【創作大賞2026応募・第一話】朝倉澪の放課後推理クラブ 〜拾ってはいけない五円玉〜
あらすじ
私立白鷺坂高校には、怪しい噂と小さな怪異が絶えない。場所に残った過去を視る九条透花は、魔術師の朝倉澪がいる文芸部――通称「放課後推理クラブ」に迷い込み、生徒会長の榊悠真、新聞部員の一ノ瀬律とともに校内の謎を追うことになる。落とし物に見えた未練、悪戯に見えた謝罪、噂になりかけた秘密。透花たちは事件を解くたび、誰かの「なぜ」に触れていく。だが、血のついた活動記録を見つけた時、彼女たちの解決してきた日常は、澪が繰り返す一年の記録へとつながり始める。
ーーーー
私が過ごした一年。
その■■は何度だって繰り返す。
『私は夢《■■》をみた』
それは、幸せな日常でした。
どんなに抗おうが、すべてはゼロに戻ってしまう。
記憶も、身体も、経験も。
『私は小さな悲劇《■■》をみた』
拾えるはずの違和感を他人事だと片付け、見逃してしまいました。
だから、それらは通り過ぎていきました。
『私は……後悔《■■》をみた』
小さな悲劇は、小さいままでは終わらなかった。
それは必然であり、当然の結果でした。
今更、後悔したって無駄でした。
『何もかもが私には遅すぎた』
気づいた頃には、何も残っていませんでした。
残っていたのは、血の気の引いた指先と、止まった時計の音。
それから、どうしようもないほど静かな結論だけ。
『すみません。ごめんなさい。これは私のミスでした』
それは怠慢。後悔。未練。
見逃した者が抱えた感情はそれだけでした。
『これらのミスが、貴方を苦しめてしまったのですね』
そう認めた瞬間、私はようやく理解しました。
『私はもう一度、夢《■■》をみることにしました』
それが救いではないと分かっていても。
それが、終わったはずのものを終わらせない行為だと分かっていても。
それでも私は、もう一度だけと願ってしまった。
あの幸せな日常を、読み直したかったのです。
カチリと時計の針が動く音がした。
ああ、イイですネ。ワタシは観客、アルイはコノ偽リに彩られタ薄っぺらい世界のカミ。
見セテくダさい、魅せテくだサイ。
何度デモ、繰リ返しマシょう。
不安でスか? 大丈夫です、安心しテくダサい。
——ワタシ、■■■■・■■■■■はアナタ方の味方ですから。
さぁ、物語をハジメましょう。
使用者により■■の世界は再生した。
◇
――春、麗らかなれば怪奇あり。
などと大げさに言ってみたものの、最初に私を立ち止まらせた怪奇は、幽霊でも妖怪でもなかった。
漫画研究部、と書きかけた入部届を握りしめたまま、私は掲示板の前で固まっていた。理由は簡単。漫研のポスターの隅に、妙な貼り紙があったからだ。まるで隠されているかのような、小さな貼り紙。けれど、隠すには少しだけ目立ち、見つけてほしいにしては少しだけ控えめな位置。
そこには、丸みを帯びた文字でこう書かれていた。
――放課後推理クラブ。
「……なにこれ」
聞き覚えのない名前だった。部活動紹介でも、クラブ紹介でも、そんな名前は見たことがない。ただのいたずらなのか。それとも、ついさっきできたばかりのクラブなのか。
気になる。ものすごく気になる。
ここは私立白鷺坂高等学校。おかしな噂やモノが絶えない、少しばかりメルヘンな高校である。もちろん、ここで言うメルヘンとは、可愛らしいという意味だけではない。たまに、洒落にならないものも混ざる。
私も、おそらくその一つ。
記録の残滓を映す、余燼の瞳。そんな大げさな名前がついているけれど、要するに私は、場所に残った過去を少しだけ視ることができる。そして、そんな過去を視る少女にも、この年頃ならではの悩みは存在する。
それは、好奇心が旺盛すぎて、だいたい余計なことに首を突っ込んでしまうことだ。
些細でもおかしな行動を視てしまえば、なぜそんなことをしたのかが気になる。気になっては考え、考えてはスッキリしない結論を出す。それが、九条透花という人間だった。
「……記録を確認すれば、分かるかな」
私は貼り紙へそっと視線を向ける。
次の瞬間、視界が灰色に染まった。
世界から色素が抜け落ち、白と黒の断片だけが瞳に流れ込む。音はない。ただ、場所に残った過去だけが、焼け跡のように瞬いていた。
小さな貼り紙を掲示板に貼る、ひとりの男子生徒。優しい顔つき。整った制服。胸元の生徒会章。
「あれ? この人って……」
私は瞬きをして、現実へ戻る。
この視る力はひどく便利ではある。けれど、それはあくまで誰が貼ったかという事実だけ。彼がどういう意図でやったかまでは分からない。
ふと、手に持っている入部届を見下ろした。部活名の欄には、漫画研究部。つい十分前まで、私はそこに入る気満々だった。けれど、あの貼り紙と、その過去を視てしまった今、私の好奇心は完全に別方向へ走り出している。
漫研、改め――放課後推理クラブ。
書き換えるべきか、否か。
私が入部届と貼り紙を交互に見比べていると、不意に背後から声がした。
「そんなところで、どうしたんだい?」
身体が一瞬だけ硬直する。
「あはは、ごめんね。驚かせたかな?」
振り返れば、そこに立っていたのは、この学校の生徒会長、榊悠真だった。穏やかな笑み。柔らかい声。いかにも人当たりのよさそうな先輩。そして、ついさっき過去の断片で見た、貼り紙の犯人である。
「いえ……あの、これ」
私が視線を貼り紙へ向けると、榊先輩もつられるようにそれを見た。それから、何かを思い出したように、僅かに口元を緩める。
「気になるかい?」
「はい! すごく気になります!」
即答だった。
なぜ、生徒会長がわざわざ聞いたこともないクラブの貼り紙をしたのか。なぜ、あんなに目立つようで目立たない場所に貼ったのか。そもそも、この放課後推理クラブは本当に存在するのか。気にならないわけがない。
「スッキリしたいかい?」
「はい! スッキリしたいです!」
「なら、ついておいで」
榊先輩はそう言って、校舎の奥へと歩き出した。
私は一瞬だけ、手元の入部届を見る。漫画研究部、と書かれたその欄が、今だけ妙に他人行儀に見えた。
……ごめんなさい、未来の漫研生活。
私は好奇心に負けました。
心の中でまだ見ぬ漫研部員たちに謝りながら、私は榊先輩の後を追った。
しばらく歩くと、彼は三階の資料室の前で立ち止まる。
「ここだよ」
「……ここ、ですか?」
資料室。少なくとも、推理クラブという名前から想像するには、少しだけ地味な場所だった。
私は扉に手をかけ、恐る恐る開ける。すると、暖かな春風が窓から室内へと吹き抜けた。
「あら、新入部員?」
窓際の机で、本を読んでいた少女が顔を上げる。読んでいたページをそのままに、彼女は本を裏返して机の上に置いた。絹のように滑らかな黒髪が、春風に揺れる。翡翠色の瞳が、まっすぐに私を捉えた。
綺麗な人だ、と思った。それと同じくらい、少しだけ近寄りがたい人だとも思った。
彼女は私の手元にある入部届を見て、それから榊先輩を見た。榊先輩は何も言わず、ただ楽しそうに微笑んでいる。少女の眉が、ほんの少しだけ動いた。まるで、何かの敗北を悟ったみたいに。
そして彼女は、諦めたように小さく息を吐いた。
「……ようこそ、放課後推理クラブへ」
その声は涼やかで、けれど歓迎というには、少しばかり不本意そうだった。
「澪、本当に言ったね」
榊先輩が楽しげに言う。
「賭けですから」
少女は淡々と答えた。
「まさか、あんな怪しい貼り紙で本当に人が来るとは思いませんでした」
「言ったろ? 絶対来るって」
内容から察するに、どうやら私は見事に榊先輩の釣り針に引っかかった魚だったらしい。
餌はもちろん、好奇心である。
二人の視線が、同時に私へ向けられる。
「あの……私、帰ったほうがいいですか?」
「いいえ」
少女は私の手の中の入部届を見た。
「賭けに負けた以上、歓迎します。形式上は」
これが私と彼女、朝倉澪との最初の出会いだった。
そしてこの日から、私は知らないうちに、白鷺坂高校の奇妙な出来事へ足を踏み入れることになる。
◇
ある日の明け方、私はいつものように飼い犬のシロップを連れて散歩に出た。
本来なら、決まったルートを私が先導して歩く。近所を一周して、土手を抜け、白鷺坂へ戻る。平和で健康的な朝の習慣である。ただし、残念ながら散歩の主導権は私にはない。今日も風――改め、シロップの赴くままに、私はずるずると引きずられていた。
「シロップ、待って。せめて人間の歩幅を尊重して」
シロップは振り返らない。白くてふわふわした背中が、朝の光を浴びながら迷いなく進んでいく。
あれ? ……そういえば、シロップって私が何歳の時にうちに来たんだっけ。
すると、一瞬だけ記憶の端が白く霞んで、すぐに朝の匂いへ溶けた。
その後、どうにか主導権を奪還し、土手に沿って歩いていると、急にシロップの足が止まった。
「ん――どしたの?」
シロップが見つめている方へ視線を辿る。朝日に反射して、草むらの手前で何かが小さく光っていた。少し気になって近づいてみると、それは五円玉だった。
「……お金が落ちてる。でも、なんで五円玉?」
拾い上げて、すぐに奇妙なことに気づく。五円玉には、赤い紐が結ばれていた。穴に通された紐は短く、ほどけないように固く結ばれている。
「もしかして、お守り?」
五円玉に赤い紐。ご縁がありますように、なんて言葉が頭をよぎる。たぶん、縁結びのお守りか何かだろう。けれど、ただの落とし物にしては、妙だった。五円玉は草むらの奥ではなく、土手道の端にあった。うっかり落としたにしては、あまりにも見つかりやすい場所。けれど、誰かに拾ってほしいにしては、少しだけ遠慮がちな場所。
まるで、道と草むらの境目に、そっと置いていかれたみたいだった。
「……記録を確認してみよう」
次の瞬間、私の視界は白黒に移り変わった。
色の抜け落ちた世界に、場所に残った過去の断片が浮かび上がる。映し出されたのは、一人の女子生徒だった。
「ん? うちの学校の制服だ」
朝の土手。周囲を気にするように、彼女は何度か辺りを見回している。そして制服のスカートのポケットから、赤い紐のついた五円玉を取り出した。彼女はそれを両手で包み込むように握りしめ、何かを小さく呟く。音はない。だから、何を言ったのかまでは分からない。けれど、その口元はかすかに震えていた。
彼女はしばらく五円玉を見つめたあと、目を閉じる。それから、土手道の端へそっと置いた。
落ちたのではない。あれは、落としたのでもない。もっと正確に言うなら――置いていったのだ。
彼女は一度だけ、五円玉へ手を伸ばしかけた。けれど、指先が触れる前に、ぎゅっと手を握りしめる。そして、逃げるように背を向けた。
振り返らなかった。
そのまま、彼女は土手を下りていく。私は瞬きをして、現実へ戻ろうとした。そのとき、古びたビデオの砂嵐みたいなノイズが一瞬だけ走った。
見えたのは、背の高い男子生徒の後ろ姿だった。
どこかで見たことがあるような、けれどまだ知らないはずの背中。確かめようとした瞬間、映像はぷつりと途切れた。
手のひらの中で、赤い紐のついた五円玉が朝日を受けて鈍く光っていた。
「……落とし物、ではないのかな」
でも、そうだとしても。捨てたのだと決めつけるには、彼女の横顔は少しだけ迷っているように見えた。
◇
その日の昼休み、私は過去で見た女子生徒を顔や聞き込みをしながら探した。
名前は雨宮千尋。二年生で、隣のクラスの先輩だった。廊下で彼女を見つけた私は、できるだけ自然に声をかけた。
「あの、雨宮先輩」
「……なに?」
振り返った彼女は、少し眠そうな目をしていた。柔らかい雰囲気の人だったけれど、どこか疲れているようにも見えた。
「あの、これ」
私は赤い紐のついた五円玉を差し出した。
「今朝、土手で見つけたんです。雨宮先輩のもの、ですよね?」
その瞬間、雨宮先輩の顔から、すっと血の気が引いた。
「……どこで拾ったの」
「土手です。赤い紐がついていたので、お守りかなって」
「いらない」
返ってきた声は、思っていたよりずっと冷たかった。
「え?」
「それ、私のじゃないから」
「でも……視たんです!」
思わず口走ってしまったことに気づいて、口を塞いだ。
「見たの?」
雨宮先輩が鋭い視線を送る。
「……いや、見間違いだったかもしれないです」
「そう。もう一度言うけど、それは私のじゃないから」
雨宮先輩は私から目を逸らした。手渡そうとした五円玉を、決して受け取ろうとはしなかった。怒っている、というより。怖がっている、というより。まるで、戻ってきてはいけないものが戻ってきたみたいな顔だった。
「ごめん。急いでるから」
そう言い残して、雨宮先輩は足早に廊下を去っていった。
親切のつもりだった。落とし物を届けただけのつもりだった。なのに、胸の奥に小さな棘のようなものが残ってしまった。私はその場に立ち尽くしたまま、手のひらに残った五円玉を見下ろす。赤い紐は、さっきよりもずっと固く結ばれているように見えた。
少し離れたところで、女子生徒たちがひそひそと何かを話しているのが聞こえた。
「今の、雨宮さんだよね」
「やっぱり返されたんじゃない?」
「縁狐さんの五円玉?」
「うん。恋が叶うってやつ」
「でも、だめだったんでしょ。相手、もう別の人と付き合ってるって聞いたし」
「それで土手に置いたのかな」
「叶わなかったら、川の近くに置いて帰るんだっけ。未練が流れるようにって」
「振り返っちゃだめなんだよね」
そこで、話していた女子生徒の一人が私に気づいたのか、気まずそうに口を閉じた。聞こえたのはそこまでだった。
「……未練?」
赤い紐のついた五円玉が、手のひらの上で妙に重たく感じられた。
◇
放課後の資料室に入ると、朝倉澪はいつも通り静かに読書をしていた。
窓から差し込む光。古い机。積み上げられた本。ページをめくる白い指。こうして改めて見ると、彼女の容姿も相まって、本当に一枚の絵になる。まさに文学少女と評するべきだろう。
ただし、机の上に置かれているものには『実録・学校怪談特集』という、文学から少し遠そうな文字が躍っていた。
「透花、そんなところでどうしたの?」
「傍観してました。……やっぱり綺麗だなと思って」
「は――何が?」
「これです」
私は、自分が見ていた景色へ向けて指を差した。そのつもりだったのだけれど、なぜか澪先輩の顔が少し赤くなっている。澪先輩、どうかされたのですか。そう訊く前に、榊先輩が口を挟んだ。
「透花さんは、澪が綺麗だと言っているんだよ」
「え――私、そんなこと」
誤解を解こうと榊先輩の方を見た。その瞬間、ほんの少しだけ胸の奥が引っかかった。どこかで見たことがあるような気がしたのだ。けれど、目の前の穏やかな笑顔と、朝のノイズに混じって見えた白黒の背中は、うまく結びつかなかった。
「どうかしたかい?」
「……いえ。なんでもないです」
澪先輩の方へ視線を戻す。けれど彼女は目を逸らし、なぜか雑誌の角を指先で整え始めていた。
……照れている、ように見えなくもない。
榊先輩の方を見ると、彼は悪い笑みを浮かべながら親指を立てていた。
「なんですか、それ?」
「いや、いい仕事をしたと思ってね」
「一体、誰のせいだと……」
澪先輩は低く呟き、水筒のお茶をこくりと喉に流し込んだ。
少しだけ間を置いてから、私は資料室を見回す。
「そういえば、ここって文芸部なんですよね? 部員って、これだけなんですか?」
「そうだね。透花さんが入ってくれたから、これで三人だ」
榊先輩がにこやかに答える。澪先輩は雑誌に視線を戻したまま、淡々と言った。
「悠真。これで廃部は免れたんじゃない?」
「あはは。甘いな、澪。うちは部活として認められるには、最低でも四人必要なんだよ」
「じゃあ、廃部でいいんじゃない?」
温度差がすごい。榊先輩と澪先輩の部活動に対する熱意は、同じ部屋にいるとは思えないほど離れていた。
「入ったばかりで廃部は嫌です」
「透花さんもこう言っているわけだし、澪も諦めちゃだめだよ」
澪先輩はそれを聞いて、小さく舌打ちした。
「あと一人だけ、期日までに入部してくれればいい。けれど最悪のパターンを考えるなら、活動実績も必要だね」
「どうしてです?」
「実績を材料に、廃部の延期を交渉するためだ」
榊先輩がそう言うと、澪先輩はますます嫌そうな顔をした。
「実績と言っても、何をするんです? 文芸部だから、文集を作るとかですか?」
「それだけじゃ弱い。だから、放課後推理クラブがある」
なるほど、と言いたいところだった。けれど肝心の、何をするのかが見えてこない。私の中の好奇心がくすぐられるばかりだ。まるで美味しいおやつを目の前にぶら下げられているみたいだった。なんだか、飼い犬のシロップの気持ちが少しだけ分かった気がする。
「……榊先輩、焦れったいです」
私の様子を見て、榊先輩はふっと笑った。
「ごめんね、透花さん。つまり、この学校が抱える困り事を聞いて、記録し、できれば解決する。文芸部としては相談記録を残し、放課後推理クラブとしては謎を解く。そういう活動実績を作ろうって話だよ」
「困り事……」
ふと、午前中のことを思い出す。今朝の散歩で見つけた、赤い紐のついた五円玉。その持ち主である雨宮千尋に、私は親切心で返しに行った。けれど、感謝はされなかった。むしろ彼女は、五円玉を見るなり、ひどく嫌そうな顔をした。
「あの……私の困り事、聞いてくれますか?」
◇
「なるほど。興味深いね」
榊先輩は顎に手を当て、にやにやと澪先輩の方を見ながらそう言った。
「私を見るな」
澪先輩は不機嫌そうに、彼の視線を切って捨てる。
「私、どうして雨宮先輩があんな反応をしたのか分からないんです。なんだかモヤモヤして、スッキリしないんです」
「はぁ……それって、ただ嫌なことを思い出しただけじゃないの?」
澪先輩は椅子の背もたれに寄りかかり、気怠げに答えた。たしかに、それだけの理由なのかもしれない。けれど、その答えでは私のモヤモヤは少しも晴れなかった。
「透花さん、納得してなさそうだよ」
「黙りなさい。そもそも、本人がいらないと言ったなら、それ以上踏み込まない方がいいでしょう」
「でも……それで終わらせたら、雨宮先輩があんな顔をした理由まで、なかったことになりませんか?」
自分で口にしてから、少しだけ驚いている。
親切に返したつもりなのに、それが雨宮先輩を傷つけてしまったかもしれない。もしそうなら、何も知らないでそんな事をしてしまった私が恥ずかしくてならない。
だから、知りたい。知らなければならない。
「私は、視えたから分かったつもりになってました。でも、雨宮先輩がどんな気持ちでそれを置いたのかは、何も知らなかったんです。知らないまま返して、知らないまま傷つけたかもしれない。……それが、すごく嫌なんです」
すると、後ろから肩をポンと優しく叩かれる。叩からた方を見ると、榊先輩は任せておけと言わんばかりに片目をつむった。
「なら澪、こっちの相談は受けてくれるかい?」
そう言って、榊先輩は鞄から古びたブリキ缶を取り出した。澪先輩は一瞬、お菓子だと思ったのか、ほんの少しだけ目を輝かせた。けれど蓋が開き、中身を見た瞬間、その光はすっと消えた。
「……悠真」
低い声だった。怒っているようにも、呆れているようにも、少しだけ怯えているようにも聞こえた。
「どうしたんですか?」
「透花さんも見てみるかい?」
榊先輩の言葉に甘えて、私は缶の中を覗き込む。
「これって……」
そこに入っていたのは、赤い紐のついた五円玉だった。ひとつではない。二つ、三つ、四つ。小さな硬貨が缶の底で重なり合い、鈍い音を立てている。今朝、私が土手で拾ったものと同じだ。
「校内で落とし物として届けられていてね。ところが、落とし主は誰一人として現れない」
「……まさか、それを私に調べろと?」
澪先輩の声が、半音だけ低くなる。
「文芸部の活動実績になると思わないかい?」
「思わない」
「生徒会としては、校内で発生している不可解な落とし物の処理に、文化系部活動が協力してくれると助かるんだけどな」
「生徒会長の権限をちらつかせるのは卑怯よ」
「ちらつかせてはいないよ。机の上に置いただけだ」
「同じことよ」
澪先輩は、はっきりと顔をしかめた。どうやら彼女は、缶の中身そのものよりも、榊先輩の出し方に青ざめているらしい。私の相談なら、聞かなかったことにできる。でも、生徒会長が正式に持ち込んだ相談なら、そうはいかない。しかも文芸部は、廃部寸前。
……なるほど。これは逃げ場がない。
「僕が気になっているのは、ズバリ――どうしてこのお守りを落とした人たちが、誰一人として取りに来ないのか、という点だ」
榊先輩は楽しそうに私を見た。
「透花さんも、気になるだろう?」
気になる。ものすごく気になる。楽しそうな榊先輩とは対照的に、澪先輩はひどく苦い顔をしていた。私は思わず身を乗り出し、澪先輩に顔を近づける。
「私、スッキリさせたいです!」
「……トイレは向こうよ」
「違います! 私は、その人たちがどうしてお守りを回収しないのか、どうして雨宮先輩があんな反応をしたのかが知りたいんです!」
澪先輩は口をへの字に曲げて抵抗した。けれど、榊先輩と、缶の中の五円玉と、私の顔を順番に見て、最後には諦めたように溜息をついた。
「……分かった。だから一旦、離れなさい」
私は椅子に座り直す。榊先輩の方を見ると、彼は満足げに親指を立てていた。少しして、澪先輩は白いボードを持ってきた。
「まず確認するわ。透花、あなたが視た雨宮さんは、その五円玉をどうしていたの?」
「どう、というと?」
「落ちたの? 落としたの? それとも、置いたの?」
その問いに、私は視た過去を振り返る。白黒の断片。朝の土手。うちの学校の制服を着た女子生徒。雨宮千尋先輩は、周囲を気にするように何度か辺りを見回していた。そして、制服のスカートのポケットから、赤い紐のついた五円玉を取り出した。それを両手で包んで、何かを呟いた。土手道の端へ、そっと置いた。最後に、一度だけ手を伸ばしかけて――でも、触れなかった。
「……落ちたんじゃないです。落とした、というより、置いていったんだと思います」
「振り返った?」
「いえ。振り返りませんでした」
澪先輩の目が、わずかに細くなる。
「そう。なら、今回見るべきなのはそこね」
澪先輩は軽く頷き、ボードにフーダニット、ハウダニット、ホワイダニットの三つの言葉を書いた。
「あの……その、ハウなんちゃらってなんですか?」
「フーダニットは、誰が。ハウダニットは、どうやって。そしてホワイダニットは、なぜそうしたか」
榊先輩が横から説明してくれる。
「透花さんが知りたがっているのも、その動機だね」
「ああ、なるほど」
つまり、私がモヤモヤしていたものには名前があったらしい。ホワイダニット。なぜ、そうしたのか。
「今回、誰がやったかは分かっている。雨宮千尋さん」
澪先輩は、ボードの一つ目に線を引く。
「どうやったかも分かっている。彼女は赤い紐のついた五円玉を、自分の意思で土手に置いていった」
二つ目にも線を引く。
「問題は最後。なぜ彼女は、それを置いていったのか」
澪先輩は三つ目の項目だけを丸で囲んだ。
「捨てたかったから、ではないんですか?」
「それなら、わざわざ土手道の端に置く必要がないわ。ゴミ箱に捨てればいい。五円玉だけなら使えばいい。お守りとして気味が悪いなら、誰にも見られない場所に投げ捨てればいい」
「たしかに……」
「でも、雨宮さんはそうしなかった。人目を気にしながら、川の近くで、五円玉を置いた。そして振り返らずに立ち去った」
澪先輩はボードに「川の近く」「置く」「振り返らない」と書き足した。
「これは捨てたというより、手順を踏んでいる」
「手順……」
「おまじない、ってやつだね」
榊先輩が楽しそうに言った。
私は昼休みに聞いた女子生徒たちの会話を思い出す。
「そういえば、雨宮先輩のことで、おまじないが効いただとか、だめだったとか、土手に置いただとか、そんな話をしている人たちがいました」
「それを早く言いなさい」
「す、すみません」
「責めてはいないわ。かなり重要な材料よ」
澪先輩はボードに、新しく「縁狐さん」「恋が叶う」「叶わなかったら土手」「未練が流れる」と書き足した。
「五円玉は“ご縁”に通じる。赤い紐は赤い糸、つまり恋愛や縁の連想。ここまでは縁結びのお守りとして自然ね」
澪先輩は缶の中から、赤い紐のついた五円玉を一枚つまみ上げた。
「でも、問題はその後。願いが叶わなかった場合、このお守りはどうなると思う?」
「えっと……効果のなかったお守り?」
「それだけなら、ただの失敗したおまじないね。でも、持ち主にとっては違う」
澪先輩は五円玉を私の前に置いた。
「これは、叶わなかった願いの記憶になる」
部屋の中が、少しだけ静かになった。
「雨宮さんは、この五円玉に願いを預けた。誰かと結ばれたい。振り向いてほしい。そういう気持ちをね」
赤い紐が、五円玉の穴に固く結ばれている。ほどこうとしても、簡単にはほどけそうにない。
「でも、恋はうまくいかなかった。昼休みの噂が本当なら、相手には別の人がいた。そうなったとき、この五円玉はもう“恋を叶えるお守り”じゃない」
「じゃあ、何になるんですか?」
「未練よ」
澪先輩は静かに言った。
「叶わなかった願い。信じてしまった自分。諦めきれない気持ち。そういうものが、全部この小さな五円玉に結びついてしまう」
私は息を呑む。雨宮先輩の顔を思い出した。五円玉を差し出した瞬間、血の気が引いたような表情。私から目を逸らし、決して受け取ろうとしなかった手。あれは、落とし物を返された人の顔ではなかった。終わらせたはずのものを、もう一度目の前に差し出された人の顔だった。
「じゃあ、雨宮先輩は……」
「恋を叶えるために縁狐さんのおまじないをした。でも、うまくいかなかった。だから今度は、未練を手放すためのおまじないをした」
澪先輩はボードの「土手に置く」という文字を軽く叩いた。
「川の近くに置いて、振り返らずに帰る。未練が流れていくように。自分の気持ちが戻ってこないように」
「なのに、私が返した」
「ええ」
澪先輩は、五円玉に結ばれた赤い紐を指先で軽く揺らした。
「あなたは落とし物を届けただけ。でも、雨宮さんからすれば違った」
「……捨てたかったものを、もう一度手渡された」
「もっと正確に言えば、手放したはずの未練を、もう一度返された」
その言葉が、すとんと胸の中に落ちた。雨宮先輩が、どうして嫌そうな顔をしたのか。どうして感謝ではなく、困惑に近い表情を浮かべたのか。ようやく少しだけ分かった気がした。
「じゃあ、缶に入っている五円玉も……」
「同じでしょうね。恋を叶えるために持っていた。叶わなかったから、手放した。でも拾われて、落とし物としてここに届いた」
「だから、誰も取りに来ない」
「ええ。取りに来たら、手放した意味がなくなるもの」
澪先輩の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「赤い紐の五円玉は、落とし物じゃなかった」
私は、机の上の五円玉を見つめる。朝日を浴びて光っていたそれは、今は少しだけ寂しそうに見えた。
「置いていかれた未練だったんですね」
誰も、すぐには何も言わなかった。
窓の外から、春の風が吹き込んでくる。その風に揺れる赤い紐を見ていると、胸の奥の棘が、ほんの少しだけ溶けたような気がした。
「じゃあ、澪。缶に入っているこれらはどうする?」
榊先輩が問いかける。
「そうね」
澪先輩は缶の中を覗き込む。その目が、ほんの一瞬だけ細くなった。まるで、数を数えているように。あるいは、足りないものを探しているように。
「一応、私が預かるわ。こういうものを落とし物として置きっぱなしにするのも、あまり良くないし」
「処分してくれるのかい?」
「処分、というより後始末ね」
「後始末?」
「まぁ、気分の問題よ」
澪先輩はそう言って、赤い紐のついた五円玉を缶に戻した。その仕草は何気ないものだった。けれど、なぜかその横顔だけは、さっきまでより少しだけ硬く見えた。
「あの……澪先輩?」
「ん――何?」
「もしかして、まだ何かあるんですか?」
「ないわ」
即答だった。即答すぎて、逆に少し怪しい。けれど澪先輩は、それ以上は何も言わなかった。
「少し用事ができたから、今日は先に帰る」
「澪、もう行くのかい?」
「ええ。これを片づけてくる」
「お疲れ」
「あ、お疲れ様です」
澪先輩は缶を持って資料室を出ていく。けれど、扉が閉まる直前、何かを思い出したように立ち止まり、こちらを振り返った。
「……透花」
「はい、なんですか?」
「スッキリした?」
そう聞かれて、私は少し考えた。雨宮先輩が五円玉を置いていった理由は、分かった。返されたときに嫌そうな顔をした理由も、分かった。だから、確かに胸の中のモヤモヤは少し晴れている。でも、澪先輩の顔はまだ晴れていなかった。
「はい。少しだけ、スッキリしました」
「そう」
澪先輩は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「それは良かった」
そう言って、彼女は今度こそ資料室を出ていった。
その日の帰り道、廊下の向こうで雨宮先輩を見かけた。彼女は友人と並んで歩きながら、小さく笑っていた。その笑顔は、今朝より少しだけ軽く見えた。
私は声をかけなかった。手のひらに残っていたはずの五円玉の感触を思い出しながら、ただ、その背中を見送った。
返さなくていいものも、きっとあるのだと思った。
◇
次の日の昼休み、榊悠真は朝倉澪から「部室に来て」とだけ言われていた。
階段を上り、廊下を歩いて、言われた通り資料室へ向かう。扉を開けると、澪は窓際に立っていた。珍しく本も読まず、ただ外の景色を眺めている。春風が窓から吹き抜け、絹のような黒髪を静かに揺らしていた。
「……言われた通りに来たよ」
「悠真、遅い」
「昼休みに生徒会長を呼びつけておいて、第一声がそれかい?」
悠真は僅かに肩を竦めると、澪の隣へ行き、窓際に背を預けた。
「それで、僕を呼びつけてどうしたんだい。もしかして告白とか?」
「寝言は寝て言いなさい」
「手厳しいな」
「昨日の縁狐さんのことなんだけど」
「はは、無視か。まあ、いいけど。お守りは片付いた?」
「とりあえずはね。それと、これ」
澪はそう言って、手に持っていた一枚の紙を差し出した。一見すると、どこにでもある白い紙だった。片面には、縁狐さんを呼び出すための鳥居が描かれている。赤いペンで書かれたそれは、ただの子供じみた落書きにも見えた。
悠真は紙を裏返した。その瞬間、表情から笑みが薄れる。
そこには、幾何学的な線と記号が複雑に絡み合う、見慣れない陣が描かれていた。
「なるほどね。澪は昨日、缶の中を見た時点で気づいていたってわけか」
「五円玉に、薄く神秘が乗っていた。なら、元になったものがあると思っただけ」
「これはどこで?」
「図書室。縁狐さんの記事が載っていた雑誌に、栞みたいに挟まっていたわ」
「偶然?」
「そんな都合のいい偶然があるなら、私はもっと楽に生きてる」
澪は不機嫌そうに言って、紙の裏に描かれた陣を指先で軽く叩いた。
「これは、低いものを呼び寄せて、留めるための式よ。恋占いに混ぜていい代物じゃない」
「低いもの?」
「名前を与えるほどでもないもの。残り香、影、呼び声。そういう曖昧なものよ」
「それが縁狐さんの正体?」
「いいえ。縁狐さんのおまじない自体は、ただの噂だったはずよ。五円玉も赤い紐も、本来なら本人の気持ちを支えるための小道具でしかない」
「けれど、この紙が混ざった」
「ええ。鳥居、五円玉、赤い紐、恋の願い。意味を持つものが重なれば、依代としては十分だった。あのまま数が増えていたら、ただの未練では済まなかったかもしれない」
悠真は紙をもう一度見下ろした。表には、幼い落書きのような鳥居。裏には、誰かの意図を感じさせる陣。二つは同じ紙に描かれているのに、まるで別のもののようだった。
「例の魔女かな」
「でしょうね」
澪の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「相変わらず、趣味が悪い」
「君の師匠にしては、控えめじゃないかい?」
「師匠じゃないわ」
「そういうことにしておこう」
澪は悠真を睨んだが、それ以上は言い返さなかった。代わりに、紙を封筒へ戻し、鞄の中へしまう。
「このことは透花には言わないで」
「理由を聞いても?」
「言えば、あの子は絶対に紙の過去を視ようとする」
「ああ、するだろうね」
「視れば、紙を作った相手に触れる。今の透花が好奇心だけで覗いていいものじゃないわ」
悠真は少しだけ笑った。
「澪は、相変わらず優しいね」
「危険管理よ」
「はいはい。そういうことにしておくよ」
澪は窓の外へ視線を戻した。春の光は柔らかく、校庭の桜はまだ綺麗に咲いている。けれど、封筒の中にしまわれた紙のことを思うと、その麗らかさの底に、薄い影が差しているように見えた。
「それで、悠真」
「うん?」
「あなたも、あの子をあまり釣り針みたいに使わないで」
「人聞きが悪いな。僕はただ、彼女なら気づくと思っただけだよ」
「だから言っているの」
澪は静かに言った。
「透花は、気づいてしまう子よ。気づかなくていいことにまで」
悠真はしばらく黙っていた。それから、いつものように穏やかな笑みを浮かべる。
「……分かった。善処する」
「信用できない返事ね」
「生徒会長の誠意ある回答だよ」
「なおさら信用できない」
澪は小さく息を吐き、窓の外を見た。
春、麗らかなれば怪奇あり。
その言葉が冗談では済まないことを、彼女だけはもう知っていた。
