かき集められた静けさの調べ
いつもはカメラの話題が中心ですが、今回は写真のお話です。
私は、写真を撮りたいというより、人知れず消えていった古いファミリーカメラに出会いたいという気持でカメラに接している気がします。
「こんなカメラがあったのか」
「こんな工夫された機構があるのか」
「調子が悪ければ直してみよう」
「操作感はこんな感じか」などと言いながら、
最後に「こんな写真が撮れるのか」と納得する。
というサイクルを繰り返しています。
こんな感じなので、カメラ1台にフィルム1本。毎回、異なるカメラで撮影することになります。ある方から、「まるで、それぞれのカメラに元々フィルムが1本内蔵されていて、カメラとフィルムが一体化しているように感じる」と言われたことがあります。
Range Finderサイトを通して知り合ったJazzyさんから、カメラや写真についての原稿を複数寄せていただき、その都度サイトに掲載させていただいていました。今回は、そのうちのひとつを紹介します。
かき集められた静けさの調べ(Jazzy)
ビュッカー氏の写真には、使うカメラが何であれ一種の統一感というか、美学のようなものがある。その美学にまったくブレがないために、全体として非常に統一感のある作品群になっている。で、その美学とは何かと考えたら「静けさ」ではないか、と推察する。映像による「静寂」の表現、これが一種の主題なのではあるまいか。
そう推察する理由はいくつかある。まず人間が出てこない。街角のあるシーンが時にクローズアップされ、時に突き放されたように切り取られている。人間が出てこないといっても、いわゆる風景写真のように自然の美をことさらに主題にしているわけでもない。むしろ人間の痕跡がそこかしこに感じられる写真が多い。人間が「痕跡」としてのみ表現されているがゆえに、そこに「息遣い」としての「静寂」が感じられるのではないか。
また、WEB上に陳列された作品群は題名も付けられず(ただ「作例」と呼ばれている)、描写に関するウンチクもなく、整然と並べられている。「題名」から自由になった作品群は特定の意味付けから自由に存在する。つまり「題名=固有の意味」という「雑音」からの逃亡を企てているのであり、それはやはり「静寂」という主題へと向かっているのではあるまいか。
ではなぜ「静寂」が主題になるかといえば、今や我々の日常に「静寂」がほとんど存在する余地がないからである。日常に入り込むことを禁じられた「静寂」を取り戻すこと、それこそがビュッカー氏の写真表現の主題なのではないか。
ビュッカー氏によって切り取られた写真たちは、実のところ日常からかき集められた「静寂」ではなかろうか。だからこそあの題名の無い写真群は、「静けさの響き」とも言うべき調べを奏でているのである。
Jazzy
https://fukucame.fan.coocan.jp/kodawari/k4.htm
私が無意識に撮影している写真ですが、Jazzyさんの考察により、自身を改めて認識(メタ認知)することができました。確かに、人物や自然の風景を撮ることはほぼなく、人の気配を感じるような、路上に人知れず存在する正体不明の物体や建造物などを撮っています。撮ってしまっているというのが正しいかもしれません。
そこで、以下、そんな作例をピックアップしてみました。
<路上物体>

















<壁物体>









アフォーダンス
そういえば、随分前ですが、次の書籍をよく読んでいました。日常(路上)には正体不明なもの、気になるものが日常に存在することを教えてくれた本です。
なぜ気になるのか、自分の感覚だと言ってしまえばそれまでですが、正体不明の物体が私にアフォードしているのかもしれません。
赤瀬川原平「新正体不明」(東京書籍)
今回は、写真について書いてみました。
noteには魅力的な写真を撮られている方、カメラや写真との向き合い方を紹介いただいている方など、素敵なアフォードをしてくださっています。大変ありがたい環境がこの場にあることに感謝いたします。
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