『テールランプの残像』
『追尾者』
夜の峠は、いつもジュンの独壇場だった。
2.5GTツインターボのスープラは、路面のクセも、ブラインドの先も、すべてを知り尽くしていた。
今夜も数台のハチロクとシビックを蹴散らして、いつものように勝者の余韻を纏ったまま下りにかかった。
だが、異変はすぐに起きた。
ルームミラーの奥に、ポジションランプが浮かぶ。
距離が詰まるのが早すぎる。
RX-7でもない、シルビアでもない。
あの重低音……
スカイラインだ。
R32……GT-R
しかも、こちらのラインを正確に、まるで狙いすましたようになぞってくる。
ジュンはアクセルを踏み込んだ。
スープラの6発が咆哮を上げる。
だが背後のランプは揺るがない。
おかしい……
ジュンはスライドぎみに突っ込んでいたヘアピンを、半ば強引に抜けた。
スープラのケツが一瞬浮いた。姿勢が乱れる。
そこに
ズバッと、インから黒い影が突き差してくる。
やはりGT-Rだ。
そして、抜き去られる瞬間、GT-Rの運転席にジュンの目は吸い寄せられた。
ハンドルを握っているのは女だ。
フワリと風になびくセミロングの髪が、一瞬ライトに照らされた。
GT-Rは、何事もなかったかのように、冷ややかにコーナーの闇に消えていく。
スープラのボンネットには、彼女のテールランプの赤が、しばらく貼り付いていた。
『風鳴りの先』
翌週の金曜、峠には雨が降っていた。
細い霧雨が路面を濡らし、白線の上をナイフのように滑るタイヤ。
ジュンは来ていた。
スープラのボンネットに、しずくがポツポツと音を立てる。
あの女は誰だ?
闇の中で追いつき、抜き去り、そして消えた。
何者かも知らず、ただ敗者の記憶だけが焼きついていた。
それが気に入らなかった。
……来る。
ジュンは顔を上げる。
エンジン音。
あの音だ。
空気を押しのけてやってくる、あの直6の重い鼓動。
現れたのは、あのGT-Rだった。
ライトが霧を裂き、一直線にジュンのスープラの前へ止まる。
窓がわずかに下がった。
彼女はいた。
セミロング。
無表情。
だが、眼だけが笑っていた。
「もう一度……やる?」
低い声。
女の声とは違う。
戦う獣の声だった。
ジュンは無言で頷いた。
両者のライトが、闇を斬る。
次の瞬間、二台のモンスターが霧の中に消えた。
雨の峠は命を賭けた博打だった。
だが二匹の獣は、呼吸するように走った。
スープラのリアが滑る。
GT-Rのフロントが切り込む。
コーナーごとに火花のような緊張が走り、ラインの奪い合いは鋭さを増す。
そして、ある下りのストレート。
ジュンは思った。
「……あいつ、ブレーキを遅らせる気だ」
見えた。
GT-Rのリアが、ほんの一瞬外へ逃げる。
雨の路面では限界を越えていた。
ジュンはアクセルを抜かず、食らいついた。
数秒の静寂……
そして、次の右ヘアピン。
GT-Rのインを、スープラが抜いた。
フルカウンター
リアを蹴り上げながら、ジュンはコーナーの闇へ飛び込んだ。
勝った……と、思った。
……が、ミラーには、やはりGT-Rのライトがついてきていた。
まるで、彼女はその一手さえ読んでいたかのように。
「やるな……」
ジュンは吐き捨てた。
だが、心がどこか笑っていた。
血が沸く。
脳が冴える。
こんな夜は……
何年ぶりだったか。
峠の終点。
停止線の手前で、ジュンは車を止めた。
GT-Rも、その後ろで静かに止まる。
彼女が降りてきた。
ライトに照らされたその横顔は、夜の獣のように冷たく、そして美しかった。
「覚えてないんでしょ?」
彼女が言った。
「高校のとき、ゲーセンでシミュレース、あなたに潰された。
ルール無視で壁に押し込んで勝ったくせに、“勝ちは勝ち”って言ったの、あなただよ」
ジュンは息を呑んだ。
遠い記憶が、雨音とともに蘇った。
「……あれ、お前だったのか?」
「名前くらい覚えといてよ。ミユキよ」
彼女はそう言って、踵を返す。
だがその背中に、ジュンは声を投げた。
「次は、ルール守って勝ってやるよ」
ミユキは、背を向けたまま手を挙げた。
それは賛意にも、挑発にも見えた。
霧の向こう、GT-Rのテールランプが闇に沈んでいく。
ジュンは煙草に火を点けた。
今夜、風はまだ鳴っていた。
あの時のままの音を連れて。
『静かな日曜日』
日曜の午後、ジュンは珍しく車を降りていた。
都内の片隅、コイン洗車場の隅っこ。
缶コーヒーを手に、濡れたスープラのボンネットにもたれかかっていた。
その背後に、GT-Rのエンジン音が近づいてくる。
振り返らずともわかる。
音でわかる。
R32の鼓動は、もうジュンの脳に刻まれていた。
「洗車する気分じゃないって顔ね」
ミユキの声だった。
今日はいつものジャケットじゃなく、グレーのスウェット。
髪も軽く結ばれていた。
GT-Rのボンネットにもたれ、彼女も缶コーヒーを開けた。
「あのさ……峠、もう行かないのか」
ジュンの問いに、彼女は少し黙って、缶の縁で唇を濡らした。
「ねえ、あなた……あの時、私の名前覚えてなかったの、なんで?」
静かな声だった。
怒ってもいない。責めてもいない。
ただ、あのヘアピンよりも鋭い、問いの刃だけがそこにあった。
ジュンは答えなかった。
いや、言葉を探していた。
昔の自分が、好きじゃなかった。
勝つことに飢えて、ルールなんてどうでもよくて、
それでも負けなかった自分に酔っていた。
そんな頃の記憶は、都合よく切り捨てていた。
「……あん時、勝ちに飢えてたからさ。
名前も顔も、全部どうでもよかった。
けど……今なら分かる。
あれでお前のこと、傷つけたんだな」
ミユキは、少し目を細めた。
何か言おうとしたが、やめたようだった。
代わりに、缶をスープラのボンネットに置いた。
「だったら、次は正々堂々と、私に勝ってよ。
あなたへの仕返しは、それでチャラにしてあげる」
「お、なんだ?今すぐやるか?」
ジュンが冗談めかして言うと、ミユキは首を横に振った。
「今日は無理。洗車するし」
ぽつりと雨が落ちてきた。
ふたりは、空を見上げて同時にフッと笑った。
「……意味ないな、洗車」
「いいのよ、そういうのが大事なの」
その時だった。
洗車場にいた若い連中が、ジュンのスープラを見てひそひそ話す声が聞こえた。
「アレ、昔の2.5GTだろ? 重いだけの鉄の塊じゃん」
「隣のR32のほうが速そう……ってか、あの女、マジで乗ってんのかな」
ふたりは顔を見合わせた。
そしてジュンがポケットからキーを取り出した。
「なあ、ちょっとだけ走るか?」
「……しょうがないわね」
GT-Rとスープラが、雨粒を跳ね飛ばして洗車場を出ていく。
夕立の音にかき消されながら、エンジンの唸りだけが峠に向かって伸びていく。
ふたりはもう、過去にはいなかった。
ただ、アクセルの先にある“今”だけを、追いかけていた。
