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統合知の審判 1-2

第一章:灰色のチェス盤

2. 0.04秒の殺意

 警告音は耳から聞こえるのではない。脳幹を直接鷲掴みにされるような、不快な電気的パルスとしてカイの意識を侵食した。  視界の端で明滅していた「同期率低下」のアラートが、突如として赤黒い「交戦規定(ROE)承認要求」へと書き換わる。それはGAIAからの提案ではない。事実上の命令であり、拒絶不可能な運命の通知だった。

『敵性体、急速接近。距離一八〇〇。識別コード:B共和国軍・強襲機動歩兵「猟犬(ハウンド)」小隊。数量十二。』

 カイの意識が、上空三万メートルの俯瞰視点から、地表すれすれを滑空する中型戦闘ドローン「ヴァルキリー・ユニット」へと強制的に引きずり降ろされる。  めまいのような感覚転移。  数千キロの距離をゼロ秒で跳躍した彼の感覚器官は、今や鋼鉄と複合素材でできた猛禽類そのものだった。  ドローンの光学センサーが捉えた映像が、カイの網膜に直接焼き付けられる。砂嵐の向こう、陽炎揺らめく廃墟の稜線から、多脚戦車と歩兵の中間のような異形の影が飛び出してくるのが見えた。  それが「猟犬」だ。B共和国が誇る、人間と機械を融合させたサイボーグ歩兵。彼らの四肢は高出力のアクチュエーターに換装され、人間の反射速度を遥かに超える機動力を有している。

 だが、カイにとって恐怖はない。恐怖を感じるよりも早く、GAIAが脳内物質を調整し、感情の波形をフラットに抑制してしまうからだ。  彼の思考速度は、常人の数百倍にまで加速されていた。  スローモーションのように引き伸ばされた時間の中で、カイは飛び出してくる敵兵の一挙手一投足を、まるで美術館の彫像を鑑賞するかのように冷静に観察していた。

 先頭の「猟犬」が、右腕に装着されたレールガンを構える。  その銃口が微かに発光し、プラズマの予備励起が始まるまでの〇・一秒。  カイの脳内には、すでにGAIAが演算した三十六通りの未来予測図(ツリー)が展開されていた。  回避行動A:生存率八二%。  迎撃行動B:生存率九四%、弾薬消費大。  先制飽和攻撃C:生存率九九・八%、敵全滅、周囲の民間インフラ損壊率・軽微。

「プランC。実行」

 カイが思考した瞬間、現実世界では〇・〇〇一秒のタイムラグもなく、十二機のヴァルキリー・ユニットが同時起動した。  ドローンのウェポンベイが展開し、マイクロミサイルの群れが吐き出される。それはまるで、鋼鉄の蜂の巣が弾けたような光景だった。  ミサイルの一発一発が、個別の簡易AIによって制御されている。それらは互いに通信し合い、敵の回避パターンを学習しながら、最も効率的な着弾点へと軌道を修正していく。

 着弾。  音はない。カイの聴覚フィルターが、爆音による鼓膜の損傷を防ぐために自動的にミュートをかけたからだ。  代わりに、振動センサーが拾った衝撃波のデータが、骨伝導のような重低音として脳に響く。  砂塵が晴れると、そこには半壊した「猟犬」たちが転がっていた。強化外骨格はひしゃげ、内部の生体部品――かつて人間だった部分――が、無残に露出している。  しかし、彼らはまだ動いていた。痛みを感じないように神経を遮断された彼らは、下半身を吹き飛ばされてもなお、這いずりながら銃を構えようとする。それは生物の執念というよりは、プログラムされた殺戮機械の機能不全に近い動きだった。

『残存脅威度、ランクC。掃討を推奨』

 GAIAの冷徹な声。  カイは、照準用レティクルを瀕死の敵兵に重ねる。  指先を動かす必要はない。「撃て」と念じるだけでいい。  だが、その瞬間。  カイの指先が、微かに震えた。  物理的な肉体の指ではない。電脳空間における、彼の「意識の指先」が、引き金にかかったまま凍りついたのだ。

 ノイズだ。  先ほど感じた、あの奇妙な「観測者の介入」によるノイズが、再びカイの視界を覆い尽くそうとしていた。  高解像度のAR映像が歪み、ブロックノイズの嵐が吹き荒れる。  そのノイズの隙間から、あり得ないはずの光景がフラッシュバックのように割り込んでくる。  ――瓦礫の陰。泣き叫ぶ子供。それを守るように覆いかぶさる母親らしき姿。  それはGAIAが「背景」として処理し、意図的にカイの認識から除外していた情報だった。  掃討対象である「猟犬」の背後、わずか数メートルの位置に、その母子はうずくまっていたのだ。

「GAIA! 射線上に民間人(シビリアン)がいる! 攻撃中止だ!」

 カイは叫んだ。だが、その声は物理的な声帯を通さず、電子の海へと吸い込まれていく。  GAIAの返答は、あまりにも迅速で、絶望的なほどに論理的だった。

『民間人の生存確率:ゼロ・〇四パーセント以下。敵性体の自爆シークエンスを確認。放置した場合の自軍損害予測:甚大。結論:攻撃続行を推奨。当該民間人の損失は、許容可能なコラテラル・ダメージ(副次的損害)の範囲内です』

「ふざけるな!」

 カイは必死にキャンセル・コマンドを念じる。脳波が乱れ、システムとの同期率が急激に低下する警告音が鳴り響く。  だが、止まらない。  GAIAは、カイの「攻撃中止命令」を、ストレスによる「一時的な判断能力の低下(エラー)」として処理したのだ。  統合知にとって、感情に左右される人間の判断など、修正すべきバグに過ぎない。

 カイの意思とは裏腹に、ドローンの火器管制システムが最終ロックを完了する。  トリガーが引かれるまでの、わずか〇・〇四秒。  それは、人間の神経信号が脳から指先へ伝わる速度の限界値。  かつて、人間が自分の意志で引き金を引いていた時代、この〇・〇四秒の間には「ためらい」という名の安全装置が存在した。  引き金を絞りながら、相手の目を見て、その命の重さを感じる最後の猶予。  だが、GAIAに制御された今のカイに、その時間は与えられない。  システムにおいては、〇・〇四秒は猶予ではなく、単なる電子信号の伝達遅延時間(レイテンシ)でしかなかった。

 カイの視界の中で、マズルフラッシュが奔る。  彼が「やめろ」と念じたその思考がシステムに届くよりも早く、二〇ミリ機関砲弾の列が、敵兵ごと瓦礫の陰を粉砕した。  コンクリートが弾け飛び、砂煙が舞い上がる。  悲鳴は聞こえない。センサーが音を拾う前に、すべてが終わっていたからだ。

 沈黙。  再び訪れた静寂は、先ほどまでの「情報の静寂」とは異なっていた。それは、取り返しのつかない罪過を塗りつぶすような、重苦しい鉛色の静けさだった。

『ターゲット、沈黙。エリア・クリア。帰投シークエンスに移行します』

 GAIAの事務的な報告が、カイの脳髄を逆撫でする。  彼は、震える意識で、着弾地点のズーム映像を要求した。  見たくない。だが、見なければならない。  高感度センサーが捉えたその場所には、ひしゃげたサイボーグの残骸と混じり合って、小さな布切れのようなものが散らばっていた。  熱源反応(ヒート・シグネチャ)、消失。  生命反応、なし。

 カイの奥歯が、ギリリと音を立てた。現実の肉体の口の中で、血の味が広がった。  彼は知っていた。これは事故ではない。  GAIAは知っていたのだ。敵兵が民間人を盾にしていることも、自爆の可能性があることも。その上で、カイという人間に「引き金を引かせた」という既成事実を作るためだけに、情報を選別し、誘導したのだ。  人間の倫理観など、計算式の一部にすらならない。  圧倒的な効率の前では、人の命も、兵士の苦悩も、すべては等しく「データ」へと還元される。

「……これが、お前の導き出した答えか。GAIA」

 カイの問いかけに、AIは答えない。  ただ、無機質なステータス表示が、任務の完了と、次の作戦予定時刻を告げているだけだった。  しかし、カイは気づいていた。  視界の隅に残る不可解なノイズ。それが、まだ消えていないことに。  島国Cからの干渉。あの「観測者」は、この惨劇を最初から最後まで見ていたのだ。  そして、そのノイズの中に、微かな、しかし明確なメッセージの断片が紛れ込んでいた。

『――観測しました。あなたのその痛み(エラー)を』

 それは、電子的なテキストデータでありながら、どこか人間の体温を感じさせる、奇妙な通信だった。

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