見出し画像

#シロクマ文芸部 月の花と黒猫の夜~短編フィクション小説~

小牧幸助さんのお遊び企画「月の花」に参加です。

締切は2/4(水)23:59だそうです。よろしくお願いします。


月の花と黒猫の夜

月の花、という首輪をつけた黒猫が、私の部屋のベランダに座っていた。

カーテンを少しだけ開けた瞬間、私は息を止めた。

夜の縁に、黒い影。

街灯の薄い光を受けて、毛並みが墨のように艶めいている。

目だけが、金色の針みたいに細く光っていた。


ベランダのガラス戸越しに目が合う。

猫は逃げない。

むしろ「やっと気づいた?」とでも言いたげに、しっぽの先をゆっくり揺らした。

私は、今日会社を辞めたばかりだった。

辞めた、というより、辞めてしまった、のほうが正しい。

制服の名札は机に置いてきた。

送別の言葉も、花束もない。

「お疲れさま」だけが、乾いた紙みたいに胸に貼りついたまま、剥がれない。

部屋の中は静かだった。

電気をつける気にもなれず、キッチンの時計だけが、ひとりで律儀に秒を刻んでいる。

冷蔵庫のモーター音が、ときどき自分の心臓の音と混ざって、どちらが生きているのか分からなくなる。


私はガラス戸に手をかけた。

鍵を外す音がやけに大きい。

そっと開けると、冷えた夜気が、頬をなでた。

猫は、当然のように部屋へ入ってきた。

許可なんていらない、と言っているみたいに。

「……迷い猫?」

問いかけても、猫は返事をしない。

ただ、首輪を見せるように少し首を傾ける。

白い布の首輪に、黒い糸で小さく刺繍があった。

『月の花』


「月の花?」

言葉が舌の上に乗っただけで、少しだけ胸の奥が緩む。

それは、私が今夜、どうしても欲しかったものの名前みたいだった。


猫はリビングの真ん中まで歩き、くるりと一周してから座った。

まるで「ここが話す場所ね」と言うみたいに。

私は床に座り込んだ。

猫と、同じ目線になる。

「ねえ、聞いてくれる?」

返事はない。

でも猫のしっぽが、ひとつ、ゆっくり揺れた。

私は笑ってしまった。

久しぶりに、口の端が勝手に上がった気がした。

「今日ね、辞めちゃった。会社」

猫は瞬きした。

そのまなざしは、責めない。

優しくもない。

ただ、そこにある。

「私が悪いのかな。耐えられなかったから。みんな普通にやってたのに。私だけ……」

言葉が途切れる。

喉の奥で、苦いものが泡立つ。

猫は、しっぽの先を、もう一度揺らした。

うん、うん。

そう聞こえた。

「やりたいことなんて、分かんない。何が向いてるかも。私には何もない気がして……」

その瞬間、猫が小さく「にゃ」と鳴いた。

高い声でも、甘い声でもない。

短くて、真っ直ぐな音。

私は、びくりとした。

猫が鳴いたのは、それが初めてだった。

まるで「あるよ」と言われたみたいで。

「……あるの?」

猫は返事の代わりに、立ち上がって窓辺へ行った。

ベランダの外、夜の空へ顔を向ける。

私はつられて立ち上がり、隣に並んだ。

雲が薄く流れて、月が顔を出していた。

今夜の月は、白く、静かで、遠かった。

「月の花って……何?」

猫は、窓の外へ顎を向ける。

私は視線を辿り、ベランダの隅を見る。


小さな鉢植えが、ひっそり置かれていた。

いつか衝動買いした、名前も覚えていない花。

昼間はしおれて、ほとんど葉っぱだけに見える。

でも今、そこに白い花が開いていた。

暗がりの中で、薄い花びらが月の光を集めている。

息をしないと壊れてしまいそうな、儚い白。


「……夜に咲くんだ」

猫が「にゃ」と鳴いた。

うん、うん。

私は鉢植えに顔を近づけた。

ほのかに甘い匂いがする。

花は、誰に見せるためでもなく、静かに咲いていた。

昼間、私はずっと自分を責めていた。

「太陽の下で元気に咲けない自分」を。

人前で明るくできない。

要領よく立ち回れない。

空気を読んで笑うのが下手。

でも、この花は違う。

夜に咲く。

暗さの中で、光を拾って咲く。

「……私も、こういうタイプなのかな」

猫のしっぽが、ふわりと上がって、また揺れた。

うん、うん。

私は少しだけ泣いた。

大きな声ではなく、こぼれる分だけ。

涙が頬を伝うたび、胸の中の砂が洗われていくようだった。

「明日、どうしよう」

言うと、猫が私の足元にすり寄ってきた。

黒い背中が、ひどく温かい。

体温って、こんなに人を安心させるんだ、と驚く。

私はしゃがんで猫の頭を撫でた。

毛は柔らかく、掌に小さな振動が伝わる。

ゴロゴロという音。

それは、世界のどこかにまだ居場所があると教える音だった。


「月の花。あなたの名前?」

猫は、何も言わない。

ただ、私の手に頬を押しつける。

私は笑った。

涙で視界が滲んでいるのに、月がやけに綺麗に見えた。

その夜、猫は帰らなかった。

私の布団の端に丸くなり、眠った。

私は、久しぶりに眠れた。

完璧な答えは何も出ていない。

未来もまだ白紙のまま。

でも、白紙は、怖いだけじゃない。

描ける余白だ。


朝、目を覚ますと猫はいなかった。

布団の端だけが、ほんのり温かい。

ベランダに出ると、鉢植えの花はしぼんでいた。

まるで昨夜の出来事が夢だったみたいに。

それでも、首輪の白い糸の文字だけは、はっきりと思い出せる。

月の花。

夜に咲くもの。

暗さの中で、光を拾うもの。

私はカーテンを開け、朝の光を部屋に入れた。

太陽は眩しい。

だけど、私はもう少しだけ、自分の夜を信じてみようと思った。


  ~ 終 ~

#シロクマ文芸部

いいなと思ったら応援しよう!

伊藤ようこ| 強み×IT×AIで女性起業家をサポート| 自己受容から始まるしなやかな生き方note あなたの応援が、私の毎日の創作の原動力になっています。最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。いただいたサポートは、書籍の購入など、これからの活動に大切に使わせていただきます。みなさんのおかげで、毎日noteを書くことが楽しみになっています。

この記事が参加している募集