夜の住人 ショートショート
「ふわぁ…」
思わずあくびが出た。
「杉田くん、たるんどるな」
課長に鋭く声をかけられる。
「す、すみません!」
見られていたと、あわてて姿勢を正す。
僕はある会社で経理事務をやっていた。いくつもの長い数字の羅列を見ていると、だんだん目が回ってきてしまう。それで少々困っていた。
自分なりに必死に仕事をしていたが何かとミスが多く、今日も上司にうるさく小言を言われ小さくなっていた。
「課長さー、杉田に当たりすぎじゃね?」
うなだれて席に戻ると、隣の山口が小声で話しかけられる。ハハ…、と力なく笑った。
「お前もさ、もっとしれっとしてていいんだぞ」
「うーん、そうだね」
と言いつつ、つい縮こまってしまう自分がいた。
「はあ、やっと終わった…」
課長に押し付けられた仕事を何とか終えて、終業時間を大幅に過ぎた頃に会社を後にする。とぼとぼと家路をたどり、安アパートの自宅に着いた。
「ただいま…」
誰もいないのに、実家にいたときの癖でついそう言ってしまう。と、ふわりと風が吹いて、足元にスルリと何かが通っていった気がした。
「ん?」
見ると、玄関の上がり框に黒い何かがいる。目を凝らすと黒猫だった。
「ここはお前の家じゃないよ。おかえり」
そう言ってドアを大きく開けて出やすいようにしても、座ったままこちらをじっと見ている。そしてニャアと鳴いた。
どこの猫だろう。この辺では見覚えがないような…
「お腹が空いてるのか?」
そう聞くとまたニャアと泣き、足元にまとわりついてくる。ゴロゴロと喉も鳴らしていた。
実家でも2匹飼っていたので、懐かしくなって頭を撫でる。すると嬉しそうに顔を手に擦りつけてきた。
「──しょうがないな。じゃあ今日だけだから」
そう言って抱き上げると、風呂場で足を洗ってやり、ご飯に味噌汁と鰹節をかけて与えた。猫はうれしそうに鳴くと匂いをフンフンと嗅いだ後、食べ始める。
「もしかして迷い猫かなあ」
次の日も外へ出て行こうとしないので、キャットフードとトイレの砂や他一式を用意し、張り紙もした。けれど、飼い主は現れなかった。近所の人にも聞いたが、そんな猫は見た事がないと言われてしまう。
「お前、どこから来たんだ?」
ソファーの上にいる猫に聞いてみるが、知らんぷりをして毛づくろいをしている。頭を撫でるとゴロゴロと喉を鳴らした。
こんなに人懐っこいから、野良ではない気がする。毛のツヤもいいし、痩せ細ってもいない。
「家で飼ってもいいけれど、飼い主さんが心配してるかもなあ」
膝に座る猫を撫でながら、悩んでいた。
僕はここのところ、あまりよく眠れていなかった。眠りに入っても睡眠が浅く、すぐ起きてしまう。うとうとしてもまた起きるので、朝になってもちゃんと寝た気がしなかった。
薬に頼ったり、カーテンを厚いのに変えたりしてみたが、あまり効果はない。その夜、眠ろうとしたら、ベッドに猫が上がってくる。
「一緒に寝たいのか」
そう聞くと、体を擦り寄せてくる。とすとすと歩き、布団の上で丸くなった。僕はその背中を撫でながら、いつの間にか寝入ってしまった。
***
僕は夢の中で走っていた。得体の知れない何かに追われている。それが何かは分からないが、捕まってしまうと命の危機に関わる気がした。
懸命に走っているが、思うように足が動かない。すぐそこに、それが近づいてきていた。
「助けて!」
叫ぶけれど、声が出ない。とうとう追いつかれた、と思った瞬間、何かがバリバリ、と言った。
え⁈ と思うと、空に穴が開いている。そしてよく分からない大きな動物の口と牙が見えて、空をむしゃむしゃと食べていた。
「あれは何だ…⁈」
動物はどんどん穴を大きくしていき、音もかなりうるさい。耳がどうにかなりそうだと思った時、フッ…と意識が浮かび上がる。すると頭の横に何かがいて、僕の中から何かを吸い出してムシャムシャと食べていた。
これは何だ…?と思うが、睡魔に負けて再び夢の中へ落ちていった。
──気づくと、朝になっている。
「…あれ?」
なぜか頭がいつもよりすっきりしていた。変な夢を見た気がするけど、よく覚えていない。
布団の上には黒猫がまだ丸くなっていた。
「おはよう」
と言って撫でるが、背中をぞくぞくと動かしただけで、目を開けようとしない。
時計を見ると6時になっていたので朝ご飯を食べようとキッチンへ行った。
***
その日は体調もよく、仕事もはかどっていつもより怒られずに済んだ。その夜も、夢で何かおかしな事が起きたような気もするけれど、やっぱりほとんど覚えていなかった。
けれど、不眠がなぜか解消されてきて体の調子もだんだんよくなり、僕はなんとなく毎日が楽しくなった。何かいい事があったり、誰かと付き合ったりする訳でもなかったけど、自然と鼻歌が出るような気分でいつも過ごせるので、それほど好きじゃない仕事も少しははかどるようになった。
今日はいい猫缶を買って行ってやろうかな──僕は軽い足取りで家へ帰る。
「ただいまー」
とドアを開けると、ニャアと鳴きながら出迎えてくれた。
よしよし、と頭を撫でてやる。と、妙な事に気づいた。何だか色が薄くなっていないだろうか。もっと真っ黒だったような──
「どうかしたのか」
と聞いても、鳴き声をあげるだけだった。でも元気そうだし、それ以外は特に変わった所は無い。もしかしたら、元々こういう色だったのかもと考え直した。
それから数日後。さらに色が薄くなっている。元気がないとか食欲がない、という事はない。何も問題ないし、眠る時もベッドの上で一緒に寝ている。
「どうしたんだろうなあ、お前」
次の日が休みだったので、病院へ連れて行く事にした。
***
翌日、出かけようとすると猫がいない。
「あれ…?」
家中探してもどこにも見当たらなかった。
「クロ?」
押し入れや戸棚にも姿がない。僕が寝ている間に、どこかの隙間から逃げてしまったんだろうか。
仕方がない、また今度にするかと諦めた。
翌朝寝ていると、ニャーと声がして顔を舐められる。
「あれ?帰ってきたのか」
猫はゴロゴロと喉を鳴らしていた。
けれど、さらに薄くなっている気がする。真っ黒だったのに、黒曜石のように透けて向こう側がうっすらと見えるようなのだ。
「おかしいよな…お前、大丈夫なのか?」
尋ねても、いつも通り毛づくろいをしたりテーブルに乗ったりしている。
何か様子がおかしかったら病院へ連れて行こうと、しばらく様子を見る事にした。
そして、日に日に色が薄くなっていき、ある朝目を覚ますと、いつも寝ているふとんの上にいなかった。おや、と思い
「クロ?」
と呼んでみるが、声がしない。
リビングや浴室などを見てみたが、姿はなかった。また家を抜け出してどこか行ってしまったんだろうか。けれど数日たっても、それ以降は現れなかった。
あの猫が家に来てから、だんだんよく眠れるようになり、おかげで体調も良くなった。
そう言えばあいつが家に来たばかりの頃、寝ていたらバリバリと夢を食べられるような音を聞いた気がする。もしかして、あれが僕の悪夢を食べてくれたんだろうか…。あの猫はそうやって僕の中の悪いものを退治してくれたのかもしれない。
あの猫は夜の一部で、僕から漏れてきたそれを回収するためにやってきたのかも…そしてそれが終わったから、帰って行ったのかもしれないと思った。
でも、アイツ可愛かったな。人懐っこかったし。僕はぼんやりあの猫のことを思い出す。
けれど、彼は黒すぎて、どこに目があるのかわからなかったな。
了(3111字)
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