詩と小説の狭間のようなもの 素潜り旬 『自画像と緑の光線、アワー・ミュージック』
ようやく、素潜り旬さんの第2詩集の『自画像と緑の光線、アワー・ミュージック』を購入する。
蔦屋書店だ。なので、詩集が多く置いてある。早速手に取り、購入し、読む。詩を読む時、私は音読する。そうしないと、頭に入らないのだ。
まえがきとあとがきが補助線になっている。
今作は、映画史であると共に、映画詩でもあるのだという。そして、さらには、詩史でもあると同時に、それが故に、私史でもあるのだと。映画詩と私詩を織り交ぜた、長編詩なのだという。映画史と私史の混合。
つまりは心臓、と、いうことだ。つまりは、DNAの螺旋構造、と、いうことだ。
私の愛する『ベルセルク』、その第83話、封印された『深淵の神②』、それを、ベルセルクの同人誌、『ベルセルク フリークス』において、天才的なデザインだと語っていた、庄内えりこ氏。
心臓型の神、そこから連なる血管で紡がれるそのデザインは、有限である心臓、無限に続くDNAを融合させた、稀有なデザインなのだという。
それならば、映画史という永遠にも近しいものと、私史という有限とを融合させる、と、いう、ことは、これもまた、神の御業、と、いうことなのだろうか。
何れにせよ、映画が好き、が溢れている詩集だ。タイトルは、ジャン=リュック・ゴダールの『アワーミュージック』、エリック・ロメールの『緑の光線』から拝借されているのだという。つまりは、フランスの監督たち、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちだ。この男は、詩でも、ヌーヴェルヴァーグを体現しようとしているのかもしれない。詩句に選択された言葉たちは、どこか異国の匂いもする。
一読して、意味不明の箇所、愛すべき箇所、混濁、混線しているのがわかる。故に私詩なのだろう。ただ、映画好きが匂うように漂ってくる。
然し、映画、よりも、結句、どうして自分が詩を選んでいるのか、詩へと突き進もうとするのか、それらが詩人の精神の七転八倒に思えてきて、それが、だんだんと、作品世界を構成していく。
装丁に収められたマリリン・モンローのポスター、いや、これは、マリリン・モンローのカレンダーか、これはどこかの部屋だ。この部屋が、詩人の部屋なのかどうかわからないが、カーテン越しに見える白飛びした窓外の景色は、日本の、昭和と平成の家並みを思わせる。
素潜り旬は冷静と平成の間に生まれて、熱気球が目の前に落ちて、爆発とともに現れたそうだ。そう、詩句に綴られている。
どこまでもドン・キホーテ的であり、それの詩句自体が幻覚症状の拡大のようにも思えるけれども、然し、そこに差し込まれる日常と記憶との断片は、これらの大仰なものとは対を成すように静かだ。狂騒の中の静寂、エクストラヴァガンザの最中の窓外の雨音のような、そのような、芯的なもの、それが、この詩人の場合は、どこまでも静かなような気がするのだ。
詩人は、娘が緑の光線が見たいと言い出すのを待ちかねているそうだ。そして、これから、大人に成るまでずっと、緑の光線について語り続けるのだそうだ。
詩人が詩を語り続けることで、詩人の娘は詩人になるのだろうか、或いは、詩が匂い立つ姫君になるのであろうか。
読んでいて、日本的なものと、外国的なものとが行き来する。狂騒と静寂が繰り返される、それは、人生のそのものの流れのようでもあり、『祭りの準備』、祭り、祭りの後、と、いう、祝祭の繰り返しにも思える。
映画も、詩も、生活も、祝祭への繰り返しである。それは、詩人がひと目見て心奪われて、爾来、延々と擦り切れるまでモニターで見たという緑の光線、日没のその瞬間にだけ現れるそれを見るまでの行為と、どこか重なるように思える。
つまりは、私小説であって、詩小説でもあるということだろうか。
