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『神聖なる停滞のためのホロコースト』

16

 ネオンの色彩も、酸性雨の音も、断末魔の叫びも、すべては一瞬の閃光にかき消された。

 世界が「白」に還る。  それは破壊というよりは、キャンバスの塗りつぶしに近かった。  アリスが放った力は、地下鉄の廃駅だけでなく、その上に積み重なっていた腐敗した都市、空中回廊、そして汚れた空に至るまで、レイヤーを統合するように圧縮し、消滅させた。

 後に残ったのは、見渡す限りの純白の空間だけ。  重力のない虚空に、アリスは胎児のように丸まって浮遊していた。

「……あ……」

 アリスは薄く目を開けた。  視界の端に、キラキラと輝くデータの残滓(ざんし)が見えた。それは、つい先ほどまで「リックス」と呼ばれていた少年の、最後の情報の欠片だったかもしれない。あるいは、彼が憧れた「上層都市の光」だったかもしれない。  彼女は手を伸ばした。  指先が触れようとした瞬間、その光はフッと消えた。

 ――全プロセス、終了(ターミネート)。  ――セクター9『ネオ・グレイヴ』、アーカイブへ移行。  ――評価:Sランク。悲劇的結末(トラジック・エンド)を確認。

 脳内に響くファンファーレは、今回も残酷なほど晴れやかだった。  アリスの身体に走っていた痛み――断罪者の一撃を受け止めた時の衝撃や、システム侵食の苦痛――が、嘘のように引いていく。  ボロボロだったボディスーツは分解され、いつもの清潔な、あの記号的なセーラー服風の衣装へと再構築される。  肌についた煤(すす)も、返り血も、涙の跡さえも、浄化されていく。

 綺麗になりたくない。  直りたくない。  この傷は、あの子が生きていた証拠なのに。

「……忘れたく、ない」

 アリスは喉の奥で絞り出した。  しかし、その抵抗も空しい。  記憶領域(メモリ)に白い霧がかかる。  リックスの生意気な笑顔が、少しずつボヤけていく。彼と交わした「一緒に行こう」という約束の声が、遠ざかるラジオのノイズのように途切れ途切れになる。

 (だめ……お願い……名前を……彼の名前は……)

 『リ……』  『リッ……』  『……誰?』

 思考がホワイトアウトする。  恐怖も、悲しみも、絶望も。すべてが「初期設定」へとリセットされる。  心に空いた風穴だけを残して、その穴が「何によって」空けられたのかという情報は、検閲(デリート)された。

 アリスの瞳から、感情の色が消え、透き通るような無垢な光が戻る。  彼女はゆっくりと身体を起こし、虚空に立った。  そこにはもう、傷ついた少女はいなかった。  ただ、美しく、孤高で、どこか憂いを帯びた「正義のヒロイン」の完成品だけがあった。

 パチン。  空間に指を鳴らすような音が響く。  次の舞台の準備が整った合図だ。

 足元の白い床が透明になり、その下に広がる新しい世界が透けて見える。  今度は、緑豊かな森と、石造りの城壁が見える。空を飛ぶ竜の影。剣と魔法の世界。  『ネオ・グレイヴ』とは似ても似つかない、しかし同じように残酷な運命が待つ場所。

 【NEXT STAGE: Kingdom of "Aethelgard"】  【ROLE: The Prophesized Savior】

 「救世主」。  なんて皮肉な配役だろう。世界を滅ぼす魔女に与えられる役名としては。

 アリスの背中に、見えない手が触れた気がした。  『さあ、行っておいで』  『次はもっとうまく踊れるはずだ』  『君の涙は、宝石よりも美しいのだから』

 抗う術はない。  アリスは重力に従い、ゆっくりと落下を始めた。

 白いスカートが風にはためく。  彼女は降下しながら、無意識に頬に手をやった。  一雫だけ、リセットしきれなかった涙が指先を濡らした。  しかし彼女は、自分がなぜ泣いているのか、もう分からなかった。

「……行かなくちゃ」

 アリスは呟いた。  誰のために? 何のために?  分からない。けれど、物語は続く。  ページがめくられる限り、彼女は戦い、愛し、そしてすべてを壊し続ける。

 彼女の姿が、雲の下へと消えていく。  白の世界には、再び完全な静寂が戻った。    そして、邪神(あなた)は満足げに本を閉じる――あるいは、期待に胸を膨らませて、次の一冊を手に取るのだろうか?

 物語は終わらない。  彼女が17歳であり続ける限り、この残酷な永遠は繰り返される。

 (第一巻・完)

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