『神聖なる停滞のためのホロコースト』
7
その日から、世界は奇妙なバランスで回転し始めた。 カイトとアリスは「共犯者」になった。 学校では極力他人の振りをしているが、視線が交わるたびに、二人だけの秘密の回路が繋がる感覚がある。それはアリスにとって、何千回のループの中で初めて味わう、甘く痺れるような毒だった。
放課後の理科準備室。 夕日が差し込む埃っぽい部屋で、アリスはパイプ椅子に座り、制服のブラウスを捲り上げていた。
「……ひどいな」
カイトが息を呑む。 アリスの腹部から胸にかけて、青い幾何学模様のアザ――「聖痕」が、以前よりも明らかに広範囲に侵食していた。それは皮膚の下で呼吸するように明滅し、時折、パチパチという小さな音を立てて火花を散らす。 カイトは消毒液とガーゼを手にしていたが、それが無意味であることを悟って手を止めた。これは傷ではない。情報のオーバーフローだ。
「痛むのか?」 「ううん。ただ……熱いだけ」
アリスは淡々と答えた。嘘だった。本当は、内臓を焼かれるような灼熱感が常にあり、意識を保つだけで精一杯だった。 カイトがそっと、患部に触れようと手を伸ばす。 指先が触れる寸前、聖痕が強く発光し、拒絶のスパークが走った。
「っ!」
カイトが指を引っ込める。指先が軽く焦げていた。 アリスは急いで服を直した。
「ごめんなさい。……私の体は、もう『人間』としての定義を保てなくなってきてる」
アリスは膝の上で拳を握りしめた。 彼女は、この数日間で起きた「バグ」の数々を思い返していた。 カイトと一緒に帰ろうとしただけで、信号機が全て青になり、交差点で大規模な事故が起きかけた。 昼休みに彼と話をしていたら、校庭の桜が季節外れの満開になり、そして一瞬で枯れ落ちた。 彼女の幸福度が上がるたびに、世界の物理法則が綻んでいく。
「なぁ、有栖川」 「……アリスでいいよ」 「じゃあ、アリス。教えてくれ。君は、何と戦ってるんだ? あの黒い怪物は何なんだ?」
カイトの真剣な瞳。 アリスは迷った。真実を話せば、彼は巻き込まれる。だが、もう手遅れかもしれない。 彼女は覚悟を決めて口を開いた。
「私は……ずっと繰り返してるの。この世界は、ある『存在』が作った舞台で、私はそこで永遠に17歳を演じさせられている役者なの」
言いかけた瞬間だった。
キィィィン――。
世界から「音」が消えた。 理科準備室の空気がゼリー状に凝固したように重くなる。 アリスの口は動いているのに、声が出ない。喉の奥に、見えない手が突っ込まれて、声帯を握り潰されているような感覚。 ――検閲(センサーシップ)。 ――メタ情報の開示を禁止します。
「……アリス? 口パクで、何言ってるんだ?」
カイトには聞こえていない。 アリスは焦った。違う、伝えなきゃ。 彼女は机にあったノートとペンを掴んだ。言葉が出ないなら、文字で。 『邪神』『ループ』『世界の終わり』。そう書こうとした。
ガガガガッ!
ペン先が紙に触れた瞬間、ボールペンが爆裂した。 インクが飛び散り、ノートが黒く汚れる。 それだけではない。理科室のビーカーやフラスコが一斉に共振し、パリンパリンと次々に割れ始めた。
「うわっ!?」
カイトが頭を庇ってしゃがみ込む。 アリスはペンを投げ捨てた。 許されないのだ。この世界の「設定」を、登場人物(キャラクター)が知ることは。
「……言えないの」
アリスは涙目で首を振った。検閲が解け、ようやく声が出た。 割れたガラスの破片が散乱する床で、彼女は震えながら告げた。
「私が真実を話そうとすると、世界が壊れる。私があなたと笑い合うと、世界が歪む。……私はね、カイト。存在しているだけで、この世界を殺しているの」
カイトはゆっくりと立ち上がり、インクで汚れたアリスの手を取った。 また静電気が走るが、彼は眉一つ動かさなかった。
「理屈はわかんないけど、要するに……君が幸せになっちゃいけないって、誰かが決めたルールがあるんだな?」 「……そう。それが、私の呪い」 「ふざけんなよ、そんなの」
カイトの声には、静かな、しかし確かな怒りが滲んでいた。 彼はアリスの手を強く握り返した。
「誰が決めたか知らないけど、そんなルール、破ればいい。世界が壊れる? 君一人が笑うくらいで壊れるような世界なら、そんなの欠陥品だろ」
アリスは目を見開いた。 その言葉は、あまりにも無謀で、傲慢で、そして今まで聞いたどんな預言よりも力強く響いた。 欠陥品。そう、この世界は邪神の作った悪趣味な箱庭だ。
「……でも、代償がいるわ。きっと、すごく悲しいことが起きる」 「俺がいる」
カイトは真っ直ぐにアリスを見つめた。
「俺が一緒に背負う。君が『正義のヒロイン』じゃなくて、ただの『アリス』でいられる場所を、俺が守るから」
アリスの胸の奥で、何かが決壊した音がした。 それは恐怖のリミッターが外れた音であり、同時に、邪神への反逆の狼煙(のろし)でもあった。
窓の外。 沈みゆく夕日が、毒々しい紫色に変色していた。 カラスの群れが、逆再生の映像のように空を後ろ向きに飛んでいく。 世界がバグり始めている。 それでも、アリスは初めて、恐怖よりも「愛しさ」を選んだ。彼女はカイトの胸に額を押し付け、小さく頷いた。
「……うん。一緒にいて」
その契約が結ばれた瞬間、理科準備室の時計が、あり得ない速度で逆回転を始めた。

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