EP6:混沌に敷かれた滑走路――アンティオキア(シリア) ft.サエコ
音のある方へ
MC:サエコ
「人間は万物の尺度である。」
東の真珠と呼ばれた街、アンティオキア。
オロンテス川の穏やかな流れが地中海へと注ぎ込むこの港町は、あらゆる匂いと音が、鍋の中で煮詰められているような場所だった。
クミンと羊肉の焦げる匂い。
荷車が轍を軋ませる音。
すれ違う人々の口からは、ギリシャ語、アラム語、ラテン語、そしてペルシャの言葉が、モザイク画のように入り乱れて飛び出してくる。
エジプトの「沈黙」から抜け出した私を待っていたのは、この鼓膜を揺らす圧倒的な「喧騒」だった。
かつて、アブラハムの末裔たちが、砂漠の風の中で聞いた神の「声」は、極めて個人的で、閉じたものだった。
それは、彼ら自身の血と骨に刻まれた、一族だけの秘密の契約。
しかし、アレクサンドリアの図書館で「ロゴス(論理)」というギリシャの衣を纏ったその神は、ここアンティオキアの市場で、初めて「大衆の熱狂」と混ざり合うことになる。
私は、雑踏の片隅にある小さなチャイハネ(茶屋)で、甘いミントティーのグラスを指でなぞる。
目の前を、様々な神々を祀る祭りの行列が通り過ぎていく。多神教の豊穣なパレード。
享楽と祈りが、何の矛盾もなく同居している世界。
このカオスの中で、「見えない、ただ一つの神」の教えは、どのようにして人々の耳に届いたのだろう。
答えは、「翻訳」だった。
特定の民族の「律法」ではなく、誰もが理解できる「普遍的な愛」や「ロゴス」という言葉に姿を変えること。
それは、神が、広大な地中海世界という「市場」に流通し始めた瞬間でもあった。
かつて「僕」と自称し、自分の内側ばかりを見つめていた私は、世界と関わることの恐ろしさと、そのエネルギーの強さを、この街の熱気に重ねてしまう。
純粋さを失うこと。
誤解されること。
都合よく解釈されること。
それでも彼らは、言葉を外へ向かって放つことを選んだ。
市場の喧騒の中で、ふと、誰かが誰かに教えを説く声が聞こえたような気がした。
それはもはや、砂漠の静かな啓示ではない。
人から人へ、熱病のように伝播していく、新しい時代のうねりの音だった。
ここから先は
この記事が参加している募集
少しでも”考えるきっかけ”になる記事を投稿していきます。気に入って頂けましたら応援よろしくお願いします。
