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私のまがい物の文学


私の書く文章・小説は紛い物である。

と、いうのも、私は様々な作家さんの影響下にあって、彼らの思想や文体に引き摺られて、自分のオリジナリティなどは一切ない。
好きな小説家、例えば津原泰水であったり、川端康成、車谷長吉など、沢山の作家が自分の中へと蓄積されていって、意識しながら、或いは知らず識らずの内に、その手本となるべき文章を書こう、真似ようと手が動いている。

然し、書き続けている内に、段々と自分が狙うべき文章というものが、少しだけ分かり始めていて、それはつい最近、パンとイカヅチに打たれたように確信へと至ったのだが、人間は生きているので、それもまた変わるかもしれない。また素敵な文章家に出会った。

然し、文章家のそのほとんどは紛い物であって、その様々にある作品において、影響を受けた何れかの作家の文体が奥底に息を潜めている。例えば大江健三郎に似ているだとか、村上春樹に似ているだとか、太宰治に似ているだとか、安部公房に似ているだとか、泉鏡花に似ているだとか、永井荷風に似ているだとか、中上健次に似ているだとか、ドストエフスキーに似ているだとか、はたまた、エミリー・ディキンソンに似ているだとか……。

特に、文章に独特なものを持つ作家に似ることはより多いことだろう。文章とは生理現象にも似ていて、実際、幾ら真似ようとも出来ない文章もあるし、自然と近づいていく文章もある。それはある種、思考を指先で折りたたみ梱包することに他ならないからだ。
然し、それらも全て、読むことから始まるのであって、読まないことには何も産まれ得ない。
人間は、見てきたものしか書くことは出来ないからだ。
空想や幻想も、記憶の中の何れかで見てきたものの延長であって、
学んできたものの蓄積である。どんなものですら、見たことも聞いたこともないものは、無からは産まれない。だからこそ本を読まなければならない。
本を読むことは、他人の見てきたものを幻視させてもらうことに他ならない。
それは誰かの記憶であって、テレビや映画、絵画、詩、工芸品、舞踏、建築、写真、全て誰かが見てきたものをこの世に顕現したものであり、本にはその数十億、数百億の数多の記憶が眠っている。
それを読むことで、他人の記憶すらにも懐かしさを覚える。
デジャ・ヴュとは記憶の共有に他ならない。

読書を増やしていくと、たまさかに発見がある。
戦慄を覚えるような興奮、感動を覚えるような悦びを感じることがある。

私の文章は紛い物の文章であり、誰かが築いてきた楼閣を再現しようと試みる、無為で無惨なものだ。結局はツギハギである。
然し、人は見てきたものしか、書くことは出来ない。
だから、思いもかけず、誰もが見たことのない文章が、私の記憶の中からこぼれ落ちるかもしれない。
けれど、創作物は山とあって、その自分だけのものを偶然に拾い上げることも、読書をしなければ始まらない。そうでなければ、それが新しいのか、古ぼけているのか、定かではないのだから。

千億もの魂の中の一つ、それに価値があるのか、私には未だ判らないが……。

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