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母の前でセーターを着れない私

冬、母の前では絶対にセーターを着ない、と心に決めている。
本当はお気に入りのニットを何着も持っているのに、母に会うときは、トレーナーかスウェットに着替えていくのだ。

それは、少し後ろめたさがあるからだ。

私の母は昔、編み物教室の講師をしていた。手仕事が好きで、プロ級の腕前を持つ母のセーターは、子どもの頃の私の自慢だった。
学校に着て行けば誰もが褒めてくれたし、それが嬉しくて「次はこんなのを作って」とおねだりしたものだった。

でも、大人になるにつれ、母のセーターを着ることは少なくなっていった。

子育てに追われる毎日では、気軽に洗えて、汚れても惜しくない服ばかりを選ぶようになった。
そうなると、母の手編みのセーターは「手入れが大変な服」「気を遣う服」にしか思えなくなってしまった。

だから、「このセーター着る?」と差し出されても、「敏感肌になったから」「手入れが大変だから」と言って、断ることが増えていった。

その私が、市販のセーターを着て母の前に立つことは、「もう母のセーターを選ばない」と伝えているようで、どこか罪悪感があった。

いつしか私は、手作りのもの全般に対して、少し苦手意識を持つようになった。

手作りのものには、作った人の時間や思いが詰まっている。
だからこそ、雑に扱うことも、手放すこともできない。
手入れを怠ること、身につけないこと、飾らずしまい込むこと。
それは、作った人の思いを無駄にしてしまうようで、プレッシャーに感じていた。

ところがある日、パート先のスーパーのレジで、母と同じ年頃の女性に目が留まった。

お財布で小銭を数えているとき、ちりんと鳴る鈴の音に目をやると、かわいらしい手作りのマスコットがぶら下がっていた。

浴衣をリメイクしたブラウス、裂き織りで作られた手提げ、かぎ針のモチーフのスカーフ。

どれも、作った人の手の温もりが感じられるものだった。

素敵だな。

手作りのバッグや服を、大切そうに身につけている姿がとても素敵だった。きっと布や毛糸を選び、失敗したらほどいてやり直し、少しずつ形になっていったのだろう。

そこには、物だけではなく、作った人が過ごした時間まで一緒に込められているのだと思った。

母のセーターにも、きっと同じものが詰まっている。

そのセーターは「ただの服」には見えなくなった。

母が毛糸に触れた手。
色を選ぶ時間。
夢中になって編み続けた日々。

そのすべてが、この一着の中に静かに残っているような気がする。

今も母は、着物をほどいて服やバッグに仕立て直す手仕事を続けている。

「お母さん、これできたら私にちょうだいね」

そう言うと、母は昔と変わらない、嬉しそうな顔をする。


いつか母は、この世を旅立っていく。

けれど、母が生きた時間までは消えない。

母の手が触れ、母の目が見つめ、母が夢中になって過ごした時間は、このセーターの中にそっと編み込まれたまま残っていくのだと思う。

だから今年の冬は、そのセーターを着て母に会いに行きたい。

何かを伝えるためではない。

ただ、母が元気なうちに、そのセーターを着た私を見せたいのだ。



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