レイナアブソルータ〜フローレス・デ・イベリア#0プロローグ
あらすじ
「褒美を遣わす」と姫は言った。「ならばお前を」と王は答えた。
10世紀末のイベリア半島。キリスト教とイスラームが争いながら交じり合うこの地で、カスティーリャ伯領の末姫クラウディアは、相続権も持たぬ身でありながら港を拓き、造船技術を盗み、領地を富ませていた。トレドでは東西の知識がラテン語に翻訳され、世界中から学者と野心家が集まっていた時代。隣国アル=アンダルスの若き王アヴドゥルは傀儡として生きながら、バザールで出会ったじゃじゃ馬の姫のことだけを心に持ち続けていた。
史実の中に埋もれたスペインの物語。イサベル女王の、さらに前にいた女の話である。
プロローグ
ブロゴスの城
「クラウディア! 其方、コレが一番、欲しいモノだろう」
城門に響き渡る声の主は、南の大国アル=アンダルスの王、ジャスパール・アヴドゥル・ラフマール二世。
そう言って掲げた槍には、西のレオン王国サモラ伯爵――執拗にこの地を狙っていたアレハンドロの首がぶら下がっていた。
「ありがとう。今まで受け取った贈り物の中で最高のものだわ。中へ入って」
クラウディアは門番に開門を命じた。その後ろでは、父王の側近や大臣たちが苦々しい表情で立っている。
その中のひとりが、声を上げる。
「クラウディア様、異教徒を城に入れるなど……」
亡き父王の弟であり、参謀でもあったムニオだ。
クラウディアは鋭い一瞥投げかけ、無言で彼を黙らせた。
「構わぬ、跳ね橋を下ろせ」
それは先刻、慌てた門番からの報告で始まる。
「カリフが来襲。開門を迫っる!」
その時、クラウディアはまさに、父を助けるべく出陣しようとしているところだった。
慌てて、見張り台に立てば、見下ろした先にあるアヴドゥルの姿は、彼女の記憶にある幼い皇子や少年王の面影とは、あまりにかけ離れていた。
今日の彼は、いつもの顔を隠すクーフィーヤをマントのように翻えし、代わりに頭には兜を戴いていた。下には深紅のシルクのジュッパを纏っている。腰には湾曲した片刃の剣。その逞しく成長した体躯と眩いばかりの風格は、大国の王としての威厳に満ちていた。
クラウディアはその変貌に内心驚きつつも、微塵も動揺を見せずに、兵士に案内され、部屋に入ってきた彼の前へと立った。
アヴドゥルは、昔と変わらぬ輝きを湛えた青い瞳を細め、言葉を継ぐ。
「其方の父上が、国境付近の教会で騙し討ちに遭われた。助けに向かったが……今、一歩及ばなかった。すまぬ。だが、首謀者の首はこうして獲ってきた」
そう言いながら、アヴドゥルは臆することなくこの国で一番豪華な王の執務室へと踏み入り、クラウディアの前に首を転がした。
するとアヴドゥルが、
「父君の亡骸も持って帰った。どこにお連れすればいいか?」
そう言う彼の肩には青いシルクの布に包まれた塊が見えた。
丁寧に安置されているのがわかる。
それにイスラームの王族が他領の王と言っても名ばかりな者を運んできたのだ。これほどの礼はない。
クラウディアは、慌てて、今まさに地図を広げていたテーブルを指さし、それらを乱暴な仕草で広く開けた。
「父をここへ」
と言うと、アヴドゥルは、敬意を現すように、侍従たちにその骸を下ろさせて、丁重にテーブルの上に置いた。はらりと青い布がめくれ、父王の顔がのぞく。
クラウディアは、その冷たくなった、その顔を撫でながら、
「何故、父様は大丈夫だと思われたのですか?
いくらゴンザロ叔父からのお話だとしても、無防備です。何度、かの地の者に裏切られらば、わかるのですか?」
そう、そんなこと言っても、もう遅いのだった。それでも、何度も何度もクラウディアは訊ねていた。
その父はクラウディアの文句を笑って
「なんの問題もない」
と、答えることは二度とないというのに。
クラウディアは、そうだと、たった今、気がついたというように、足元にいるその無惨な姿の宿敵の首に向け、兵士に
「この首を彼方から文句を言われるまで、城の見張り台から吊るしておけ」
そう言うクラウディアの唇に、わずかな微笑が浮かぶ。
「これで長年の和平とは名ばかりの関係に終止符が打たれる。もうこれで、こちらに嫌がらせさえできない」
そうひとり言のように小さく囁くクラウディアの目は、父の骸から離れることはなかった。
それでも、クラウディアは、この目の前の異国の王に礼を尽くすべきだとわかるが、やはり父に目が行く。
彼女の後ろでは、ムニオが司祭を呼ぶように小姓に声をかけている。
それで、父の事は父の腹心に任せればいいと納得し、口を開いた。
「今回のこと、私からも、そしてカスティーリャからも礼を述べるわ。謝辞を。それとアヴドゥル様、貴方に相応しい褒美を差し上げたいのだけれど…」
そうクラウディアが言い終わる前に、アヴドゥルが、
「褒美か。ならば……其方を」
と、唇を薄く端に伸ばし、不敵に口角を上げた。
「其方こそが最高の褒美だ。以前と変わらぬその力強いヘーゼルの瞳、栗毛の髪、そして何よりその戦さにも赴くという勇敢な態度。どれを取っても、戦利品として申し分ない。『フラウ・ブラン・ド・カスティーリャ(カスティーリャの白い花)』」
通り名で呼ばれた瞬間、クラウディアの胸に何かがよぎった。
それを握りつぶすように手を、ぎゅっと握りしめる。
それが何かを確かめる時間は、今はないというように。
「まあ、お戯れを。妾などアル=アンダルスの国にとっては、他愛のない者。貴方の夫人とお比べになっても不足でしょう」
と、いつもの涼しい顔で交わした。
アヴドゥルは、クラウディアにしか聞こえないような小さな声で
「未だ伴侶を得ていなかったとは、なんという僥倖だ。我が妃になれ」
と告げ、彼女の手を取って指先に口付けた。
そのアヴドゥルの一連の流れる動作に、謁見の間は静まり返る。
そして、我に返った大臣たちが、再び騒ぎだすのに、時間は必要なかった。
「姫を戦利品のように扱うとは! 所詮は異教徒か!」
「だから入れぬと言ったのだ!」
そんな声を聞いて、アヴドゥルの青い瞳が、冷酷な光を帯びて彼らを射抜いた。
大臣たちを嘲弄するように、かつての幼い頃のような粗野な口調で言い放つ。
「儂が来んかったらどうなっちょったか、分かってて言とるんかい、ん? 文句垂れる暇があるんなら、姫の代わりに戦に出て戦功でも立ててみせろ。ああっ?」
その豹変ぶりに、クラウディアはふっと胸を突かれた。
体格も立場も変わってしまったが、中身はあの頃のままだ。かつてバザールで人攫いから自分を救ってくれた、あの時の少年のままなのだと。
アヴドゥルが、憧れの「じゃじゃ馬姫」に心奪われ、今や一人の女として、そして隣国の王として彼女を独占したいと切望していること――かつてトレドの学者たちや職人たちが彼女に魅了され、次々とカスティーリャへ渡った理由を、自分もまた身をもって理解してしまったこと――。
それをわからせるために、こんなに無謀なことをしたのだと、クラウディアが気づいた時には、全てが終わっていたのであった。
契りの儀
クラウディアは、彼のそんな態度を目にして、先ほどとは比べものにならない満面の笑みをたたえた。その途端、アヴドゥルが低い声で告げた。
「其方の気が変わらぬうちに、褒美をいただくとしよう」
彼はクラウディアの手を取り、抗う隙も与えず引き寄せ、抱きしめた。その性急さにクラウディアが眉をひそめた瞬間、視界が激しく揺れた。
彼は彼女のがっちりとした身体を、いとも容易く肩へと担ぎ上げたのである。
アヴドゥルの護衛たちが瞬時に周囲を固め、近寄ろうとする者を阻むのが見えた。逆さまになった視界の中で、乳兄弟のヒメノが必死に駆け寄ろうとして止められている。反対側では、大臣たちが「それ見たことか」と言わんばかりの、やるせない表情を浮かべていた。
腹の底に響くような、アヴドゥルの声がした。
「姫の部屋へ案内せよ。儂はここで契りの儀を執り行っても良いのだぞ」
(そうか、私は今、彼の肩に担がれているのか)
ようやく状況を理解したクラウディアは、彼の肩に手を置いて上体を持ち上げた。目が合うと、アヴドゥルの逞しい手が、落ちぬようしっかりと彼女の体を支える。
上体が起き、冷静さを取り戻したクラウディアは、側にいた侍女マリアへ
「構わぬ。アヴドゥル様を私の部屋へ案内せよ」
と毅然と言い放った。それは、己を奮い立たせる号令のようでもあった。
今、カスティーリャは王を失っている。存続の危機なのだ。
今回の敵は、アヴドゥルのアル=アンダルスではなく、同じキリスト教国のレオン王国。たとえ国王の関与がなかろうと、首謀者として自領の伯爵が父王の首を取ったのだ。
姉はかの国の摂政だが、同格のポルドゥカーレ伯がおとなしくしているはずがない。この悲劇の裏には、十中八九、あの男の策謀がある。
カスティーリャがレオン王国の一領地に成り下がるか、この機に乗じて完全な独立を勝ち取るか。今がその瀬戸際なのだ。
(私が動かねば、アヴドゥルは私ごとこの国を奪い、自治区として私に下賜するだろう。そんな屈辱、死んでも御免だわ)
クラウディアはアヴドゥルの肩の上から、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「エルビラ姉様へ、そしてレオンの王宮へ早馬を飛ばせ!『これは軍事紛争ではなく、親戚間の諍いである』と。司祭が来たら、父王の葬儀の準備を。義母様へも訃報を伝えよ。詳細は後ほど私が離れに赴いて話す!」
その言葉に、思惑を抱えた大臣たちが色めき立ち、派閥ごとに動き始めた。
「クラウディア様は、いかがなさるのですか!」誰かが叫んだ。
「私か? 私のことは捨て置け! それよりキリスト教圏での軍事衝突を避けよ。不幸なことにアル=アンダルスは、今年の「春の遠征」にカスティーリャを選んだようだ」
言い終わると同時に、大臣たちの視線が自然とアヴドゥルへ向けられた。
不遜で、敵意に満ちた視線。
アル=アンダルスの王、絶対的な力を持つアルマンソールの主。それがこの男だ。
アヴドゥルはそんな視線を歯牙にもかけず、震える侍女マリアに「案内せよ」と命じた。
部屋へ入るなり、アヴドゥルは
「貴様らも、さっさと下がれ!」
と声を荒らげた。
マリアが逃げるように去った後、凛とした声が響いた。
「姫様の乳母として、またカスティーリャの者として、王位後継者の婚儀の立ち会いを申し立てます」
それは紛れもなく、筆頭侍女のクロエだった。クラウディアにとって母も同然の存在。
「好きにしろ」
アヴドゥルが言い放つと、クロエは即座に下働きを呼び、湯の用意を始めさせた。
彼が指先で兜の緒を解き、重々しい鉄甲を外していくたび、金属の擦れる音が静まり返った部屋に冷たく響く。
彼は従者に命じて、クロエが用意したお湯で当たり前のように身を清め始めた。
カスティーリャでは水は命そのもの。その貴重な水を惜しみもなく使うアヴドゥルを見て、彼の国の豊かさと、これからことに迷いのない姿を見て、クラウディアは、昔トレドで聞いたあの美しい「異国の歌」を、突然思い出した。
それは、吟遊詩人がうたうアル=アンダルスの調べ――。
Stella in nocte illunis
(月なき夜に輝く星よ)
眩しく輝く アル=アンダルス
黄金の都 アッザフラー 花の都
夜を忘れた街
眼に星の導きを見出す姫が
砂漠を越え やってきた
姫を迎えし日 薔薇の花びらが自ら散り
噴水は絶えることなく歌い
黄金の回廊に月が満ちる
水よ 惜しみなく流れよ
これぞ神の恵み 幼き王のために
遥かペルシャより参りし姫よ
姫は奥の間に ベールの向こうに
星だけが その横顔を知る
歌の中の姫君は、溢れる水と薔薇の香りに包まれ、ベールの向こうで王を待つ。
クラウディアは、その歌を歌っていた吟遊詩人に、本当にコルドバでは、お湯をたっぷりと使った浴場あるのかとか、水が空を飛ぶのか聞いたことを思い出した。
あの時、吟遊詩人たちは
「知らない」
と言っていたが、アヴドゥルの様子を見れば本当のことなのだろう。
そして、こちらにやってくる彼の逞しい身体を眺めれば、これからのことに思いがいく。
自分は今から、この強大な力を持つ男に、この身を差し出さねばならないのだと。
「姫様、お着替えを」
クロエの落ち着いた声が、迷いの中にあったクラウディアを引き戻した。
クラウディアは震える指先を隠すように拳を握り、これからのことに意識を向けた。
そうだ、これは彼女が自ら選んだ道だ。アヴドゥルが真っ先に、何よりも望んだ「褒美」。
「これから、ここで……」
こぼれ落ちた独り言を、アヴドゥルが拾った。彼は彼女の前に跪き、そっとその手を包み込む。
クラウディア自身さえ気づかないほど、彼女の手は震えていた。アヴドゥルはその震えを鎮めるように強く握りしめ、熱を帯びた声で語りかけた。
「性急すぎたことは謝ろう。だが、其方に褒美を問われた瞬間、儂の頭は白くなった。他の答えなど浮かばなかったのだ……」
アヴドゥルが申し訳なさそうに目を伏せた
クラウディアの瞳に鋭い光が戻った。彼女は震える指先をあえて強く握り返し、毅然と彼を見据えた。
「謝罪など、必要ありません」
予想外の反応に、アヴドゥルが驚いたように顔を上げる。
「これは、私が提案した褒美です。私が口にした言葉の責任は、私が取る。……カスティーリャの王女として、一度放った言葉をなかったことになどいたしません」
その声は、震えていながらも凛としていた。
アヴドゥルは、彼女のその強さに打たれたように、しばし言葉を失った。
「……ああ、変わっていないな。其方は、あの頃のままだ」
そう言葉をもらすアヴドゥルの脳裏に、かつての光景が蘇る。まだ幼かった頃、城を抜け出し、バザールの喧騒の中を縦横無尽に駆け回っていた「じゃじゃ馬姫」。誰に気兼ねすることなく、己の意志を貫き通したあの少女の瞳が、今、目の前の気高い王女の中に宿っていた。
アヴドゥルは、今度は謝罪ではなく、深い敬意と熱い情熱を込めて、彼女の手に唇を落とした。
クラウディアは、アヴドゥルの顔にそっと手を伸ばした。
彼国への色々な思いは、まだ心の隅にある。
けれど、あのバザールで彼と笑い合った時やカラカラのメセタの台地で二人で駆け回った時と同じように、自分の意志がこの男を選んだのだ。そんな誇りが彼女を支えていた。
「さあ、私の身も心も其方に差し上げましょう」
そう呟き、彼女はアヴドゥルの瞳の奥へと、深く、深く沈んでいった。
