短編ドラマ「名もなき主役たち」第26話「エレベーターの中のそれぞれの夏」
午後5時13分。マンションの1階、エレベーター前。
コンクリートの壁は、熱を蓄えたままじっと沈黙している。
触れると、生ぬるく、わずかに湿っていた。
空気には、どこかの部屋から漏れ出した夕飯のカレーの匂い。
湿気に乗って、必要以上に自己主張してくる。
古びた蛍光灯が、「チッ」と鳴く。
足元には黒ずんだガムの跡。脇には、誰かが落とした溶けかけのアイスの輪郭。
遠くで響くエアコンの室外機の音が、暑さの持続性を物語っている。
まるで、真夏の暴力だ。
エレベーターの前には3人。
若い母親は、片腕に子どもを抱き、もう片方の手でベビーカーを引きずっている。
前髪が額にぴったり張りついていて、「今日はもう無理」と全身で語っている。
焦点の合わない目。
暑さも育児も、そして仕事の疲れも、まるで同時に押し寄せてきているようだ。
子どもはタンクトップ1枚。
毛玉だらけのミニ扇風機を振り回していて、やたらうるさい。
「それ、何年製?」と思わず心の中で聞いてしまうほど。
隣の会社員は、汗が乾いてYシャツがパリパリになっていた。
ネクタイは首からだらりと垂れ、持っているペットボトルの緑茶はもう常温を超えている。
腕はうっすら日焼けしていて、腕時計の跡だけが真っ白。
「これ、日焼けじゃなくて軽いやけどですね」
昨日、皮膚科で言われたばかりだ。
もうひとり、高校生。
制服のシャツには、アイスノンで冷やした痕が薄く残っている。襟元は開けっぱなし。
手に持ったコンビニ袋の中には、ジャンプとチョコモナカジャンボ、そして凍ったポカリ。
全身から「勉強も恋も、もう無理。夏が全部溶かした」という空気を放っている。
「チーン」と金属音。エレベーターのドアが開く。
乗り込んだ瞬間、モワッとした熱気に包まれる。
「え、冷房効いてるよね?」と目配せだけで会話する3人。
誰も「どうぞ」とは言わない。
ただ、母親と子どもが自然と先に乗り込んだ。
それは気遣いというより、「これ以上立ちっぱなしは死ぬ」という本能の判断だった。
【2階】
ドアが開く。誰も乗ってこない。
外の廊下から熱風だけが吹き込んできて、サウナの入口みたいな空気。
子どもが「ぴゃー」と突然叫ぶ。
高校生がびくっとするが、顔は動かさない。
目だけで「ビビってない、ただ暑くて動きたくないだけ」と主張している。
母親がぽつりとつぶやく。
「…予約してた霊も、今日は暑くてキャンセルしたのかもね」
沈黙。
会社員が鼻を鳴らすように笑い、高校生が「それ、アリだな」と思いながら、ほんの少しだけ口角を上げる。

【5階】
女子中学生が乗り込んでくる。
汗で額に髪が張りつき、バッグの紐の部分だけ日焼けして色が変わっている。
手には、飲み干したチューペットの名残がまだくっついていた。
母親が「開」ボタンを押す。
女子中学生は片耳イヤホンのまま会釈。
口元が「すみません」と動いたように見えるが、声は聞こえない。
高校生と目が合いかける。すぐに逸らす。
前髪をいじろうとして、ポカリのボトルを握り直す。
凍っていたそれが、ぬるくなっていることに焦りを感じる。
【7階】
杖をついたおじいちゃんが乗ってくる。
甚平にサンダル。扇子で顔をあおいでいるが、完全にテンポが昭和。
新聞の見出しは「熱中症対策してますか?」
手に持っているのは、ウイスキーの空きボトルに入った麦茶。
母親が「開」ボタンを押す。
高校生が「俺が押すべきだった」と無言で後悔する。
おじいちゃんが乗り込みながら、ぼそっと言う。
「暑いねぇ。命が削れてくよ…」
誰に向けたわけでもないその一言に、エレベーター内の空気が一瞬真顔になる。
【9階】
誰も乗ってこない。
女子中学生がため息をつく。
高校生も釣られて息を吐きかけ、「タイミング被ったのダサい」と思って飲み込む。
代わりに、ぽつんと。
「…あ、降りるの忘れた」
誰も返さない。けど、全員がうっすら笑っていた。
おじいちゃんが小さく「あるある」とだけつぶやいた。
【11階】
ドアが開く。
一瞬だけ、冷房の効いた部屋の空気が流れ込む。
天国の入口みたいな匂い。けど、やっぱり誰も乗ってこない。
遠ざかる足音だけが聞こえた。
「…たぶん霊だな。暑くて出てきたんだ」
おじいちゃんのその一言に、イヤホン女子が肩を震わせて笑う。
その笑いが、ほんの少しだけ空気を冷やした気がした。
【13階】
会社員が降りる。
「エアコン直ってますように」と心の中で祈りながら。
彼の背中には、「おつかれさまでした」じゃなくて、
「ちゃんと水分とれよ」が乗っていた。
【14階】
女子中学生が降りる。
片耳だけイヤホンを外し、誰にも振り返らずに言った。
「ありがとうございました」
誰に向けた言葉かは、誰にもわからなかった。
でもその一言で、全員がほんの少しだけ姿勢を正した。
【15階】
母親と子どもが降りる。
「すみません、うるさくて…暑さでぐずっちゃって」
「い、いえ、あの…全然…だいじょ…ぶっす」
高校生がやや言語崩壊しながら答える。暑さのせいにした。
子どもが「また会おうねー!」と手を振る。
【15階〜屋上】
エレベーターは上昇を続ける。
でも、車内には沈黙が流れていた。
それでも、重くはない。
どこか、夕立前の静けさのようだった。
おじいちゃんが口を開く。
「お前さん、どこまで?」
「屋上っす。風、あるんで」
「俺もだ。ついでに月、見てくか」
ふたり、同時に笑った。
その笑いが、今日一番の涼しさだった。
屋上で、ドアが開く。
貼り紙。「※熱中症注意・閉鎖中」
ふたり、無言で14階へ戻る。
エレベーターはまっすぐ上へ向かう。
けれど、乗っている人間たちは、汗だくで、曲がっていて、少しだけ優しい。
連日の猛暑。
みんなちょっとおかしくなってる。けど、それも悪くない。
冷房が効いてない日も、笑える瞬間はある。
それが、ちょっとだけ楽しみになってくる。
……誰にも言わないけど。
\第27話につづく/
(次回:7月13日公開予定)
※本作に掲載している写真は、記事のイメージに基づいて作成したものです。
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