見出し画像

遥かなる宙――星への階段 4Days / Day4

【編集部より】
7月28日に発生した熊本県熊本地方の地震により、被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。
今なお不安な時間を過ごされている皆さまの安全と、一日も早く穏やかな日常が戻ることを願っています。


星への階段 4Days
MC:ユウ

▶️誰もが知ってる未開の地 / Day3

「どうして……そばにいてほしいって、言ってくれないの」


使い古された宇宙船


二〇七八年六月、種子島新宇宙港。

佐伯遥が乗り込んだ地球低軌道便《あさぎり四七号》は、これが六十三回目の飛行だった。外板には再飛行回数を示す刻印が並び、二度交換された耐熱パネルには、わずかな色むらが残っている。

座席ベルトの端は毛羽立ち、右肩の緩衝材には補修の縫い目があった。機内には、新品の素材ではなく、柑橘系の消毒剤と、何度も人を運んできた乗り物の匂いが残っていた。

前方では子供が泣いている。母親は月面居住者用の灰色の腕章をつけていた。斜め向かいの男は採掘会社の作業服を着たまま眠り、後方の研究者二人は、無重力になったとき吐かない方法を真剣に議論している。

英雄の顔をした人間は、一人もいなかった。

遥が胸元の固定具を引くと、通路側の整備員が声をかけた。

「それ以上締めると、加速より先に肋骨が折れますよ」

遥は手を離し、座席へ身体を沈めた。

地上が離れ、青い空が濃紺へ変わる。雲と海は一枚の曲面へ収まり、窓枠の向こうで地球になった。

「初めてですか」

「ええ」

「月へ?」

遥は少し考えた。

「地球の外へ、です」

整備員は怪訝そうに眉を寄せたあと、肩をすくめた。

「月も、ずいぶん地球ですよ」

低軌道中継港へ接近する直前、機体は予定航路をわずかに変更した。五十年以上前に放棄されたロケット上段を、自律回収機が捕獲するためだった。

窓の外を、黒く焼けた円筒が横切っていく。回収された金属は軌道上の工廠へ運ばれ、放射線遮蔽材や新しい構造材へ作り直される。

人類は、昔捨てたものを拾いながら先へ進んでいた。

低軌道中継港で月往還船へ乗り換えると、推進剤表示の横に、使用される酸素と水素の六十七パーセントが月由来だと記されていた。

月は、到着する場所から、その先へ向かうための港へ変わり始めていた。


名前を呼べば


月面基地《セレネ》で、遥は生命維持・都市循環系エンジニアのエリン・ルンドと出会った。

エリンが最初に気にしたのは、彼の研究ではなく、名前だった。

「Harukaは、英語だと少し呼びにくい」

「子供のころは、女の子みたいだと言われました」

「女の名前でも悪くないけど」

「否定はしてくれないんですね」

「Halでいい?」

「宇宙船を制御して、人間を殺しそうだ」

「古い映画の見すぎ。あなたのほうは、
 宇宙船より時計塔に閉じこもっているでしょう」

エリンは試すように呼んだ。

「Hal」

遥はすぐ振り向いた。

「フフ。振り向いたね」

その呼び名は、やがて基地中へ広がった。

二十三時を過ぎると、遥はエリンの作業机へコーヒーを置きに来た。水の回収率を上げれば、処理膜へ蓄積する物質が増える。排泄物から窒素やリンを回収すれば、医薬品の代謝物まで同じ流れへ混ざる。

循環を閉じるたび、別の場所へ負荷が移った。

二人は互いの仕事を手伝うわけではなかった。ただ、同じ部屋で別の計算をした。

エリンのマグカップが時計塔へ置かれ、遥の充電器が彼女の部屋に残った。勤務がずれた日は、先に食べる方が相手の分を保温庫へ入れた。

恋人だと確認はしなかった。

確認しなくても、生活は二人分になっていた。


見えない試験


二〇八〇年二月。

エリンは、遥がエウロパ有人探査計画へ応募したことを、本人ではなく候補乗員一覧で知った。

人工夜が始まるころ、彼女は時計塔へ向かった。

「応募したの」

「昨日」

「どうして言わなかったの」

「まだ候補にもなっていない」

「そういう話をしてるんじゃない」

遥は、エウロパでなければ測れない重力と時間の話を始めた。

「また、それ」

エリンは唇を噛んだ。

「私が聞きたいことには、いつも物理で答える」

遥は黙った。

「君は、この基地を自立させたいんだろう」

「そうよ」

「ここに残りたいって言ってた」

「残りたい。ここでやりたいことがあるから」

「なら――」

「でも、あなたにも、ここにいてほしかった」

言葉の意味が、自分へ向けられていると遥が理解するまでに、数秒かかった。

「どうして……そばにいてほしいって、
 言ってくれないの」

エリンは待った。

「知りたいんだ」

口から出たのは、結局それだった。

「重力と時間が、どうして俺たちを
 縫いつけているのか。あの残差が、
 ただの誤差なのか。それとも、
 世界のルールに触れているのか」

「私より?」

遥は答えられなかった。

比べたことがなかった。比べられるものだとも思っていなかった。

「届かないかもしれない。
 何も見つからないかもしれない。
 けど、もう少しなんだ。
 指先で触れられそうな気がする」

「その指が、戻ってこなくても?」

遥は手を伸ばしかけ、止めた。

「ごめん」

「いま謝られるのが、いちばん嫌い」

エリンは時計塔を出た。

遥が彼女を選ばなかったのではない。

選択肢があることさえ、彼は知らなかった。


六人分の呼吸


月軌道造船港で建造された木星圏有人探査船《アリアドネ》には、六人が乗る。

エリンは、閉鎖循環系の引き渡し担当へ自分から立候補した。

水再生膜を一系統切り離し、残った系統だけで処理量を維持させる。微生物槽の温度を許容範囲の下限まで落とす。乗員二人が同時に発熱した場合、栽培棚の一段が失われた場合、航行が百日延びた場合。

エリンは船へ一つずつ故障を与え、壊れたあとに、命がどの道を通って戻るのかを確かめた。

配管を水が流れ、微生物槽の送気音が、誰かの浅い呼吸に似ていた。

遥の個室照明は、二十三時に強制的に暗くなるよう設定した。本人による解除権限は外してある。

「サエキだけですか」

「ほかの五人は、眠るという判断ができます」

「個人的な評価?」

「医学記録に基づく運用上の評価です」

出発前夜、遥が栽培区画へ来た。

エリンは、月で最初に実った株の子株を、新しい培地へ移していた。

「明日ね」

「ああ」

「忘れ物は?」

「重量制限までは詰めた」

「そういう意味じゃない」

遥は答えを探した。

「あのとき、分からなかった」

「何が」

「君が何を言っていたのか」

「いまは?」

「分かった。でも、分かったからって、
 正しい答えが分かるわけじゃない」

それでよかった。

分からないことを、分かったふりはしない。

「待っていてほしいとは言えない」

「言われても、待たない。私は私の時間を生きる」

「うん」

エリンは、そこで終えるつもりだった。

けれど、何も言わずに待つことはやめた。

「でも、生きて帰ってきて」

遥は頷いた。

「帰る」

保証のない約束だった。

それでも、初めて二人が同じ条件を見て交わした約束だった。

エリンは二人の距離を詰め、額を彼の額へ触れさせた。

「遅い」

「何が」

「全部」


遥かなる宙


《木星遷移軌道投入まで、百二十秒》

佐伯遥は胸元の固定具を、もう一度引いた。

身体を包む座席は、月面から軌道へ上がる移送艇のものより深い。正面の表示板には、目的地が一行だけ記されていた。

EUROPA CREWED EXPLORATION MISSION

《地球・月系共通時との同期を終了。船内固有時へ移行します》

四つの時刻が並んだ。

地球。月。船。そして、まだ誰もいないエウロパ。

数字は一度だけ揺れ、それぞれの速さで未来を数え始めた。

「主時計、同期誤差なし」

「了解。時間はあなたに任せる、ドクター・サエキ」

「いちばん任せちゃいけない人間かもしれませんよ」

冗談のつもりだった。船長は笑わなかった。

《係留アーム、解放》

船体のどこか遠くで、重いものが外れた。

探査船は月軌道造船港から、数センチずつ離れていく。

通信回線が一つ開いた。

『生命維持系、全系統正常。引き渡しを承認します』

女性の声だった。

業務用の平らな英語。その声を、遥は二年かけて聞き分けられるようになっていた。

短い空白が落ちた。

『……行ってらっしゃい、Hal』

遥が返事をするより先に、発進シークエンスが始まった。


ユウの余韻


遥は、エリンより宇宙を選んだのでしょうか。

ここから先は

909字 / 1画像
この記事のみ ¥ 100
Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

ここは 「ゆめNog|アーカイバ」 です。 公開から一定期間が過ぎた記事を、 鍵付きで保管します。 …

ゆめNogアーカイブ

¥500 / 月
1ヶ月無料

この記事が参加している募集

少しでも”考えるきっかけ”になる記事を投稿していきます。気に入って頂けましたら応援よろしくお願いします。