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『悪魔は花弁に潜む』 #7

 車のライトが、夜の高速道路を切り裂いていた。
 助手席の早瀬が、退屈そうに窓の外を眺めている。

 「そろそろ教えてよ、行き先」


 「ああ、そろそろいいか。動物園だよ」


 「……動物園? こんな時間から? なんで?」


 「なんとなく」


 「そもそもやってるの?」


 「ナイトサファリって知らないか? 夏だけやってるんだよ」


 「ふーん。先生って動物好きだっけ?」


 「ものによるけど、好きだよ。少なくとも人間よりはね」


 「喋らない相手だから好き勝手に投影できるし、人権がないから自由に扱えるもんね、動物って」


 「動物にも権利や尊厳はある。アニマルライツって知ってるか?」


 「知ってるよ。人間様が好きな動物だけに与える“お戯れ”でしょ。もしくは“お恵み”?
 コウモリにもあるの? それって。
 ヘビは? カラスは? ゴキブリは?」


 「……それを言い出したら、キリがないだろ」


 「どうせみんな、自分の都合で線を引いてるだけ。
 かわいい、役に立つ、害がない。
 そうやって仕分けて、“それ以外”を排除してる。
 なぜ土管に挟まった猫を助けた話が美談になってワイドショーで流れるんです?
 なぜゴキブリを殺すなと主張する団体が現れないんですか?」


 「だから、動物には権利を与えないほうがいいって言うのか?」


 「好き嫌いで差別するぐらいなら、いっそやらないほうがいいとは思います」


 津田は胸の奥がざらりとした。
 おそらく、言葉の上では早瀬を論破できる。だが、彼女の言う“都合で線を引く”という言葉が、喉の奥の小さな棘のように残った。

 「……それでも、そうやって線を引かなきゃ、生きていけないんだよ。
 ぜんぶを平等に扱おうとしたら、なにも守れなくなる」


 「それ、誰の都合で?
 私は、動物を大事にして“良いことしてまーす”って顔が大っ嫌いです。
 “好きな動物だけ可愛がって、嫌いな動物は殺します”って開き直ってくれたら、まだ許せる」


 津田は黙ったまま、ハンドルを握り直した。
 彼女の声の熱が、車内の冷えた空気を押しのけていく。
 その語気のなかに、動物の話だけではない、もっと個人的な痛みが滲んでいるのを、津田は感じ取った。

 ――家族。

 おそらく、そこに同じ構造があるのだ。
 秩序のなかでの排除。
 かわいい、役に立つ、害がない。
 早瀬は、きっと自分がそのどれにも当てはまらない存在なのだと思っている。

 街の灯が瞳のなかで流れていく。
 ラジオから流れるかすかな音楽が、この沈黙を健気に押し流そうとしているようだった。



 動物園の駐車場には、多くの車が停まっていた。
 人の声で溢れ、屋台から漂う甘い匂いと、遠くのスピーカーのがさついたアナウンスが入り混じっている。

 「うわぁ、本当にやってる。こんな時間に人がいっぱい」

 早瀬は、驚きとも呆れともつかない声を上げた。
 街灯が頬を照らし、目の奥が輝いて見えた。


 「人気なんだよ。昼とは違う動物の様子が見られるからな」


 「……へぇ。夜の動物園、か」

 早瀬は腕を組み、しばらく入り口のほうを見つめた。
 その姿に、津田のなかで幼い日の記憶が重なる。


 ――小学5年生の夏休み。
 父親に「修司、車に乗れ」と呼ばれ、夜に眠い目をこすりながら外に出た。
 母は少し呆れ顔で、「こんな時間にどこ行くの」と言ったが、父は笑って「男同士の秘密だ」とだけ答えた。
 白いカローラの車内には、窓から夜風が入り込んでいた。
 オレンジ色の街灯が次々と流れ去り、ラジオからはビートルズが聴こえていた。
 ヘルター・スケルターが流れると、心なしか車の速度が上がった気がした。リンゴ・スターが叫んだあとで、曲はルーシー・イン・ザ・スカイに変わった。ふわふわとした夢のなかから、急に大空に投げ出されるようなその演奏に合わせて、胸の奥がどうしようもなく弾んだ。
 ハンドルを握る父親の腕は、いつもよりたくましく見えた。
 そして着いた先が、動物園だった。
 当時はイルミネーションなんて洒落たものはなく、野球場や工事現場のような照明が動物たちを照らしていた。
 暗闇と光の下を往復する象の巨体。
 木の上で目を光らせる黒豹。
 濃い草の匂い。
 チンパンジーの声が遠くで響いた瞬間、そこはまるで本物のジャングルのように感じられた。

 「な、修司。夜ってのは怖いけど、悪くないだろ」

 父のその声が、今も耳に残っている。


 「先生、行こ」

 早瀬の声で、意識が現実へ戻る。

 津田はうなずき、財布を取り出した。

 人も車も多いのに、街灯は妙に少ない。
 夜の闇のなかに、まばらな光が頼りなく浮かんでいた。

 入口を抜けてすぐ、売店の前で小さな男の子が泣いていた。6歳か7歳くらいだろうか。片手に青い風船を握りしめ、もう片方の手で目元をこすっている。

 津田が係員を探そうとあたりを見回したとき、早瀬が先にしゃがみ込んだ。

 「動かないほうがいいよ」

 男の子は泣きながら早瀬を見た。

 「探す側からすると、勝手に動かれるのが一番困るから。ここにいれば、向こうが見つけてくれる」

 言い方は優しいというより、妙に実用的だった。それでも男の子は、少しだけ泣き止んだ。それから、早瀬の顔をどこか不思議そうに眺めていた。


 「名前、言える?」

 男の子が小さく答える。津田はそれを聞き、近くの係員に声をかけた。すぐに迷子放送が流れる。
 早瀬はその間、男の子の横にしゃがんだまま、風船の紐が手首から抜けないように結び直していた。

 数分もしないうちに、若い母親が駆け寄ってきた。男の子はその姿を見つけると、再び声を上げて泣き出した。母親は何度も頭を下げ、男の子の肩を抱いて人混みのなかへ戻っていった。

 男の子が最後に「ありがとう、可愛いお姉ちゃん!」と、まだ泣きながら手を振った。
 律儀な男だ、と津田は思った。

 早瀬は手を振り返してから立ち上がり、スカートの裾を軽く払った。

 「子どもは、いいですね」

 それだけ言って、彼女は何事もなかったように歩き出した。

 その声は、子どもの純粋さを慈しむものには聞こえなかった。
 泣いているだけで助けてもらえる存在を、まるで遠い場所から眺めているようだった。



 園内の順路は、駐車場とは比べものにならないほどの人混みだった。

 「うわ、ずいぶん混んでますね。先生、迷子にならないでくださいね」


 「もう迷子みたいなものだよ、俺は」


 「なんの話?」


 津田は一瞬答えに詰まった。
 人生の、と言いかけたが、さすがに馬鹿馬鹿しくなってやめた。

 「……まあ、いろいろだ」


 早瀬は少し笑った。

 「じゃあ、風船巻いてあげましょうか?」


 順路にはところどころに巨大な照明や色とりどりのLEDが配置され、昼とは違う異質な熱を帯びていた。
 檻のなかでは、夜行性の獣たちが目を光らせ、低い唸りが遠くから響いてくる。
 子どもたちの歓声、屋台の砂糖と油の匂い、猛禽類の鳴き声。
 どれも現実とわかっているのに、脳がどこか夢のなかのことのように処理している気がした。


 「……あんな一生、死んだほうがマシじゃないですか?」

 虎の檻の前に立ち、早瀬が呟いた。
 ガラスの向こうで、年老いた虎がゆっくりと体を起こし、すぐまた眠るように伏せた。
 その動作には威厳も恐れも感じられず、ただ慣れだけがあった。

 「飼育員に世話されて、毎日同じ時間に餌もらって、客に写真撮られるだけ……」

 早瀬は淡々と続けた。

 「安全のなかに閉じ込められて、死ぬまで繰り返すんですよ。
 生きてるって言えるんですか、あれ」

 津田は答えられずにいた。

 「息をして心臓が動いていれば、それって立派なことなんですかね」

 早瀬の声は穏やかだった。
 だが、その横顔を見つめても、なにも読み取れなかった。


 そのとき、獣舎脇の通路の奥から、ざわめきが起こった。
 飼育員が台車をガラガラと押して来たかと思うと、その上に乗せられた大きな塊を、慣れた手つきで掴んだ。
 厚手の青いゴム手袋と、大きな赤い塊。それらが津田の視界を刺した。
 塊は振り子のように振られ、そのまま鉄扉のなかへと放り込まれた。
 その瞬間、虎の目が鈍く光った。
 生暖かい血の匂いが夜気に混じり、観覧通路にまで届いてくる。

 「え? なにあれ? 動物の……脚?」


 「屠体給餌だ。皮を部分的に剥いであるからわかりづらいが、たぶん鹿かなにかだろう」


 「うわ……すごい! 今、ぶちぶちって音、聞こえたよ」

 早瀬の声は弾んでいた。
 彼女の頬はわずかに上気し、瞳が暗闇のなかで輝いている。

 「……ねえ、生きてる餌はあげないのかな?」


 「生き餌は、倫理的観点からあまりされないようだな」

 津田がそう言うと、早瀬の表情が曇った。


 「……なにそれ?
 殺して食べるのが倫理的じゃないっていうなら、生きることそのものが悪じゃないですか。
 それなのに、動物に殺させるのはダメで、誰も見てないところで人間が殺して、切断して、皮を剥いで、檻に投げ込むのはいいんですか?
 とんだ倫理だね」

 肉が裂かれ、湿った咀嚼音がかすかに響いている。


 「……早瀬。世の中には、見なくていいもの、考えないほうがいいこともたくさんある。
 お前ももう成人してるんだから、大人になれ。そういう極端な考え方は、幼稚だぞ」


 早瀬は一瞬だけ津田を見た。
 それから俯き、しばらく黙っていた。
 やがて静かな微笑を浮かべた。

 「……だからなんですね」


 「……なにがだ」


 「私の家族が、私のことを見なくなった理由」


 その瞬間、津田は言葉を失った。
 照明の反射が、彼女の頬の曲線を白く浮かび上がらせていた。
 その横顔には怒りでも悲しみでもない、潔いほどに透き通った諦念が滲んでいた。


 「あ、もしかして、それを言うためにわざわざ動物園まで連れてきたんですか?
 先生って意外と手の込んだことするんですね。お疲れ様でーす」

 早瀬は皮肉たっぷりに、口調こそ明るく言ったが、決して津田のほうは見なかった。


 「違う……俺は……」

 津田は、早瀬が見ているものの一端に触れた気がした。見なくていいものまで見てしまう人間に、「見るな」と言うことに、どれほどの意味があるのだろう。

 「……親父にさ、連れてきてもらったんだよ、子供の頃。サプライズで。
 それが、すっげえ嬉しくてさ。ずっと心に残ってる。今も。
 だから、早瀬にもそれをやってやりたいと思ったんだ。本当に、ただの思い付きだ。
 だけど、家族と上手くいっていないと悩むお前に、そんなこと聞かせれば、かえって傷付けると思ったんだ。だから、理由は伏せていた。
 本当に……ただそれだけなんだ」


 少しの沈黙。
 それから、早瀬はゆっくりと口を開いた。

 「……ごめんなさい。先生がそんなつもりじゃないことなんて、わかってます。
 私、甘え過ぎですね」


 夜風がどこかの金具を鳴らし、遠くで子どもの笑い声がした。
 さっきまで血の匂いと熱気を漂わせていた獣舎の空気が、急に冷たく感じられる。

 彼女の「ごめんなさい」は、謝罪でありながら、“もうこれ以上は触れないでください”という拒絶にも聞こえた。

 津田はゆっくりと息を吐き、空を見上げた。
 檻の上に、薄く滲む雲と、ぼんやりした月が浮かんでいる。

 ――支えたいと思ったのは、誰のためだったのだろう。



 広大な園内をあらかたまわり、すっかりと歩き疲れた頃。
 ライオン舎の前で二人は立ち止まり、しばらく無言のまま見入っていた。
 分厚いガラスの向こうで、巨大な体がゆっくりと揺れている。
 筋肉の起伏、毛並みの光沢。
 その存在そのものが、圧倒的だった。

 「なんか、綺麗ですね。力強くて、傷なんかなくて、憧れる」


 「……なあ、早瀬」

 津田は視線をライオンに向けたまま言った。

 「もしも押したら、このライオンをすぐに殺せるスイッチを持っていたとして――押すか?」


 「……押さない」


 「ゴキブリだったら?」


 「んー、気分次第かな。でも押すかも」


 「じゃあ、この檻が急に壊れて、ライオンが向かってきたら?」


 早瀬は黙り込んだ。


 「……俺は、そういうことだと思ってる。どうしたって、倫理とエゴは切り離せないんだ」


 しばらく沈黙が流れた。
 それから、早瀬がぽつりと呟いた。

 「わかってるんです、理屈じゃないってことくらい。
 だけど私は……」

 言葉の続きは、息のなかに溶けた。

 津田は、早瀬に視線を向けた。
 照明の下で、睫毛の影がわずかに震えていた。
 彼女のなかで、なにかが軋んでいる。
 それは怒りでも悲しみでもなく、ただ“生きてしまっている”という痛みそのものなのかもしれない。


 「……早瀬」

 呼んでも、彼女は返さなかった。
 代わりに、遠くから獣の吠える声が響いた。
 夜の空気が揺れ、鉄の匂いが濃くなった気がした。

 津田は小さく息をつき、ライオンに向き直った。
 ――お前からも、なんとか言ってくれよ。
 そう目で訴えてみたが、ライオンは素知らぬ顔であくびをするだけだった。



 帰りの車内。
 黒い車体が小さな唸りと共に滑っていく。

 街灯が一定のリズムで窓を流れ去り、二人の顔を照らしていた。
 ラジオの音は小さく、気まぐれに外界の雑音を薄めている。

 「先生。私、思うんですけど。
 生きたままの動物を餌として殺させるのが可哀想なら、“生きた獲物を殺す本能”を、一生満たすことなく死んでいく動物も、また可哀想なんじゃないでしょうか?」

 その問いかけはどこまでも静かで、しかしどこか切実だった。
 ハンドルを握る手に、小さく力が入る。


 「それは……正直、あるかもな」

 津田が短い肯定を返すと、早瀬はうなずいた。
 彼女の声はわずかに震えていたが、そこに混じっているものが何なのか、津田は掴めずにいた。


 「誰かの欲を満たすためには、誰かが犠牲にならないといけない。
 だったら、当事者同士に任せるしかないですよね。
 結局、人間の気分次第なんて……神様気取りで、バカみたい」

 窓の外から差し込む光が、彼女の横顔をまた一瞬だけオレンジ色に染めた。
 小さく吐き捨てた言葉の裏に、津田は鋭い覚悟のようなものを見た気がした。


 「……だけど、なにかを守ろうとするときには、やっぱり規範が必要だ。
 線引きがなくて、なにも守れないよりは、それでいいと思ってる」

 津田の声は低く、言葉は足元へ落ちていくようだった。
 結局自分はいつもこうやって、論理を語りながら、中途半端な倫理を振りかざしているだけだ。
 それで誰かを救えるなんて幻想を、なぜ抱いてしまったのか。今となっては、そのことが不思議だった。


 「その“守る”って言葉、結局は都合のいい方便に使われるだけですよ」

 早瀬は小さく笑って、窓の外へ視線を戻した。
 二人はそれ以上、言葉を増やさなかった。

 車は夜の道路を変わらず滑っていく。
 言葉の余韻だけが、しばらく車内に残っていた。



 車は津田のアパートの前で止まった。
 エンジン音が途切れるのと同時に、車内を包んでいた緊張が、さっと流れて消えた気がした。

 車のドアを開けると、夜風が頬を撫でた。
 湿った空気が街の匂いを運んでくる。

 「着いたな」


 「うん。じゃあ、行きましょうか」


 「そういやお前、親には連絡したか?」


 「心配すると思います? あの母親が」


 「……それでも、連絡ぐらいしとけよ」


 「大丈夫です。さっきしましたよ。
 津田先生の家に泊まるって、ちゃんと言いました」


 津田は吹き出した。

 「嘘だよな?」


 「ふふ。バレたら面白いかなって」


 「勘弁してくれ」


 「大丈夫ですよ、冗談です。
 一瞬本当に送ろうかと思ったけど。どうせ見てないし」

 笑っているのに、どこか冷たく、遠い。
 津田はそれを見てなにかを言いかけたが、やめた。

 早瀬がスマートフォンを取り出して眺めた。

 「あ、返ってきた。うん、大丈夫そうです」


 「お母さん、なんて言ってる?」


 「ふふ、面白いですよ。見てください、これ」

 《今日友達の家泊まる》

 《友達できたんだ! 良かったね!》


 「これは……どういう意味なんだ?」


 「さあ? 私の母って、面白いんです」

 早瀬は笑ってスマートフォンを伏せた。
 笑い方は軽やかなのに、どこか壊れやすいガラスのような響きがあった。

 「そういえば、お婆ちゃんが死んだときにも、面白いこと言ってたんですよ」


 早瀬の軽い口調に、津田は思わず身構えた。
 肩に力が入る。

 この軽さは、先触れだと思った。
 彼女がなにか“重いもの”を吐き出す前の、独特の空気。
 津田はそれを、経験的に知っていた。


 「“あなたが甘やかしてくれたおかげで、葵はこんなに立派に育ちましたよ”って。
 どうですか? 笑えるでしょ?」

 口調に反して、目は決して笑っていなかった。
 むしろ眉間には皺が寄り、頬は不自然に吊り上がっていた。


 「……仏壇に?」

 津田の脳裏には、あの母親の顔が浮かんでいた。
 その瞬間、腹の底になにか重たいものを感じた。


 「違うよ。“お棺”に向かって。
 しかも、私に聞こえるようにね」


 「……それで、どうしたんだ。お前は」

 津田は覚悟を決めて、すべてを吐き出させる役に徹することにした。
 酔っぱらいの背中をさすって、胃の中のものが出きるまで待つように。
 それが今夜彼女を傷つけてしまったことへの、せめてもの償いのように思えた。


 「どうもこうも、なにも言えないよ。言えるわけがない。
 言葉を失うって、ああいうのを言うんだね。
 ただ、心のなかでお婆ちゃんに、“こんな性格でごめんなさい”って謝ることしかできなかった」


 津田は「お前が謝ることなんてない」と、言ってやりたかった。けれど、それはすでに起きてしまったことであり、半ば流れ去った過去なのだ。今更そう言って早瀬の傷が浅くなるとは、とても思えなかった。


 「……お前は、自分を我儘だと言うが、お前自身は、それを誰のせいだと思ってるんだ?」

 代わりに口から出た問いは、励ましや慰めとは、遠く離れたものだった。

 早瀬は視線を逸らした。
 そして、わずかに唇を震わせた。


 「……わかってるくせに。
 人のせいにできたら、死にたいなんて思わない。そいつ引っ叩いて、それで終わり。すっきりして、残りの人生を生きていけばいい」

 夜風が、二人の間をすり抜けた。
 早瀬は視線を落としたまま、先ほどと同じ笑みを浮かべている。

 それが薄れるのを待ってから、津田は口を開いた。


 「……お前は、我儘なんかじゃないよ」


 その瞬間、早瀬はハッと顔を上げた。
 その顔からは虚ろな笑みが消え、血の通った切実さが浮かび上がっていた。

 「ひどいよ……
 先生って、そんな意地悪言うんだ……」


 「ああ。俺は、性格悪いんだよ」


 「美人でもないくせに。
 親の顔が見てみたいです」


 「一人は今頃、お前の婆ちゃんと仲良くやってるかもな。
 “お互い、大変でしたね”って」


 早瀬は吹き出した。
 俯き、小さく肩を震わせている。


 「……それ、笑えます」

 早瀬は、ちゃんと笑っていた。
 さっきまでのガラスみたいな笑みではない。
 血の通った、普通の少女の笑いだった。

 津田は視線を逸らし、ポケットに手を突っ込んだ。
 ――俺にしては上出来かな。
 そう思うことにした。

 「ほら、虫に刺される前に入るぞ」


 「はーい」



 「はい、お待ち」

 部屋に入ると、二人は津田、早瀬の順にシャワーを浴びた。
 そして、早瀬がシャワーを浴びている間に、津田は冷蔵庫にあった食材で二人分のオムライスを手早く作った。
 それにインスタントのスープを添えて、夕食は完成した。

 一方、早瀬の長い髪は津田の家の粗末なドライヤーではなかなか乾かず、彼女は悪戦苦闘する羽目になった。
 夕飯が湯気を上げる食卓の隣で、まだ湿った髪と格闘していた。
 「俺にはそれで充分なんだけどな」と津田が壁に寄りかかって眺めていると、早瀬は「手伝ってー。腕が疲れたー」と子供じみて喚いた。

 津田は家主としてドライヤーの不備を認め、言うとおりにした。
 早瀬の後ろに腰を下ろし、まばらに湿った髪をほぐしながら、上から温風を当てていく。
 彼女の髪から自分と同じシャンプーの匂いがすることに、妙な高揚感を覚えた。
 それから彼は黙々と作業を続けた。
 早瀬は途中でリュックから例のつげ櫛を取り出し、乾きかけた髪の先をそっと梳いた。歯の一本欠けた櫛は、長い髪の中を少し不器用に滑っていった。
 早瀬はなにやら楽しげに鼻唄も歌っていたが、ドライヤーの音でそのほとんどは掻き消された。
 彼女はいつになく大人しく、時折くすぐったそうに肩をすくめた。
 うなじの白さと光る産毛が、津田の目に焼き付いた。


 「わあ、美味しそう。
 先生、ケチャップ貸して」

 ようやく髪が乾ききる頃には、スープの湯気は消えていた。


 「はいよ。あんまかけ過ぎんなよ。身体に悪いから」


 「トマトでしょ?」


 「塩分が多いんだよ」


 「血圧高いの?」


 「高くない」


 早瀬は皿を手前に引き寄せ、ケチャップの蓋を開けた。
 しばらく迷うような仕草のあと、ゆっくりと文字を書きはじめた。

 “ありがとう”


 「……なんだそれ?」


 「今日のお礼です。
 はい、どうぞ。こっちが先生の分ですよー」


 「かけすぎ」

 津田はそう言いながらも、口元をわずかに緩めた。
 ケチャップの文字が、照明の下で赤く光っている。
 それは単なる感謝の言葉だったが、津田にはどこか救いのようにも思えた。

 皿の上の文字が滲む前に、津田はスプーンを入れた。
 早瀬も「いただきまーす」と言って食べ始めた。

 その唇に付いたケチャップを見て、津田は屍肉を貪る虎の姿を思い出していた。



 薄暗い部屋の灯りが、柔らかく二人の肉体を包んでいる。
 ベッドの端に腰掛け、密着した素肌の感触を互いに感じていた。

 言葉はもう必要なかった。視線を交わすたびに、世界の輪郭がゆるやかに滲んでいく。
 早瀬の瞳は、なにかを確かめるように揺れていた。

 街には、真夏の温かい雨が降っていた。その音が、喧騒を覆い隠すように優しく続いている。

 その雨に濡れる想像をしながら、津田はなぜ自分がここにいるのかを、不意に忘れた。
 彼女を抱きしめることが、罪なのか救いなのか、もうわからなかった。
 ただ、それを考えることがどうでも良くなるほどに、今この瞬間の確かさだけが大切に思えた。

 津田は、早瀬の肩を抱き寄せた。
 目を閉じ、唇を重ねると、すぐに早瀬の舌がなにかを求めるように動いた。
 薄く開いた唇のすき間で、粘膜が絡み合う。

 しばらくそうしていると、不意に早瀬の顔が遠ざかった。
 そして、小さく肩を押される。
 津田が思わず仰け反ると、腹の上に長い髪が垂れる感触がした。
 同時に、喉元には濡れた感触が這った。
 先ほどまで口内を弄んでいたその舌先が、今は薄い皮膚の上を滑っている。
 その動きを確かめるより早く、感触が変わった。
 硬く、鋭い。
 早瀬の息遣いが、先ほどよりも強く伝わってくる。
 それが歯だとわかった瞬間、津田の鼓動はひとつ跳ねた。
 同時に喉元に軽い圧迫を受ける。
 喉の皮膚の下で、細い管が押し潰される。
 咳き込みそうになるのを堪えると、肺のなかの空気が細く鳴った。
 呼吸という行為そのものが、他人の意志に奪われる感覚。
 通常であれば抗うべきその感覚を前に、頭のなかに浮かんだ言葉は、津田自身をも驚かせるものだった。

 ――早瀬になら、このまま身を任せてしまっても構わない。

 そう考えてしまった自分を、咎めようとも思わなかった。
 そして、さらにいっそう強い力が喉元にかかっても、それは変わらなかった。
 歯が皮膚に食い込む痛みと、かすかな眩暈。
 それが次の瞬間、ふっと開放された。
 早瀬の唾液が糸を引いて、胸元に落ちた。
 濡れた喉元は空調の風にさらされ、冷えていく。
 急に軽くなった世界を、津田は黙って眺めた。

 早瀬は小さく息を整え、それから微笑んだ。

 「今日は先生が色々教えてくれたから、お返しに私も教えてあげます」

 津田は声を出そうとしたが、喉が一瞬詰まった。

 「“臨死ユーフォリア”って聞いたことあります?」


 「……知らないな。ユーフォリア……幸福感……多幸感か」


 「はい。ライオンに噛み殺される瞬間のシマウマが、恍惚とした表情になるんですって。
 それを研究してる人たちがいるみたいです」

 彼女の声は淡々としていた。

 「苦痛を和らげるための脳の防衛反応なんじゃないかって。
 死を目の前にして、セロトニンとか、エンドルフィンとか、そういうのが一気に分泌されて、恐怖が快楽にすり替わるんです。
 だから、シマウマは苦しんでいないんです。
 最期の瞬間、抗いがたい幸福感に包まれている」

 彼女は少し笑った。
 とても、やわらかく。

 「本当かどうかわからないけど、私はそれを聞いたとき、羨ましいと思いました。
 先生も、そう思いませんか?」


 津田は答えられなかった。
 まだ喉に、彼女の力の余韻が残っている。
 その温もりと圧迫が、矛盾せずに共存していた。
 痛みのなかに、奇妙な安堵があった。


 「……ねえ、先生。私、きっとそのシマウマになりたいんです」

 そう言って、早瀬はベッドから立ち上がった。
 夜のなかに、彼女の輪郭が浮かぶ。

 津田はシーツの上に手を置き、身を起こした。
 それから、かすれた声を絞り出した。

 「……俺たちは、動物じゃない」


 早瀬はゆっくりと顔を津田の方へ向けた。
 光のない瞳の奥に、冷たい理性があった。

 「動物ですよ。人間も、動物です。
 満たされない欲望を抑えたまま一生を終える、哀れな肉食動物です」


 「違う」


 「違いません」

 その声には嘲笑が混じっていた。
 彼女の言葉は冷たく、鋭く、手術用の刃を思わせた。

 「醜い本能を隠して、騙して、他の欲求を満たすことで目を逸らしているだけです。
 なぜ人間が娯楽や美食、スポーツに夢中になるのか。
 それでも満足できずに、浪費をやめられないのか。
 考えてみてくださいよ」


 「……本当の欲求を、満たせないからだって言うのか?」


 「はい、そうです。
 偽物を与えられて本気で満足するほど、人間はバカじゃないんです。
 むしろ余計に渇いていく。本物が欲しくなる。
 そういう経験、ないとは言わせませんよ」

 早瀬は冷淡に続けた。

 「甘い毒みたいなものです。一度味わえば余計に欲しくなって、いつしか心を蝕んでいく。
 どこもかしこも、そんな病人で溢れかえってるように見えますよ。私には」

 再び真っ直ぐに津田を見た。
 その瞳は、恐ろしいほど澄んでいた。

 「結局、本当に幸せになろうとしたら、犠牲が必要なんです。
 ……そうでしたよね?」

 津田は息を呑んだ。

 「でも、先生は恵まれてますよ。
 ほら。犠牲になってくれる人間が、目の前にいるんですから」

 ――生き餌。

 その言葉は甘やかで、冷たい。
 呼吸の温度が薄れ、頭の奥でなにかが崩れていく。


 しばらくの間、なにも言葉が出てこなかった。
 呼吸だけが二人の間を往復していた。

 津田は、胸の奥に溜まった熱を逃がすように、口を開いた。

 「……俺には、お前を壊すなんてこと、できない」

 早瀬の眉が動いた。
 津田には、それがまるで痛みに顔を歪めたように見えた。

 「お前のことを大切に思ってる。誰よりも。
 だから、それだけは、絶対にできない」

 自分でも驚くほど静かな声だった。
 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に鈍いものが広がった気がした。それは安堵に近いものだったが、自分でもよくわからなかった。


 早瀬はしばらく、津田を見つめていた。
 その瞳の奥に光が宿りかけて、すぐに消えた。
 まるで、長いあいだ閉じ切っていた扉の向こうから光が差し込んで、また引いていくようだった。


 「……先生がそう言ってくれたこと、素直に嬉しいです。
 でも、それは……同時に、私の夢を壊す言葉でもあります」

 一瞬だけ、彼女は微笑んだ。
 けれどその笑みは、どこか歪んでいた。

 「もう、叶わないんですね。私の夢。
 誰かの愛のなかで死にたいって。もう、ダメなんですね」

 言葉の最後は、空調の風に溶けるように小さかった。

 「先生なら、できるって思って近づきました。
 若くて綺麗な私を、愛されて価値のあるうちに終わらせてくれるって。
 もちろん、先生も一緒に来てくれたら最高だけど、それは望み過ぎかなって思ってました」


 津田は動けなかった。
 早瀬を抱きしめてやりたい衝動に駆られたが、自分にはその資格がないと思った。


 「……すまない」

 喉の奥が焼けるように痛んだ。
 単なる謝罪以上の意味を、このひと言に詰め込むようにして、絞り出した。


 早瀬は首を横に振り、しばらく俯いたまま、なにかに堪えるように浅い呼吸を何度か繰り返した。
 やがて、小さくまた首を振った。

 「今日は、もう寝ましょうか」

 その声は、やさしかった。
 まるで、これ以上互いを傷つけないように、柔らかい布をそっと掛けるみたいに。

 津田はうなずくことしかできなかった。
 夜の静けさが、どんな叫びよりも深く胸を抉った。



 静寂が、波のように押し寄せては引いていく。
 雨風が窓を叩く音だけが、そのたびに津田の意識を現実へ引き戻した。

 早瀬はベッドの端で横たわり、津田に背を向けたまま固まっていた。

 津田は立ち上がり、窓際へ移動した。
 煙草を吸えば、多少は気が紛れると思った。
 ライターで火を点ける音が、雨音にかき消された。
 灰皿に残されていた灰の形が、まるで朽ちかけた花のように見えた。

 「小学生の頃、猫を飼っていたんだ。
 ……いや、飼っていたのは、俺がもっと小さい頃からで、死んだのが小学生の頃だな。
 急に動かなくなったんだよ。
 呼んでも反応しなくて、小さな体が震えて、息が荒くなって、抱き上げても、もう温もりが抜けていくばかりだった。
 親は二人とも出かけていて、俺はどうしたらいいかわからなくて、ただ抱きかかえて温めたり、顔や背中をさすってみたり、声をかけたり、好きなおやつとか、おもちゃを持ってきたり、水を飲ませようとした。
 けど、もちろん反応なんかなくて、そのまま最後は音もなく死んだ」

 煙草をくわえ、胸いっぱいに吸った。
 口から煙を吐き出すと、それは天井に溶けていった。

 「親はそれからすぐに帰ってきた。本当に、ちょっとした用事だったんだ。
 留守番できるかって訊かれて、“この子もいるし大丈夫”って、送り出したんだ。
 それでこんなことになって、両親も申し訳なかったみたいで、何度も謝られて、慰められたよ。
 俺もわけがわからなくなって、急いで病院に連れて行こうとか、薬を買ってこようとか、そういうことを言った気がする。よく覚えていないが。
 もうかなりのお婆ちゃん猫で、いつ死んでもおかしくなかったらしい。
 そんなことを、一生懸命に説明してくれて、でもやっぱりそのときの俺には理解ができなかった。
 そりゃあ、生き物が死ぬことなんて、知っていたよ。虫だって普通に殺したし、花が枯れるのを見て、死んだんだなって思ったり。
 だけど、大事にしていた、当たり前みたいな存在まで、こんなふうに滑り落ちていくんだってこと。そういうことの意味を、頭が拒んでたんだと思う。
 大好きだったものが、あっさりと奪われる。
 柔らかい毛並みとか、温もりとか、舌の湿りと、そのざらつきとか。細い鳴き声と息遣いも、こりこりとした背骨の隆起も、優しく揺れる長いひげも、あの心地よい重さも、お日様みたいな匂いも、宝石みたいな瞳も、全部、あっさりと失われた。理不尽に。永久に」

 津田は視線を窓へ向けていた。
 ガラスを流れる雨粒は、やがて小さな流れから大きな流れへと合流していき、はじめからいなかったみたいに去っていく。それが永遠に繰り返されるように見えた。

 「たくさん泣いたよ。そのときも雨がひどく降っていて、それを眺めているとなにかが洗い流されていく気がしたけど、結局、なにも流れてはいかなかった。
 次の日の朝には雨はすっかり上がっていて、でも俺の心はもちろん晴れなくて、その差が妙に忌々しかったのを今でも覚えてる。
 帽子をかぶっていても日差しが熱くて、下を向いて通学路を歩いた。そうしているうちに、ある物が目にとまったんだ。
 ミミズの死骸だった。水たまりの中でふやけて白くなっていた。
 みっともない、醜く汚らしい死骸。
 ……それを見たとき、思ったんだ。
 もし命が尊いものなら、なぜこんなふうにゴミのように投げ出されるんだろうって。
 それを見る側だって、なにかがおかしい。
 なぜ猫の死は悲しくて、ミミズの死はこうも汚らしく感じるのかって。
 社会は“命は尊い”なんて言葉で飾り立てて、まるでその価値が全部にあって、ずっと続くものみたいに錯覚させてくる。
 本当は違う。
 死ねば、全部、なくなる。
 生きていたって、価値のないものにはない。
 持っていたって、消えるときには消える。
 価値があるように見えるのは、まだ終わっていないからだ」

 灰が落ちた。
 津田は火を揉み消し、静かに吐息を漏らした。


 「……あのときから、俺はずっと思ってる。
 命にはもともと価値なんてないんじゃないかって。
 ミミズと猫の違いを説明できないなら、俺だってミミズのほうかもしれないって、今でも、そう思わずにはいられないんだ。
 ……だけど、壊してみなくても、俺にはわかるよ。
 早瀬。俺にとって、お前だけは……」

 その言葉の先を、津田自身が呑み込んだ。

 早瀬の肩が、わずかに揺れた。



 朝の光が、カーテンの隙間から斜めに差し込んでいる。
 静かな部屋のなかで、湯を沸かしている電気ケトルだけが、朝の活気を健気に担っていた。

 津田はぼんやりと窓の外を眺めながら、マグカップを手に取った。
 コーヒーを入れると、香りが夜の残滓を遠ざけていく気がした。

 一口すすってカップを置き直すと、ベッドの上で早瀬がゆっくりと身を起こしているのが見えた。
 寝癖のついた髪を耳にかけ、まだ半分眠たげな目をこちらに向けている。

 「先生」


 「……おはよう」


 「おはようございます」


 「コーヒー飲むか?」


 「ううん、いらない」


 「そうか」


 「……ねえ」


 「ん?」


 「次、どこ行きます?」


 「え?」


 「なんか昨日、楽しかったから。またどっか行きたい」

 津田はそれを聞いて小さく笑った。
 マグカップを手に取り、早瀬のいるベッドの脇をすり抜けた。
 それから、窓をいっぱいに開けた。
 雨上がりの匂いをたっぷりと含んだ朝の風が、スズメの声と一緒に部屋に吹き込んだ。
 空は青く、薄い雲がゆっくり流れていた。


 「車で行けるとこなら、どこでも」


 「なら、どこまでも行けちゃうかもね、私たち」

 早瀬はくすりと笑った。
 その笑顔が、いつもよりも柔らかく見えた。

 津田は視線をもう一度、窓の外へ向けた。
 朝の光が街路樹を照らしている。

 それは、どこまでも日常的な風景だった。

 悪魔は花弁に潜む#8へ続く

『悪魔は花弁に潜む』イメージソング『Hollow Core』リリックビデオ


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