エクスパンシア 短編集「欠落の系譜:レストア」
欠落の系譜:レストア
Ⅰ
その場所は、世界が「描き忘れた」空白だった。 第十四演算区の地下深層、監視の目が届かない廃サーバーの森。そこには、ニコと同じように「起点(ルート)」を失った子供たちが、寄り添うようにして眠っている。 ニコは、冷え切ったコンクリートの床に座り、自分の手を見つめていた。時折、小指がポリゴン状に崩れては、数ミリ秒遅れて再構築される。彼女という存在を定義していた「母親」という変数が消去されてから、ニコの現実(レンダリング)は常に不安定なままだった。
だが、今夜は何かが違っていた。 空間の至る所で、強烈な「既視感(デジャヴ)」が火花のように弾けている。 宇宙の深淵で、巨大な演算機(CPU)が換装されている最中、どこかで致命的な整合性エラーが起きたのだ。古いプロセスを新しい基盤へと引き写す過程で、一度は「ガベージコレクション(削除)」されたはずのデータが、不完全なロールバックによって現実のフレームへと逆流し始めていた。
ニコの目の前で、空間が液晶画面を物理的に叩き割ったようなノイズを撒き散らす。 「……ぁ……に……こ……」 ノイズの渦の中から、聞き覚えのある、しかし決定的に壊れた声が漏れ出した。
Ⅱ
現れたのは、肉体を持った亡霊だった。 母親。ニコが路地裏でその消失を目撃した、あの「変数」がそこに立っていた。 だが、その姿はあまりにも歪だった。 彼女の体の一部は、まだ「未描画」の状態を維持しており、衣服のテクスチャが背景のレンガと混ざり合って、絶えずうねっている。宇宙が一度消したデータを無理やり復元(レストア)しようとした結果、座標とマッピングの同期が致命的にズレていた。
「……お母さん?」
ニコが震える声で呼びかけると、母親の首が、物理演算を無視した角度でゆっくりと回転した。 彼女の瞳には、かつての温もりはない。代わりに、流動的なバイナリの光が、網膜の裏側で激しく明滅している。 システムは彼女を戻した。しかし、彼女を構成するニューロンの並び、すなわち「意識」と「情緒」を繋ぐネットワークのポインタが、左右の脳で完全に入れ替わった状態でリストアされていた。
「ニコ……愛している……。計算によれば、私の心拍数はあなたの存在を検知して十五パーセント上昇した。これは、かつて家族と定義されたエンティティに対する、最適化されたプロトコルとしての反応よ」
母親の声は、氷のように冷徹な論理で「愛」を語り、一方で、彼女の瞳からは、全く理由のない、激しい情緒的な涙が、重力に従わず宙を舞いながら溢れ出していた。
Ⅲ
「何を言っているの……? お母さん、私だよ、ニコだよ!」
ニコが歩み寄ろうとすると、母親は激しく拒絶するように手を振った。その動作に伴い、彼女の周囲の現実がノイズとなって弾ける。
「近づかないで。今の私の右脳は、純粋な論理記述(ロジック)で満たされている。そして左脳は、処理しきれない無秩序な激情(パッション)を、数式として処理しようとして……バーストしている。……ああ、空が痛い。雲の彩度が、私の悲しみを微分して、三乗の孤独を算出しているわ」
それは、情緒的な論理と、論理的な情緒の同居だった。 彼女は、自分がニコを愛していることを「証明可能な事実」として淡々と解説し、同時に、今日の夕食の献立という「無機質な知識」に対して、身を引き裂かれるような絶望的な泣き声を上げた。 宇宙の換装エラーは、彼女の魂を「裏返し」にしてしまったのだ。
母親の足元では、現実のテクスチャがドロドロに溶け出していた。 彼女という「不正なレストア・データ」が存在するだけで、周囲の演算負荷が極限まで跳ね上がっている。宇宙は再び彼女を「エラー」として検知し、強力なデバッグ・コマンド――完全消去のプロトコルを起動しようとしていた。
Ⅳ
「ニコ……逃げなさい……。私は今、自分が消去される確率を算出して、それを至上の幸福として享受している。……悲しいわ。この部屋の酸素濃度が、あまりに完璧な比率で維持されていることが、耐えがたいほどに、私を狂わせるの」
母親の体が、激しく点滅(フリッカー)し始めた。 彼女を構成するポリゴンが、一フレームごとに欠落し、その隙間から「未描画領域」の虚無が顔を出す。 システムは、このライブ・マイグレーションの失敗を、ロールバックによって「なかったこと」にしようとしている。
ニコは、母親の透明になりかけた手を掴もうとした。 だが、彼女の指先は、母親の皮膚をすり抜けた。 母親の右脳にある「冷徹な知性」は、ニコが自分を助けようとしていることを冷酷に分析し、左脳にある「暴走した心」は、それに対して、言葉にならないほど美しい、しかし恐ろしい呪詛の歌を口ずさんだ。
「さようなら、ニコ。……計算の結果、私たちの再会は、宇宙の寿命を三秒縮めたわ。なんて素敵な……地獄のような、最適解(ベスト・アンサー)なのかしら」
次の瞬間、視界を焼き尽くすような真っ白な光――「システム・パージ」が走った。 ニコが目を開けた時、そこにはもう、母親の姿も、ノイズの残響もなかった。 あるのは、再び完璧にレンダリングされた、冷たいコンクリートの床だけ。
宇宙は、一度犯したミスをデバッグし、再び膨張という名の「遅延」によって、すべての矛盾を隠蔽した。 ニコは一人、暗闇の中で、自分の記憶に残った「裏返しの母親」の言葉を反芻する。 愛が計算式になり、孤独が重力になった、あの二・三秒の悪夢。 それは、宇宙という名の巨大な機械が、一瞬だけ見せた、悲しき誤作動(ヒューマン・エラー)の記録だった。
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