EP2:語れなかった町――フェニキア(ビブロス) ft.サエコ
音のある方へ
MC:サエコ
かつて、この海を渡った者たちは、
言葉から「祈り」を剥ぎ取っていきました。
レバノンの北、
世界で最も古くから人々の営みが続く港のひとつ、
ビブロス。
波に洗われる石畳に立つと、潮風に混じって、わずかに甘く重い香りが鼻をくすぐります。
それは、かつてこの地から世界へ運び出されたレバノン杉の、記憶の残滓(ざんし)かもしれません。
港には、あらゆる国の言葉が、
乾いた音を立てて交差しています。
フェニキア人が生んだ「音素文字(アルファベット)」は、重厚なヒエログリフや複雑な楔形文字を、軽やかな記号へと解体してしまいました。
意味を持たない一音一音が、効率よく組み合わされ、莫大な富を、契約を、そして情報を運んでいく。
ここは、あまりに自由です。
特定の神に縛られず、土地の因習に埋もれることもない。
取引のたびに、名前さえ着替えられる。
けれど、その機能的な自由さが、私の胸にはひどく冷たく響きます。
耳を澄ませば、たしかに音は溢れている。
けれど、それは誰かが誰かの魂を震わせるための「声」ではなく、ただ世界を繋ぐための「導管」を流れる記号の群れ。
不自由で重たい「物語」の種が、どうしてもこの砂地には根を下ろせないのです。
アブラハムは、この合理性の極致を見たとき、何を感じたのでしょう。
彼は、約束の重みを知る人でした。
ここには、彼が留まるための「不自由な約束」がなかった。
私は、波音の向こうにある、もっと不確かで、もっと痛切な「声」を求めて、
この自由すぎる港を後にします。
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