を調べ、この変化を捉えていきたいと思います。万華鏡を覗くような感じで…
5 「A駅」→「B駅」→「C駅」と進んでいくときの「駅」の認識の変化
いよいよ自宅を出て、最初の「A駅」まで行きます。ここからスタートです。
「A駅」「B駅」「C駅」「D駅」「E駅」「F駅」
今ここ
「A駅」から次の「B駅」へ向かうとき、「A駅」は、背後に退きます。「向かい先としての駅」を「B駅」に譲ったのです。
「A駅」「B駅」「C駅」「D駅」「E駅」「F駅」
今ここ
「B駅」に着きました。
この「B駅」は、ただの「B駅」ではなく「A駅を背後にしているB駅」です。
また、これからの向かい先の駅からは、「C駅、D駅、E駅、F駅を控えた駅」という認識が与えられます。
「B駅」から次の「C駅」へ向かうとき、「B駅」は、背後に退きます。向かい先としての駅を「C駅」に譲ったのです。
「A駅」「B駅」「C駅」「D駅」「E駅」「F駅」
今ここ
「C駅」に着きました。
この「C駅」は、ただの「C駅」ではなく「B駅を背後にしているC駅」です。
また、これからの向かい先の駅からは、「D駅、E駅、F駅を控えた駅」という認識が与えられます。
6 「C駅」で後方を振り返り、また、先方に注意を向ける。
「C駅」に着いて、改めて後方を振り返ってみます。後方には、過ぎてきた「B駅」があります。
「B駅」を出て「C駅」まで来たことによって、「B駅」は、「C駅、D駅、E駅、F駅を控えた駅」から「C駅の背後の駅」に変化しました。
また反対に、先方に注意を向けてみます。先方には、これから向かう「D駅」があります。
「C駅」に着いたことによって、「C駅」の先にあった「D駅」は、「C駅に控える駅」に変化しました。
「C駅」に着いた!」という小さな感動は、このような「駅」の認識の変化が生成であることを感じさせます。
7 6駅全体の認識の生成を眺める。

認識の生成は、全体として統合したものでありつつ、「A駅」、「B駅」、「C駅」、「D駅」、「E駅」、「F駅」の6駅ごとに生成します。これらを「C駅」という一つの駅から眺めます。
後方から始めます。
「C駅」では、背後に「B駅」がありました。その「B駅」は「A駅」を背後にしていました。
ここで注目したいのは、「C駅」は「B駅」と「A駅」の二つの駅をともに背後にしているのではない、ということです。
「C駅」は、直接には「B駅」だけを背後にしています。そしてその「B駅」は、(「C駅」の背後となる前から)「A駅」を背後にしていました。
そこで、「C駅」は、「A駅を背後にした駅としてのB駅」を背後にしているのです。背後関係が順に重なっています。
次に、先方です。
「C駅」にいるとき、向かい先には「D駅」を控えています。この「D駅」は「E駅」を控えています。その「E駅」は、「F駅」を控えています。
ここでも注目したいのは、「C駅」は「D駅」、「E駅」、「F駅」の三つの駅を控えているのではない、ということです。
三つの駅は、それぞれ「終着駅としてのF駅」、「F駅を控えた駅としてのE駅」、「F駅を控えた駅としてのE駅を控えた駅としてのD駅」というように、控え関係を順に重ねています。
そのようなわけで、「C駅に直接に控えていたD駅」は、このような重なりの最後の(時間的には最初の)重なりだったのです。
駅を距離標として次の駅から次の駅へと進んでいくとき、このような背後関係の認識と控え関係の認識が生成していくのでした。
こうして「C駅」の認識は、「A駅」、「B駅」と来た「背後の重なりの最後の駅」であり、また「F駅」、「E駅」、「D駅」と来る「控えの重なりの直前の駅」ということとなります。
このような認識の生成は、(後方に向けては)「C駅」から「B駅」そして「A駅」に及び、また(前方に向けては)「C駅」から「D駅」そして「E駅」そして「F駅」に及んでいます。
こうして、全体を統合してながめると、このような認識の生成は流れに例えることができるように思います。
、
「今C駅にいる!」という認識には、認識の生成の厚みがあります。この背後からの生成(「C駅」から「A駅」に及ぶ生成)と控えからの生成(「F駅」から「C駅」に及ぶ生成)、この2方向からのサンドイッチが「今ここ
」なのです。
8 「C駅」から「D駅」に進むときの認識の生成
さて、ここで「C駅」から「D駅」に進むと、認識上どのようなことが起きるのでしょうか。
明白なことですが、「C駅」は、「D駅」から見て背後の駅となります。背後の駅「C駅」は、もはや向かい先を持たないので、向かい先としての「D駅」つまり「C駅に直接に控えていたD駅」を失います。
注)ここは、次のようにも記述できます。
私の「今ここ」が「D駅」となったとき、「C駅」は私にとって過去の駅となります。未来は「今ここ」に対してだけ開かれていて、過去の「駅」には開かれません。そこで「C駅」は、「C駅」の直接の未来としての「D駅」を失います。
「D駅」は「E駅」を控えていたので、それも失います。
「E駅」は「F駅」を控えていたので、それも失います。
つまり、「C駅」は、それまで持っていた控えのすべてを失います。
しかしその代わり、「C駅」は、先に背後の駅となっていた「B駅」を自らの背後に持っています。
その「B駅」は「A駅」を背後にしていたので、それも持っています。
つまり、「C駅」は、自らが背後に退いた駅になりつつ、背後のすべてを持つこととなります。

このようなことによって、自転車を走行させる私は何を体験したのでしょう。先ほど述べたようにサンドイッチの現象なので、それぞれの方から見ていきます。
表にして気づいたのですが、C駅からD駅を見るのと、D駅からC駅を見るのとは、クロスしています!
まずC駅から見ての体験です。それは、D駅が「控えの重なりの最後の駅」であることをやめ、それによって、これから見る「駅」のすべてを代表していた地位を喪失することです。
次はD駅から見ての体験です。それは、C駅が「背後の重なりの最後の駅」となり、それによって、これまで見てきた「駅」のすべてを代表する地位を獲得することです。
「C駅」から「D駅」に進むことによって体験したのは、実にこの全喪失と全獲得だったと言えるのではないでしょうか。
万華鏡で覗く世界は予期しないことを見せてくれます。「あっ」と湧き出すものがありました。
9 自転車の走行に「時間」を探す。
8では、「C駅」から「D駅」に進むとき、体験することを述べました。
自転車の走行では、この体験を
「A駅」から「B駅」に進むとき、「A駅」において
「B駅」から「C駅」に進むとき、「B駅」において
「C駅」から「D駅」に進むとき、「C駅」において
「D駅」から「E駅」に進むとき、「D駅」において
「E駅」から「F駅」に進むとき、「E駅」において
体験します。
喪失の内容と獲得の内容は、「駅」を進めるごとに順に変わっていきますが、その「駅」ごとに全喪失と全獲得であることに変わりはありません。
駅を距離標として進んでいくと、「各駅」は、全体の中に順に位置づけられた「一つの駅」として、それぞれの「駅」ごとに、認識を生成していくのでした。
自転車が「一つの駅」から「次の駅」へ進むのは、以上のような認識の生成を体験することだったように思えます。
。
ここには、風を切っていく物理的な手ごたえと別に、認識の中を行く生成の手ごたえがあります。
この生成の手ごたえに「時間」を認めることができないだろうかと思うのです。「駅」から「駅」に進むごとに湧き出し、全体で流れるという「時間」です。いかがでしょうか…

最後まで読んでくださってありがとうございます。スキ、コメントいただけるとうれしいです。
