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エクスパンシア 短編集「欠落の系譜:エグゼクティブ・ラグ」

欠落の系譜:エグゼクティブ・ラグ

プラチナム・ティア居住区「アヴァロン」。そこは、宇宙が最も優先的にリソースを割り当て、最高精度のテクスチャで描画し続ける特権的な現実だ。

ここでは、雨は常に心地よい温度で垂直に降り、空はノヴィコフ博士の仮説が嘘であったかのように、澄み切った紺碧を保っている。企業の重役たちが歩く大理石の床には、グリッチ・スラムで見られるような「当たり判定の消失」も、低解像度のドット欠けも存在しない。少なくとも、表面的には。

「アヴァロンの空気が美味いのは、酸素濃度が高いからではない。ノイズが徹底的にデバッグされているからだ」

それが、企業の「最適化」を信奉する者たちの合言葉だった。だが、完璧にパッチが当てられたこの美しいレンダリングの裏側で、宇宙の基盤(サブストレート)は悲鳴を上げていた。情報の増大による演算遅延は、富裕層の贅沢な生活という膨大な計算負荷によって、むしろスラムよりも深刻なレベルに達していた。

エリアス・ソーン。東部演算資源連合の常務理事。 彼は、全市民が羨む「ゼロ・レイテンシ」の体現者だった。最新鋭のシリコニアン・チップを脳内に埋め込み、一秒の千分の一の単位で現実を先読みする。彼にとって、世界は常に「読み込み済み」の確定した未来だった。

その夜、エリアスは自宅のダイニングで、妻のクララと向かい合っていた。 高級な合成ワインがグラスに注がれ、完璧な幾何学模様を描く料理が並んでいた。エリアスがグラスを手に取り、口元へ運ぼうとした――その瞬間、彼の「存在」が停止した。

「エリアス?」

クララが声をかけた。返事はない。 エリアスの腕は、グラスを持ったまま空中で凍りついていた。いや、「凍りついた」という表現は正しくない。彼の腕の輪郭が、微細なノイズと共に激しく振動し始め、次の瞬間、その場所のテクスチャが完全に剥がれ落ちたのだ。

エリアスの顔があった場所には、今や「未描画領域(アンドローン・テリトリーズ)」の特有の、ぎざぎざとした幾何学的な空隙が浮遊していた。 彼は死んだのではない。宇宙の演算機が、あまりに高負荷な彼の「意識」と「肉体」というデータのレンダリングを、一時的に、あるいは永久に諦めたのだ。エリアス・ソーンという一人の人間は、現実というフレームの中に固定されたまま、処理待ち(キューイング)の状態に陥った。

一時間も経たないうちに、自宅には企業の「資産管理チーム」が到着した。 彼らが携行していたのは救急キットではなく、強力なARパッチ発生器と、厚手の鉛板、そして「沈黙の異端審問官」たちだった。

「ご安心ください、クララ夫人。これは一時的なシステムの不整合です」

リーダー格の男が、無機質な声で告げた。彼らは手慣れた手つきで、ダイニングテーブルの周りに不可視のシールドを張り巡らせる。クララがエリアスの手に触れようとすると、見えない壁に拒絶された。

「触れないでください。その領域の因果律は現在、計算から除外されています。物理的な干渉は、周囲の現実を連鎖的に崩壊させる恐れがあります」

彼らが何よりも優先したのは、エリアスの救助ではなかった。この「事実」の隠蔽だ。 企業の幹部が「ラグ(遅延)」を起こしたという事実は、株価の暴落を意味するだけでなく、「認可された効率性」という神話そのものの崩壊を意味する。企業の支配階級は、宇宙から特別に選ばれた「最適化された存在」でなければならない。もし彼らがスラムのジャンキーと同じようにグリッチを起こすなら、誰が教会や企業に従うというのか。

「そこにいる。眼の前に夫がいるのに」

クララは、リビングを仕切る巨大なARパッチの壁を見つめて、毎夜嘆いた。 企業は、エリアスが「極秘の長期出張」に出たと発表した。ダイニングルームの半分は今や、高度な隠蔽工作によって「存在しない部屋」に作り変えられている。

パッチの隙間から、時折エリアスの像がノイズ混じりに浮かび上がることがある。 彼は依然としてグラスを掲げ、一ヶ月前のあの瞬間のまま静止している。彼の瞳は、計算の処理待ちを意味する虚空を見つめ、瞬き一つしない。

「彼はまだ、あのワインを飲もうとしているのよ。一ヶ月も、ずっと」

資産管理チームの男が、無表情にデータをチェックしながら答えた。 「夫人は誤解されています。彼は『待っている』のではありません。彼は現在、この宇宙の演算スタックの底に沈んでいるのです。宇宙が膨張し、十分な計算バッファを確保したとき、彼の行動の次の1フレームが描画されるでしょう。それが明日なのか、それとも宇宙が寿命を迎える一万年後なのかは、誰にも分かりません」

企業にとって、エリアスはもはや人間ではない。 削除することもできず、再起動も不可能な「ゾンビ・プロセス」。 アヴァロンの完璧な静寂の中で、エリアス・ソーンは今日も「遅延」し続けている。彼の存在は、宇宙が隠しきれなくなった情報の重圧そのものであり、完璧な支配の裏側に潜む、致命的なバグの記録であった。

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