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男と女、幻想の曲芸 中河与一 『鏡に這入る女』

中河与一の『鏡に這入はいる女』を購入して読んだ。

中河与一は幻想小説などを書いていて、 YASUNARIや横光利一と共に新感覚派の一人として評価された。

代表作は『天の夕顔』。

私は中河与一さんの本はあんまり読んでいないのだけれども、この本は以前から気になっていたので購入した。

今作、元々の題名は『ゴルフ』という。なぜゴルフ、なのか。それは、ゴルフシーンが冒頭に出てくるからだ。いや、まぁ、それだけではないと思うのだが。40ページに満たない小品で、登場人物は三名だけだ。曲芸師の夫婦と、彼らが乗る飛行機の機関士。

夫婦は日本人の夫である久里くりと妻のアニエス、機関士の名前は言及されない。久里は日本人だがアメリカで生まれているので日本を識らない。1930年代が舞台だが、そのせいか、この小説からは日本的な匂いはほとんどしない。夫が日本人である意味もない。

舞台はイタリアだ。だからか、冒頭のゴルフといい、彼らが飛行機に乗って見せる曲芸といい、どこか牧歌的で、外国の匂い、外国の海の匂いが漂う。湿っぽさがないのだ。宛ら、『紅の豚』や、『風立ちぬ』におけるカプローニの親族が乗った巨大なカプロニ.Ca.90などのシーンを思い出す。

彼らは、万国博覧会、まぁ、万博、で、曲芸を見せるためにやってくるのだ。カラカラの大浴場の模型であったり、ムッソリーニの演説、サンゴバン社のガラス建築、マルコ・ポーロや、ドメニコ・ティントレットの家の模型……、などなど、当時の最先端、グローバルな世界の集積を描くが、何か、時代背景がよくわからない。私も少し調べたのだが、この作品中で書かれる全てが揃った万博は存在しないのではないか。これもまた、夢の万博なのではないかしら?それがまた、作品の幻想風味を引き立てている。

主人公の久里はイオニア海を見下ろしながら煙草をふかす。汎ゆる道具立てが日本文学の湿り気を拒絶している。

で、そんな久里、と、奥様のアニエス、こう、夫婦仲が緊張状態だ。冷戦状態だ。理由は、久里がヤリチン、いや、ヤリチンは言いすぎだが、浮気をして、アニエスを傷つけているのだ。アニエスは、ゴルフのプレイ中も、二人で楽屋裏にいるときも、言葉に棘を含めて夫を柔らかく詰る。然し、アニエスは夫を愛している。なのに久里は虚無的で、二人の会話は平行線だ。

アニエスは鏡好きの女で、自分の顔をいつも鏡で見続けている。その姿に、久里はいつも呆れている。鏡は三面鏡だ。その三面鏡の中を自分をいつまでも見つめ続けている。彼女は、鏡に映る様々な男たち、最後には久里とたくさん話した。それは、本当には自分自身と話している時間だった。

物語は3部に分かれる。三幕構成だが、第一部ゴルフ、第二部結婚と離婚についての問答、第三部曲芸、的な感じだ。

第一部は新感覚派の書く夫婦口喧嘩・ミーツ・ゴルフという塩梅で、夢の中の喧嘩のようだ。この第一部で二人の置かれた状況、関係性、そして、今作の空気感が描かれる。第一部は大変に美しい文章で幕を閉じる。これは第三部のラストと照応している。

久里が打った。小さい球は、一点、青い空に鮮やかな印象を引くと、人間の心を白雲の中へ連れて行った。

中河与一 『鏡に這入る女』


第二部では、この小説の書かれた当時、今とは異なる結婚観、男女観が語られる。久里は当時にしては進歩的で、女性も世に出て働ければ女性なりの仕事が増えるはずだと言っている。そして、女は男に頼るのはやめて独立すべきだ、と言っている。アニエスは彼に寄りかかっている。彼を愛しているのに、怒りをぶつけても、彼はそのような口ぶりで、人間の感情はどうしようもできないし、それがある種の法則であり、別れるのも吝かではない、的な物言いだ。このやりとりに機関士も巻き込まれる。たまったものではない。

で、そして、第三部はいよいよ曲芸だ。万国博覧会を、愛機ジプシー・モスで飛ぶのだ。

ジプシー・モスは、マイマイガのことを指すそうだ。ジプシーの蛾だろうか。二人は、パラシュートをつけて、この複葉機の上で、アクロバティックな曲芸をするのだ。一人がロープに掴まり、もう一人の手を持ち、空高くを舞うのである。

二人は空中で、互いを信頼して曲芸を始める。眼下には美しく青い海が広がっている。観客の喧騒が微かに耳朶に届く。そして、ある瞬間が訪れる。久里が、彼が力強く握っていたはずの彼女の足を手放し、ついで、彼女の手を離す。彼女はたちまち青い青い海、それは大きな鏡、その大きな鏡に落ち込んでいく。彼は私を殺そうとして離したのかー、それとも、疲れて離したのかー、わからないけれども、あんな美しい鏡に落ちていくのであれば、これほどに嬉しいことはないと。

そして、久里自身も、パラシュートを身に着けたまま、然し、それを開くこともなく、落下し始める。俺は、彼女を殺そうとして手を離したのか?わからない、とにかく俺は落ちている。パラシュートを切り離していく。もうすぐ、最後のパラシュートが開くための限界の高度になる。このまま俺は死んでも構わないんだ。そんな思いが彼の中を渦巻いていく。落下していく。


この小説は、ラウル・デュフィが書籍のために絵を描いている。中河与一が、デュフィに絵を描いてもらいたく、自作を訳させて、自分で手紙を認めたのだ。手紙はあるコネクションを通じて渡されたが、然し、返事が来るはずがなかった。デュフィはフランスの高名な巨匠画家である。
然し、ついにその返事ともいえる三枚の絵、この小説のためにデュフィが描いてくれた三枚の絵が彼のもとにやってくる。中河与一は感激に打ち震えた。
その絵で装丁された『ゴルフ』、または私が今回購入した『鏡に這入る女』の装丁は大変に格調高いものだ。
この本は、わずか500部だけしか作られなかったのだという。

で、このようなことは、昔、歌人の春日井建も、同じように、自著『未青年』の装丁に絵を使いたいと、ジャン・コクトーに手紙を書き、返事はなく、然し、無断でコクトーの絵を装丁に使う、という、ウルトラな、時代を感じさせる、そんなエピソード。

で、そんなデュフィ、来年展覧会があるのだという。どうせ東京だろ!と、思ったら東京だった。

『鏡に這入る女』は、川端康成や横光利一が好きな人、特に、YASUNARIの初期作の空気感が好きな人は好きだろう。私は好きである。







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