『真実』より先に消されるもの【いじめ】
どうしていじめられているほうが、逃げなきゃならないんでしょう。
欧米の一部では、「いじめてる方を病んでいる」と判断するそうです。
いじめなきゃいられないほど、病んでる。
だから隔離して、カウンセリングを受けさせて、“癒やすべき” だと考える。
でも、日本は逆です。
いじめられている子に逃げ場をつくって、なんとかしようとする。
でも、逃げると学校にも行けなくなって損ばかりすることになる。
DVもそうだけど、どうして被害者側に逃げさせるんだろう。
病んでたり迷惑だったり、恥ずかしくて問題があるのは加害者の方なのに。
これは、
久能 整(くのう ととのう)君の言葉です。
この言葉、皆さんはどう思いますか?
その前に、
久能 整(くのう ととのう)君って誰?
って思う人もいると思うので簡単に説明します。
久能 整(くのう ととのう)
漫画・ドラマ『ミステリと言う勿れ』の主人公で、
事件を “解く” というより、人の思い込みや矛盾を静かにほどいていく青年です。
「それって、本当にそうなんでしょうか?」
って、問いを置いていく人です。

久能 整くんの言葉について。
構造の話をすると――
日本ってね、
「問題を起こした人をどう扱うか」より
「場をどう静かに保つか」を優先する社会なの。
学校も会社も同じで、
・加害者を動かすと揉める
・責任を問うと面倒
・組織の評判が傷つく
だから一番 “声が小さくて、壊れやすくて、従ってくれそうな側” に
「逃げる」「我慢する」「環境を変える」を押しつける。
悪い言い方すると、
『見えないように隠す』ということ。
そうするとね――
被害者の姿が見えないから、考えなくて済む。
被害者の声が聞こえないから、反応しなくて済む。
そこに残ってるのって『加害者の声』と『関係ない人の声』だけ。
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『加害者の声』
①「そんなつもりじゃなかった」
悪意を否定して、行為そのものを曖昧にする。
②「あの子が勝手に弱かっただけ」
被害を “性格の問題” にすり替える。
自分の行動は検証しない。
③「普通に接してただけ」
“普通” という言葉で暴力を薄める。
④「周りも同じこと言ってた」
集団に責任を拡散する。
⑤「社会に出たらもっと厳しい」
教育や現実論を装った脅し。
⑥「もう終わった話でしょ?」
被害者が消えた = 解決、という認識。
ここで大事なのはね、
これらの言葉って、 反省の言葉じゃない ってこと。
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『関係ない人の声』
①「どっちもどっちじゃない?」
公平のようだけど、判断を放棄する言葉。
②「わからない」
慎重さに見せかけた距離取り。
③「昔のこと蒸し返しても仕方ない」
時間を盾にして、責任から降りる。
④「空気悪くなるからやめよう」
問題より雰囲気を守る宣言。
⑤「自分は関わってないから」
中立を装った安全地帯宣言。
被害が続いてるかどうかは関係ない。
そして、関係ないと思ってる人に
これ以上なにかを求めるのは難しいと思います。
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被害者のいない状況で残った人の声だけを聴くと…
そして、その言葉をそのまま受け止めると…
――
「加害者なんていないのでは?」
となることも。
それは、「いじめられる側に問題がある」ともなりかねません。
いじめられる側に問題がある?
これについては特に賛否両論あると思います。
僕は、いじめられる側に問題は ”絶対にない” とも言いきれないです。
ただし、結局は “いじめ” という行為が行われてた場合は、
「加害者」と「被害者」の関係が別の形で出来上がってしまいます。
「いじめられる側に問題がある」というのは、
“被害者の声のない場所” で関係ないものが白黒きめていいものではないです。
もし、いじめ問題を考える場合
単純な話で考えないでください。
「いじめ」といってもそこには色々なパターンが存在します。
“いじめ” で一括りにせず、
そこに何があったのか、「加害者」の言葉だけではなく、
「関係ない人」は何を見ていたのか聞いていたのか――
そして、「被害者」の話をしっかり聞いて事実に向き合ってほしいです。
「被害者」を隠したら、それが出来なくなります。
真実 と 事実
例えば、A と B がいたとしましょう。
ある時、階段で A とぶつかって、 B が落ちて怪我をした。

B は、日頃から A にいじめられていて、今回も「わざと落とされた」と主張する。
ところが、 A はいじめてる認識なども全くなく遊んでいるつもり。
今回も「ただ、ぶつかった」と言っている。
どっちも嘘をついてません。
この場合、真実って何ですか?
これは、ただぶつかって落ちた事故ですか?

その点、B の思い込みと同じです。
人は主観でしかものを見られない。
それが正しいとしか言えない。

またさらに違う印象を持つかもしれない。
神のような第三者がいないと、見きわめられないんです。
だから、戦争や紛争で、
敵同士でしたこと、されたことが食い違う。

話を盛っていなくても、
必ず食い違う。
A には、A の真実が全てで、
B には、B の真実が全てだ。
だから、真実は1つなんかじゃない。2つや3つでもない。
真実は人の数だけあるんですよね。
でも『事実』は一つです。
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これも、久能 整くんの言葉です。
要は、
真実 = 主観の世界
事実 = 起きた出来事そのもの
主観や思い込みで決めつけないで、実際に起きた出来事で考えないといけないですね。
日本は「被害者」の真実を隠し、
「関係ない人」たちは「加害者」の言葉だけを聴いているだけ。
そこにあった事実(いじめ)が見えにくくなってるの確かです。
最後に
この記事は「どっちを隔離すべきか」とか、「誰が悪いかを決める裁判」をする話ではありません。
いじめの話は、「気持ちの強さ」や「正しさ比べ」で片づけられるものでもありません。
本当に向き合うべきなのは、
そこで 何が起きていたのか という事実を知ること。
被害者の声を消したまま、
加害者や関係ない人の言葉だけを聞いてしまえば、
本当はあったはずの出来事は、なかったことにされてしまいます。
この記事では、そんなことを感じてもらえたら嬉しいです。
「今、あなたの周りで誰かの姿が見えなくなっていませんか?」
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