短編ドラマ「名もなき主役たち」第27話「路地裏の朝の交差点ー始まりは猫の鳴き声」
猫が鳴いた。
それが、朝と夜のすき間に落ちた最初の音だった。
早朝の路地裏は、まだ夜を背負っていた。
アスファルトの表面に、夜の雨の痕がまだ湿り気を残している。
建物と建物の隙間から差し込む淡い光が、金属の扉や錆びた手すりを静かに照らしていた。
ひとつの缶の影が、ほんのわずかに東へ傾きはじめている。
世界が動き出す直前の、かすかな傾きだった。
その薄明かりのなかに、ひとり、しゃがみこんだ少年の背中があった。
制服の袖を少しまくり、泥のついた自転車をひっくり返し、チェーンと格闘していた。
少年は、苛立ちと諦めの中間にいる。
それでも指を止めないのは、時間が動いてしまったことへの、小さな抵抗だった。
「……またかよ……」
彼はつぶやく。けれど、その声がどこに向いているかは、本人にもわからない。
足元には、一匹の猫がいた。
茶トラ。傷はないが、どこか不器用な顔立ちをしている。
何かを見透かすような目で、少年の動きを見つめていた。
少年はその視線に気づき、猫の顔を睨むように見つめ返した。
「……バカにしてんのかよ」
猫は目を細めただけで、身じろぎもしない。
ただ、その場にいる。それだけで、この路地裏の空気を成立させていた。
ヒールの音が、石畳の端をコツリと打った。

振り返ると、黒いワンピースを羽織った女が歩いてきた。
長い夜の終わりを引きずったまま、口元には火のついていない煙草。
早朝の空気に似合わない強い香水の残り香が、冷たい空気に浮かんだ。
ホステスの女は、少年の姿に目をとめ、煙草をくわえたまま近づいた。
「なにしてんの、そんな朝っぱらから」
彼女の声には、眠気でも怒気でもない、ただ“知っている”人の響きがあった。
少年は戸惑いながら、指先を止めずに答える。
「……チェーン外れただけです」
彼女は小さく鼻で笑って、少年の手元を見下ろした。
「逆。そこじゃない。そう、ここを……押して、回して、はい。入った」
少年は思わず手を止めた。
魔法みたいだった。
「……すげぇ」
「慣れよ。うちの弟がよくやってたの。型番でクセあるんだよね」
彼女は煙草に火をつけながら、少年の顔を見ずにそう言った。
少年はその横顔をちらりと見た。
深夜を越えて、少し崩れた化粧と、疲れたまぶた。
だけどその中に、どこか静かな落ち着きがあった。
少年は心のどこかで思った。
この人は、きっともう何も驚かない。
猫が、ふたたび鳴いた。
短く、少し乾いた声だった。
その声にかぶさるように、奥のダンボールがかさりと揺れた。
「……うるせぇ……」
段ボールの隙間から、スーツ姿の男が体を起こしかけていた。
シャツはぐしゃぐしゃで、靴は片方だけ脱げ、スマホが無造作に地面に落ちている。
ホステスは顔をしかめた。
「ああ、昨日の客。部長に怒られて、自分語りして、焼酎あおって潰れたやつ」
彼女はしゃがみこみ、スマホを拾って、そっと男の胸ポケットに戻した。
少年は思った。
ああ、この人は冷たいようで、ちゃんと優しい。
「このまま寝てたら熱中症なるし。少しだけ動かしとく」
彼女は男の足元をかるく蹴って、日陰にずらした。
ちょうどそのとき、路地裏の入口から原付バイクのエンジン音が響いた。
若い配達員がバイクを停め、ヘルメットを取ってあたりを見回す。
「……うわ、またあの人寝てるし。危なっ。おはようございまーす!」
ホステスが軽く手を上げて応える。
「毎回ここで寝てんの? すげーな、記録更新じゃん」
配達員は笑いながら、少年に気づいた。
「あ、チェーン直った? それ、ハズレ型だから外れやすいんだよ。俺、中学んときそれで遅刻しまくって内申落ちた」
少年は照れ笑いを浮かべた。
今日、朝から3人と喋っている。それだけで、ちょっと胸が温かくなっていた。
配達員は「行ってきまーす!」と手を振り、バイクを走らせて去っていった。
路地裏に再び静けさが戻る。
猫は、ひとしきり皆を見届けたあと、ゆっくりと立ち上がり、壁の隙間へと消えていった。
少年は自転車を起こし、ホステスの方を向いて言った。
「ありがとうございました」
「いーのよ。がんばって。……がんばらなくても、なんとかなるけどね」
少年は笑って、自転車を漕ぎ出した。
チェーンはもう外れていない。ほんの少しのスピードでも、風は背中を押してくれる。
ホステスは煙草を灰皿がわりの缶に押しつけ、ため息まじりに歩き出した。
ヒールの音が、乾きかけたアスファルトにひとつ、またひとつ落ちていく。
路地裏の奥、陽があたりはじめた壁の下で、
酔ったままの男が、時間に取り残されたように眠り続けていた。
世界は少しずつ明るくなっていく。
けれど、すべてが同じ速さでは動かない。
猫だけが、それを全部知っていた。
今日もまた、誰にも名前を呼ばれることなく、名もなき主役たちが交差していく。
その短い交差が、世界の片隅を少しだけ、あたたかくした。
\第28話につづく/
(次回:7月16日公開予定)
※本作に掲載している写真は、記事のイメージに基づいて作成したものです。
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