未知を食む ―― 収集されない「経験」という贅沢
誕生日に「ホテルビュッフェに行きたい!」とねだる自分を観察していて、ふと気づいたことがある。
私は、高級な食材で胃を満たしたいわけでも、お気に入りの味をリピートしたいわけでもないらしい。私の食欲の正体は、もっと知的な、あるいは探究的な「未知なる食を体験したい」という渇望なのだ。
ホテルビュッフェという場所は、その欲望を満たすにはうってつけの実験場だ。
整然と並ぶ料理の数々。名前すら聞いたことのないスパイスの組み合わせや、自分では決して選ばない食材のアンサンブル。それらを一口ずつ、パズルのピースを埋めるように確かめていく。
「ああ、これはこういう構造の味なのか」と理解した瞬間、私の目的はほぼ達成される。
だからだろうか、一度「行ってみたいお店」に足を運び、その全貌を把握してしまうと、リピートしたいという気持ちは驚くほど速やかに消えてしまう。
「美味しかったからまた来よう」という定番の安心感よりも、「次はどんな未知が待っているだろう」という更新の刺激を、私のOSは常に求めている。
世の中には、お気に入りの店に通い詰め、馴染みの味を「自分のもの」にする所有欲に近い楽しみ方をする人もいる。
けれど私にとって、食は「所有」するものでも「定番」にするものでもない。
それは、一回性のイベントであり、通過儀礼のようなものだ。
思えば、不動産も子供も、そして食でさえも、私は何かを「自分の型」にハメて所有することに、あまり関心がないのかもしれない。
手元に残るのは、胃袋に収まった物質としての栄養ではなく、脳内に蓄積された「こういう世界(味)があった」という手応えだけ。
形に残らない、誰とも共有できない、一瞬で消えていく経験。
それこそが、何ものにも縛られない究極の自由であり、私にとっての「最高の誕生日プレゼント」なのだと思う。
次に狙うのは、まだ見ぬ未知のひと皿。
私の好奇心が「正解」を見つけてしまうまでの、短い、けれど濃密なランデブーを楽しみにしている。
