見出し画像

二十二時三十八分の電車

大学を出て最初に勤めた百貨店では、
売場ではなく法人外商部に配属された。

相手は官公庁が中心。
数字は動くのに、心は動かない。

自分の輪郭が少しずつ摩耗していく感覚だけが残り、入社から一年半で職を辞した。

駅のホームに立ち、電車を待ちながら、
人生はもう終わったのだと思った。

二十代に差しかかったばかりだったが、
その思いは奇妙なほど切実で、
疑う余地がなかった。

どん底のままではいられない。

手に職をと選んだのが税理士事務所だった。

数字は冷たいが、嘘をつかない。
そこに救われる気がした。

そこを辞めた理由については、
長らく核心を避けてきた。

口にすれば、
何かが壊れてしまう気がしていたのかもしれない。

表向きの理由は整っている。

個人事業の事務所である以上、
年金は国民年金に限られる。

将来を見据え、厚生年金のある企業で、
これまでの知識を活かしたい。

そう説明すれば、誰もが頷いた。


実際には、
身体より先に、
心が音を立てていた。

朝八時に出社し、
事務所を出るのは夜十時半。

二十二時三十八分の電車に乗る日々。

その時刻だけは、今も正確に思い出せる。

そこに刻まれていたのは、
疲労ではなく、
日々を削っているという実感だった。

覚えたのは金の流れと税の仕組み。

意味を咀嚼する暇もなく、
数字を追い続けた。

忙しさは、思考を奪うには十分だった。


所長との関係は悪くなかった。

入所して間もない頃、
周年行事で芸能人の顧客が現れ、
職員の家族も集った。

その後に求められた感想文に、
少しだけ感傷を忍ばせて書いた。

それを所長は面白がり、
私を見る目が少し変わった気がした。

私もまた、
その期待に応えようとしていたのだと思う。


事務所は営利の場だ。

既存顧客からの紹介をつなぎ、保険を売る。
数字がすべてを規定する。

所長の下には税理士資格のない職員が十数名。

そのうち半数以上が顧客を持ち、
現場を動かしていたのは、
番頭格の男だった。

営業の嗅覚が鋭く、
金の匂いのする方へ迷いなく舵を切る男。

入所当初の教育係はNさん。

税務の知識は誰より深いが、
営業は不得手だった。

その弱みを、
番頭格は容赦なく突いた。

言葉はときに刃物だった。

利益に結びつかない者は、静かに、
しかし確実に場から押し出される。

社歴の長い職員たちが、
吊るされるように去っていく光景を見た。

今ならわかる。
背後に所長の判断があったのだろう。

その役を担う番頭格にもまた、
言葉にできない軋みがあったはずだ。

その空気の中で、
私はNさんではなく番頭格の側へ寄っていった。

休日には彼の自宅の餅つきにも顔を出した。

家族を大切にする姿に、違和感はなかった。
むしろ、そこに居場所を求めていたのだと思う。

所長の黙認のもと、
Nさんの系統とは別に、
番頭格から仕事が降りてくるようになった。

一つ越えれば、次が来る。

難度は確実に上がっていく。

入所から二年も経たないうちに顧客を任されるようになった。

異例の早さだと聞いた。

先に入った二人の先輩は、
顧客を持てないまま補助に留まっていた。

評価の差は露骨だった。

走り続けなければ、
同じ場所に固定される。

その恐怖が、私の背を押した。

やがて一人は外へ出ていった。

いい子を演じ、歯を食いしばり、
与えられた役割に応え続けた。

どこかで弦は張り過ぎていた。

ある日、ふいに切れた。

これ以上は進めない。

身体ではなく、
内側のどこかが告げた。

番頭格の顔を見るのがつらくなった。

従順なふりをしながら反発を抱える自分が、
何より嫌だった。

数字の正しさに救われようとしたはずが、
いつしか自分の嘘に溺れていた。

退職の意思を伝えた。

勤続二年半。

用意された立派なのし袋。

中には現金が八十万円入っていた。

ありがたい額だった。

受け取ったときの気持ちは今も説明できない。

番頭格には青天の霹靂だったのだろう。

あれだけ手をかけたのに、
と目が言っていた。


私は知っていた。

あの場所で育てられたのは、
能力だけではない。

恐れと、選び取る覚悟だ。

誰に従うかではなく、
どこで自分を守るか。

その問いに、
私は遅れて答えただけだ。


電車は時間どおりにホームへ滑り込む。

二十二時三十八分。

扉が開く。

乗り込む人波の中で、
かつての自分を探してみる。

見つからない。

代わりに、
名もない静けさが胸にある。

終わったと思ったあの日の続きは、
途切れていなかった。

あの日からしか始まらなかったのだ。


いいなと思ったら応援しよう!

アラ還FP いただいたチップにて大好きなコーヒーを購入させていただきます!

この記事が参加している募集