算数教科書の記述「整った形」

新編 

新しい算数 5 下

東京書籍
(現在子どもたちが使用中のものです。)

 最近の算数教科書が、かつてとは似ても似つかないものになっていることをご存知でしょうか?

「整った形」の出現

 それはさておき、つい先日のこと。現在、小学五年生が、円を利用して正多角形を描くことを学んでいます。それを見ているうちにふと気になって、教科書を確認してみました。その時、次のような記述が目に入りました。「まとめ」と言う見出しで、四角く囲った中に書かれています。

まとめ
辺の長さも角の大きさもすべて等しいから、
正多角形は整った形をしているね。

東京書籍 「新編 新しい算数 5下」

(原文は、「まとめ」という見出しは黒い枠内に白抜き文字で書かれており、上の太字部分は、太字ではなく、太めの破線で下線が施されています。)

 この記述について、いろいろな方のご意見を聞いてみたいと思いました。(特に、数学に携わっていらっしゃる方や、数学に関心ある方々の意見をお聞きしたいです。)筆者が引っかかったのは、「整った形」という表現です。
 ここで、「整った」と言う必要はあるのでしょうか?あるとすれば、この記述者はこの語で何を言いたいのでしょうか?
 念の為に、子どもに尋ねてみました。「この、『整った』という言葉、今まで算数で出て来たことある?」答えは「否」。(ただし、5年生の子のことなので、正しいかどうかはわかりません。)「じゃ、先生はこの『整った』という言い方について、何か説明された?」答えはやはり「否」。(同) それはそうだろうと思います。
 子どもの話が本当なら(おそらく本当だろうと推測しますが)、ここに出て来た「整った」という言い方は、どのような内容を言うのに用いられているか、どんな場合に私たちは算数で「整った」と言う言葉を使うことにするのか、等々について、子どもたちは教科書にも先生にも何ひとつ説明されないでこの言い方に触れることになります。

「整った形」への疑問

 「整った形」は、ここでは、多角形の辺の長さがすべて等しく、角(おそらく内角のこと)の大きさが全て等しい、という場合に関して用いられています。おそらく、この記述で疑問を抱く子はいないのだろうと思われます。そして、まさにそのことが筆者には気にかかります。
 これが他の教科の教科書なら、何も問題にしようとは思いません。国語の教科書に「整った顔立ち」と出てくる文章が載っていれば、この表現を用いる発話者に違和感を抱くことはあっても、言葉遣いがおかしいとは思わないでしょう。
 また、最近の教科書にたくさん現れる、特定の(架空の)子どもの「感想」例として載っているなら、それは見咎める必要はないと言うべきでしょう。
 しかし、算数の(そしてもちろん数学の)まともな記述に、「整っている」という曖昧な言い方が紛れ込むことは許されるのでしょうか?(例えば数学の「完備順序体」という術語はどのような内容を指すかは明確に定められています。)あるいは、「整っているか、整っていないか」が問題になる場面が今後あるのでしょうか?あるとすればどのような場面でしょうか?もし、そのような場面があったとき、私たちは上の「整った形」と言う用例から、その場で適切な判断を下せるのでしょうか?
 「整った形」という表現が、もし日常語と異なる使い方であるなら、それがわかるような文章を書く必要があるのではないでしょうか。

 しかし、この教科書の記述者にとって、「整っている」、とは、そもそも日常語の用い方なのでしょうか、それとも日常語とは区別して用いたものなのでしょうか。「整った」はどのような意味内容なのでしょうか?
 ある形が「整っている」というなら、当然「整っていない」形があるわけです。おそらく、この筆者にとって、不等辺三角形は正三角形に比べると「整っていない」わけでしょう。では、二等辺三角形とひし形はどちらかがより「整っている」のでしょうか?それともこの両者はともに単に「整っていない」のでしょうか?両者が同等だとすれば、あるいは異なるとすれば、それぞれの判定はどのような根拠に基づくのでしょうか?
 この記述者にとって、円は「整っている」形なのでしょうか?それとも「整っていない」形なのでしょうか?直線は「整っている」のでしょうか、「整っていない」のでしょうか?平面は?球は?正四面体や正六面体は「整った形」でしょうか?では正八面体はどうなのでしょうか?

実在世界へ持ち込まれる「整った」

 上のような疑問が生じるのは、実は、自然界にはこの記述者が用いる意味での「整った形」というのは存在しないからです。(実は正多角形というものも自然界には存在しません。)
 正多角形は「整った形」だと断定する時、この世界には「整った形」と「整っていない形」があることを無条件に肯定してしまうことになります。小学五年生の子は、この記述を見た時、格別な疑問を抱かないかもしれません。ということは、五年生の子には、「整った」という言葉の意味が朧げにでも形成されつつある、または「整った」と言う語の意味をこの記述を通して身につける、ということになります。「整った形をしている」という断定を鵜呑みにした子は、この世には「整った形」というものがあり、そうでない形とは区別して、特別扱いされるのだという無意識の発想が形成されるでしょう。
 自分の小学五年生の頃を思い出してみると、円や多角形が現実世界には存在していない、いわば一種の「理想形」であることを、明瞭に覚知できてはいませんでした。コンパスを用いれば円が描けると無邪気に思い込んでいた(そして同時に、図がなかなか「正確に」描けないことに閉口していた)ように思います。その程度の知力の子どもにとって、この世界に「整った形」(と、そして当然、「整っていない形」)があると刷り込まれることは、子どもの思考力に大きな影響を及ぼすように思われます。なぜなら、それは「私たちの生きているこの世界には、整ったものと整っていないものがある」という先入観を植え付けることになるのではないかと思われるからです。

 世界を了解するには、何らかの了解の手段なり原理なりが要ることは確かでしょう。
 「整っている」という概念があると、その概念から、世界の多くの姿が見えて来ることはあるかもしれません。その時、この概念がない場合よりもある場合の方が世界の解釈が進む、という側面があるかもしれません。
 しかし、繰り返しますが、現実世界には、数学で学ぶ正多角形のような意味での「整ったもの」は存在しません。だとすると、この「整った」という概念を用いることで(または無意識に作動させることで)生まれる世界の解釈は、真の世界の理解のために果たして本当に役に立つものでしょうか?その概念がある方が無いよりも賢い解釈ができると言えるのでしょうか?むしろ、実体のない概念が世界を単純化して実情を見えにくくする惧れはないでしょうか?
 まだまだたくさんのことを吸収し学ぶべき小学五年生の頭脳に、「整った」という概念を忍び込ませる(または、少なくとも補強する)ことが、子どもの将来にとって、学問の将来にとって、好ましいことだと本当に言えるのでしょうか?

数学世界の特殊事情

 上の議論に対して、もちろん反論はありうるでしょう。
 反論の第一は、「整った」という概念の形成は、学問一般の将来にとっては有益であるか否かはわからないが、数学の将来にとっては間違いなく有益である、という議論でしょう。(そして、数学が自然科学の最強の道具であることを考慮すれば、少なくとも自然科学、とりわけ物理学にとっては有益であると言えるだろう、と。)
 「整った」という言葉そのものがどの程度適切かはともかくとして、数学においては、「整った」という言葉遣いに現れるような発想傾向は根本的に重要なものである、と言われれば、私たちはそこに異義を唱えることは難しいように見えます。数学の世界には、「整い方」に対する感性に支えられて発展した領域がたくさんあるでしょう。(門外漢が憶測しても無意味でしょうが、たくさん、どころか、数学のほとんどの成果がそのような感性の開花であるのかも知れません)
 だから、そのような感性を早いうちに身につける方が、数学を学んでいく上で得策なのだ、という考え方は一理あります。
 しかし、「整っている」という感覚を手がかりにしていいのは、数学という特殊な世界だからです。すなわち、仮に正多角形が「整っている」とすれば、それは扱っているのが「正多角形」という数学的存在だからです。
 もし、教科書に「正多角形は整った形である」という記述を用いようとするならば、私たちの対象が「数学的存在に限定されている」こと、そして私たちが数学的原理に則って思考しようとしていること、を明確に示す必要があるのではないでしょうか?

算数教科書の記述「整った形」の可否

 そんなことができるはずはない、というご意見がおそらく多いことでしょう。筆者自身もほぼ無理だと考えます。実は、小学五年生で「多角形とは何か」を即座に過不足なく説明できる子はほとんどいません。(教科書には一応定義らしきものは出て来ます。)例えば直線だけで囲まれた平面図形、というとき、直線とか平面とか図形とかいった数学的存在を認識できている必要があります。そんなものは、結局のところ定義し尽くすことさえできないのだから直観に委ねておいて、図形についての考察を深めないといつまで経っても学びが始まらないではないか、という意見もその通りかも知れません。
 だとすればなおさら、数学世界限定の言説であるのを断ることなしに、小学五年生の教科書に「整った形」という記述を持ち込むことは許されるのか、と筆者は疑問に思います。

 この教科書の「整った形」という記述が弁護されるべきであるとしたらそれはなぜか、数学的観点からのご意見を拝聴したいと思います。


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