夜明けの向こう(お題:夜明け #風まかせ文芸部) ショートショート
「どうしよう、どうしたら…」
里美はガクガクと震えながら、白んでいく空を見つめていた。
傍には冷たくなった男が横たわっている。
***
彼女はある小さな製造会社に入社した。新卒だったが、他にどこも内定をもらえず、やっとの思いで滑り込んだ所だった。
他にも数人の新卒はいたが、みんな家が近かったとか、親戚が同じ系列の会社に勤めているからというような理由だった。キラキラと眩しい彼らを横目に、引け目を感じていた。
要領の悪い彼女は、直属の上司の田口に目をつけられ、モラハラを受けていた。何かと言いがかりをつけられ、ネチネチと文句を言われる。書類に誤字脱字などあろうものならここぞとばかりに叱責された。同じ事を何度も何度もしつこく注意され、里美は日に日に疲弊していった。
「田口係長、ちょっとひどいよね」
同期の富永が、更衣室のロッカーで彼女に声をかける。
「ほんと、毎日よく飽きないよね。里美、カワイソウ」
同じ課の絵奈も、鏡をのぞいて化粧を直しながら同調する。
「あんまりエスカレートするなら、人事や上の人に相談したほうがいいよ」
富永が少し怒ったように言いつのった。
「うん…ありがとう」
里美は2人の厚意がありがたかった。けれど、田口が何と言うかと思うと、恐くて行動に移す事はできなかった。
今夜もへとへとになって帰宅する。終業時に係長に仕事を押し付けられ、すっかり遅くなってしまった。玄関に見慣れぬ段ボール箱が置いてある。送り主に、実家の住所が書いてあった。
「…!」
顔をパッと輝かせ、家の中へ運び入れる。中にはニンジン、じゃがいも、海苔や彼女の好きな銘柄の紅茶などがぎっしりと詰められていた。
もう9時を回っていたが、実家へ連絡する。数回の呼び出し音の後
「はーい」
と、のんびりした声が聞こえた。
「お母さん?荷物、届いたよ」
「ああ、そうね。よかったばい」
懐かしい母の声に、固く干からびた心が少しだけ潤った。
「いっちょん電話して来んけど、元気にしとんね?心配やけん、もっと連絡ばせんね」
「ごめんね、忙しくて…」
脳裏に田口の不機嫌そうな顔が浮かんで、振り払うように首を振る。
「そうなん?大丈夫ね。あんたはすぐ根ば詰めるけん、ちゃんと寝らんといかんよ。
ゆっくり休まんね」
「…ありがとう」
母の優しさに触れて、涙腺が緩みそうになる。
「何ね?もしかして辛かことでもあるとね。言ってみんね」
「…ううん、何もなかよ」
里美はあわて言い繕ろう。母に心配をかけたくなかった。それに、ちゃんと独り立ちした姿を見せて、安心させたいという気持ちもある。
「お母さんも元気にしとる?」
「うちは大丈夫よ。お父さんも元気ばい」
「そう、よかった」
「じゃあ、もう遅いけん。明日もあるやろ?早よ寝らんね」
「うん、おやすみ…」
里美はそう言うと、通話の切れたスマホをいつまでも見つめていた。
***
けれど、彼女の環境はさらにひどくなっていった。里美は文句1つ言わなかったため、田口はますます辛く当たるようになる。誰かのミスでも、彼女のせいにしていつまでも詰り続けた。
里美はしだいに寒暖の差を感じられなくなった。他の社員が
「今日は暑いね」と言ってもよく分からないし、冷房で室内が冷えて、みんなが上着を羽織っても、薄着のままパソコンに向かっていた。
体調の変化は他にも現れる。食事が喉を通らなくなった。空腹でも弁当を食べようとしても、うまく飲み込むことができない。喉に何かつかえているような気がして、でも何も出てこなかった。
手にも、震えが出るようになる。筆記用具を使おうとしても、書くことが難しい。しょうがないので、全てパソコンで入力して書類を提出した。
彼女は異変が表れても、会社を休もうとしなかった。一度でも休んでしまえば、二度と行けなくなる気がしたのだ。それに、もしこの会社を辞めても、転職できる自信はない。
たとえできたとしても、さらに条件の悪い会社になるかもと思うと、今の所を辞める勇気はなかった。
朝、重い体を無理矢理起こして、満員電車に揺られ、夜も更けて疲れた体を引きずりながら帰宅する。それを半ば自動的にこなしていた。
***
ある日、終業間際に里美の作った資料にミスが見つかった。
「おい、中田!ここ間違えてるぞ!」
係長の田口が語気も荒く注意する。あわてて彼の席へ行き、確認した。決算の計算の行が1つずつずれている。
「あ、すみません!すぐに直します」
「何やってんだよ、いつもいつも。明日の朝までに出さないといけないんだよ」
今日中に直しとけと、書類を突き返される。
彼の元を去る時、机上に奥さんと子どもらしき写真立てが置いてあるのに気づいた。女性は明るい笑顔で映っている。
(係長、会社では怖いけど家では違うのかな)
そんな事をチラッと考えながら、小さくハイ、と返事をすると小走りに自分の席へ戻った。
***
作業はかなりの時間を要した。必死に修正し、気づけば窓の外は真っ暗だった。他の社員たちは自分の仕事が終わると
「お疲れ様ー」
とさっさと退社していった。
「もう少しで終わりそう…」
彼女はふうと息をつくと、壁の時計を見上げる。10時をとうに過ぎていた。
「わ、もうこんな時間」
つぶやくと、また作業に戻ろうとする。
と、部屋のドアがガチャ、と開いた。田口係長だ。彼女は思わず緊張する。だが、雰囲気がいつもと違っていた。わりと小柄で痩せ型だが、いつもビシッと背広を着ているのに、ネクタイが少し緩んで心なしか血色がいい。というか、赤らんでいる。
「おや〜?中田、まだいたのか」
「え、ええ…」
彼女は突然の来訪者に動揺した。
「忘れ物したから取りに来たんだが、まだいるとはなあ」
ふらつく足取りで、自分の席から何かを取り出し
「ああ、あったあった」
と言う。そして、こちらへ近づいてきた。
「そういや、仕事はもう終わったのか」
「は、はい。もう少しで…」
怯えながらそう答えると
「は〜、まだなのか。お前はほんとグズだな」
と言う。
彼女はうつむいた。手の震えがひどくなっている。それを隠すため、手首を抑えた。
「もうとっくに帰ったと思ったのに。とっとと帰れよ」
「はい…」
仕事を早く終わらせようと、再度パソコンを見つめた。
「本っ当にのろまだな。仕事もミスばっかだし、なんでこの会社に入れたんだ?人事も見る目がないな」
──やめて。
「全く、お前みたいなのがいるから非効率なんだよ。もう辞めちまえ」
と鼻で笑う。
やめてったら。
彼の罵倒に耐えるため、唇を噛み締め、拳を痛いほどぎゅっと握りしめた。爪が手のひらに食い込んで、うっすら血がにじむ。
「あ、そうだ」
彼はいいことを思いついたように言い出した。
「中田、お前明日から来なくていいわ。課長には俺から言っとくから」
里美のそばへ寄って囁く。
「お前なんか、いてもいなくても同じだよ。
誰も困んねえから早く消えろ」
彼の酒臭い息が、顔にかかった。
「……め…」
「――あ?」
「やめて…!」
彼女は小さく叫び声をあげる。
「なんだあ、お前……上司に口答えする気か⁈」
彼女に食ってかかろうとする。里美はとうとう我慢ができなくなり、思わずその首に両手をかけた。
「それ以上しゃべらないで…‼︎」
「な…、やめ…!」
田口は驚きで動けない。里美が反撃するとは夢にも思わなかったようだ。彼女はギリギリと、手に力を込めた。
「その臭い息を吐きかけないで…!」
これ以上、田口の暴言を耳にしたくない。一言だってもう我慢できなかった。渾身の力を込める。田口はあわてて振りほどこうとするが、酔っていてうまく外すことができない。
「ぐ……、この…っ!」
「しゃべるな!」
彼女はどこからそんな力が湧いてきたんだろうと思うほどの熱量で、彼の首を絞め上げていく。
――やがて、男の腕が力なくだらりと垂れる。体中の力が抜け、床にゆっくりと沈んでいった。そうなっても、里美は両手を首にかけたままだ。田口の瞳孔がグルンと上を向き、口に締まりがなくなって舌を出す。そうなって、彼女はやっと我に帰った。
「え…?」
状況が飲み込めない。だが、何かまずい状態になったのを肌で感じ、慌てて手を外そうとする。が、硬くこわばったそれは、なかなか言うことを聞かなかった。
「…っっ、」
指を1本1本、やっとの思いで引き剥がし、手を放す。そして荒い息をついた。
「……」
座り込んだまま、呆然と目の前の光景を見つめる。そこには、赤黒い顔をした田口が横たわっていた。
「……っ」
彼女は放心したまま、彼の体を揺する。意識をなくしたそれは、里美の動きに合わせて、ゆらゆらと揺れた。
「うそ…」
彼女は頭に手をやった。一体どうして…?
***
気がつくと、辺りは明るくなっていた。顔を上げて窓の外を見る。
もうすぐ夜が開けようとしていた。
「……」
彼女は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
あれ? 私、何をしてたんだっけ。どうしてまだ会社に…
と、田口が床に転がっているのに気づき、背中に冷水を浴びせられたような気がした。
「え……?」
がくがくと震えながら、記憶を取り戻す。
そうか、私残業してて、…それで田口係長が来て……
自分のしでかしてしまったことの恐ろしさに、心が押しつぶされそうになる。
どうしよう、どうしたら…
震える手で
「係長…?」
と体を揺すった。しかし何の反応もない。もう硬直が始まっているようだ。手に触ってみても、体温を感じず、ひやりとしている。
「ひぃっ…!」
里美は腰が抜けそうになる。恐怖で心が満たされ、頭がうまく働かない。
このままだと、みんなが出社してこの事を知られてしまう。かといって、田口をどこかへ隠そうにも重くて運べなさそうだし、たとえロッカーなどに入れても遅かれ早かれ見つかってしまうだろう。
チュンチュンと、スズメの鳴く声が聞こえた。辺りはもう明かりをつけなくても問題ないほど明るい。空が白く、雲も柔らかそうに浮かんでいる――
そういえば、ここのところずっと朝焼けを見ていなかったと気がついた。子供の頃早起きした時や、高校の頃は新聞配達をしながら眺めていたのに…
よろよろと立ち上がり、ふらつく足取りで廊下へ出る。非常階段を上って数階登ると、屋上のドアが見えた。息を切らしながら、外へ出た。
「あ……」
空は澄んでいて、下のほうに雲が少しあるだけだ。まだ明るい星が、いくつか光っている。低い山々から太陽が顔を覗かせていた。反対側にはまだ夜が残っていたが、東の方は赤く雲も所々ピンク色に染まっている。顔を上げてそれらを眺めていると、いつの間にか涙がぽろぽろと零れていた。
空がこんなに美しかったことを、すっかり忘れていた。私のすぐそばにそれはいつもあったのに――
彼女の中で、張り詰めていた何かがプツン、と切れたような気がする。
なんか、もう、いいや――
里美はフラフラと柵へ近寄ると手をかけて、
境界線を飛び越える。カツ、と黒いパンプスが屋上の端を蹴った。
これでやっと楽になれる。
里美は瞳を閉じた。脳裏に母の笑顔が浮かぶ。
――ごめんね、お母さん。全然親孝行できなかった。
そう思うと、彼女の意識はぷつりと途切れ、黒い虚無に飲み込まれていった。
了(4455字)
iさんの企画に参加させていただきました。思ったより長くなった…
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最近救いのない話ばかり書いてるけど、アンハッピーだけが好きなわけではありません…!ハピエンも好きだし書いてます(少ないけど おもしろければどんな結末でもいいというスタンス)
ありがとうございました、楽しかったです✨
