シリーズ“ある男”⑧ 先行ギフテッド
『この宇宙は本質的に数学的なのだろうか。そして、そもそも、“数”とは、私たちが物を数える前からあったのだろうか』
イギリスの哲学者で数学者のバートランド・ラッセルはかつてそのように考えた。
時を経て、この歳まで平凡に生きてきた僕は、なぜかある日突然に国家機関から極秘に呼び出しをくらった。
一介のヒラリーマンに国家が何の用があるのかまったくわからず困惑したが、指定された日に休みを取って指定された場所へ出向いた。
家を出る際、妻からどこへ行くのかと尋ねられたので、素直に、呼び出されたのだと答えたら、
「あなたいつからマフィアになったの」と笑って靴ベラを渡してくれた。
季節の変わり目の中を縫うように僕は歩いた。
変な緊張感があって、乗るべき電車のホームを何度か間違えた。
スマホでGPS座標が表示される地図と、正確な緯経度を示す目標ポイントをフル活用してもなかなか見つからない場所に目的地はあった。
着くころには不安が全て苛立ちに置き換わっていた。
『国立脳科学爆発開発研究所』
ピュリスム建築のような白いその建物の中のある一室へと通された。
そこには知能理論部門の責任者で医師の男がモーツァルトを聴きながら待っていた。
「どうぞ、お掛けください」
促されて僕らは対座した。椅子が僕を拒絶しているように感じた。
部屋の中には脳全体のニューロンマップがあった。
男が「遠いところわざわざお越しいただきまして……」と、まるで起訴状の朗読みたいな声で始めたので、
僕は「いったい僕の何が国家の脅威だっていうんですか」と不信感が抑えきれずにそう言った。罪状認否なんてまっぴらだ。
「脅威?誰がそんなこと言いました?それどころか、とても幸せな贈り物なんです」
「幸せな贈り物??」
僕が不機嫌に足を組んだのを見て、男は使い古した万年筆で額をかく動作をした。
「では結論から申しましょう」と男はフクロウが後ろを見る時の首の回転みたいに回転して僕を見た。「どうもあなたはギフテッドのようです」
「はい?」
「ギフテッド、ご存知ないですか、ギフテッドというのは特別な……」
「知ってますよ、そういう子供がいることは。でも僕はもう中年だし、知能指数も大したことない、高校の時は赤点ばっかでしたよ。それに今まで自分に特別なものがあると実感したことなんてなかったです。会社でも平凡な地位ですし……」
僕は腕まで組んだ。わざわざ呼び出されて恥をかかされるなんて、とんだ国家だ。
男はまあまあと抑えるジェスチャーをしてから説明を続けた。
「ギフテッドといっても、あなたの場合は大変特殊で、いわゆる『先行ギフテッド』というものなんです」
「……」
「あなたは前世でギフテッドだったんですよ」
何だぁそういうことかぁって、なるかいっ。
いくらギフテッドの特性が成人後も持続するからといって、前世とはあんまりだ。
怒っていい案件だと思う。
僕のそんな胸の内などお構いなしで、彼はさらにつづけた。
「その事実を裏付けるように、あなたの知能はオープンソース化されているんですね。知らなかったですか?ええ、まあそうでしょう。データ見ます?見ないですね。あなたはあなたの知らないうちにどんどん他者の介入によって脆弱性やバグを修正していき、いずれ『地球の脳』になれるはずです」
「信じないですよ、そんなの」
もはやこれは何か新手の詐欺だろうか。
「とにかくあなたは、今、巷でギフテッドと言われている子供たちよりもはるかにずっとギフテッドなのです」
男は学者がよくやる右手と左手の指の先を全部合わせてハート型みたいにして、最終的な結論だよスタンスをとった。
僕はもう帰りたかった。何か反論してほんの少しでも長引くことすら嫌だった。
「で、それが何の役に立つんですか?」
「そのことをこれから追跡調査したいのです」
「……そうですか、いや、そうだ、このことを妻に話してもいいですか?」
「それはお辞めになったほうがいいでしょう」
「なぜです?」
「なぜって……奥様があなたの新しい一面の発見を必ずしも喜んで迎えるとは限らないからですよ」
「あなたに何がわかるんですか、僕と妻は深く愛し合っています。それに隠し事をしたくないんです」
「学者調で申し訳ありませんが、それしかできないので、言わせてください。ではもし、奥様の愛が、あなたがギフテッドではないという前提の愛だったら?平凡さに芽生えた愛だったら?おっと、こんなことはやはり私が言うべきことじゃないですね。私はセラピストではないので」
「ばかばかしい」
僕は席を立とうとした。
すると彼は少し声を荒げて「それに私も」と始めた。
でもすぐに冷静になって「それに私も実はギフテッドとして生まれてまったく周囲に馴染めずに深い孤独の中で生きてきました。あなたはそういう苦悩をいっさい経験せずにギフテッドとしていれるわけですから恵まれていますよ」と説いた。
男はさらに、“だから少し、さっきの愛の件であなたが羨ましくてあんな言い方をしてしまった。妬みがあった申し訳ない”と、まるでヘレニズム時代のアレクサンドリアでつくられた最初のオートマタみたいなぎこちなさで付け加えた。
再び腰を落ち着けた僕。
「この診断が無かったことにできないんですか?」
「そうして差し上げれればいいんですが、おそらくは無理でしょうな。もはや国家プロジェクトになってしまっているので。“前世ギフテッド”を研究することにより100年後にギフテッド大国を目指すとかいう……」
思考の抽象性を初めて探ったのはアリストテレスだ。そして僕は、探られたくもないなにかを探られているわけだ。
あたかもあまたある創造神話のひとつのような見せかけ方で……。
「では、また次回お待ちしています」
男は僕を見ずに腕を乗せたデスクの上を見てそう言った。終了予定時間きっかりだった。
「来るかわかりませんよ」
去り際、ドアのところで振り向いて僕は言った。
男はまだデスクの上を見ていた。
僕は部屋を出た。
外の匂いがした。
そしてある哲学者のこんな言葉が浮かんだ。
『語りえぬことについては、沈黙しなければならない』
──しなければならない。
終
