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見たいものしか見たくない時代の文芸コラム(第一回)

6月 国語本・作家の特集・福嶋×蓮實論争

 みなさんご機嫌いかがですか? 突風&大雨のディズニーシーを楽しんできた中沢です。ここの編集人をしています。
 今月から、文芸批評時評改めこのコラムを始めることにしました。かつて文芸批評時評というヘンテコな連載があったんですけど、気合を入れすぎたんです。10000字とか書いちゃったりして。その結果、ネタがなかったり仕事が忙しくなったりするたびに放置することが続いてしまった。時評って一回のクオリティーより記録が大事なのに。
 今回はそこを反省して、一行でも書ければいいじゃんというスタンスでやらせてもらいます。「何でもいいよ! 小説書けたら送ってみて!」みたいな。とにかく編集後記的な装いにするつもり。毎月ささやかな反省会をして、気になった文芸動向について独自の視点から鋭く斬り込んでいきたい。
 他の記事は1ヶ月ほど無料で誰もが読めるようにしてますが、このコラムは最初からクローズです。定期購読してくれてる読者しか読めません。といっても、もちろんSNSとかでさらしてもらっていいですよ。編集の人が鍵をかけたところでこんなこといってたとか。
 定期購読って毎月500円も払ってるわけじゃないですか? そういう形で応援してくれてる読者に、ささやかなギフトでもできないかなあという思いはずっとあったんです。500円には到底見合わないものだけど、面白がってくれるとうれしいです。
 そしてこのコラムだけは、読者の感想が書けるようにしています。文学+WEB版に関する要望や質問、苦言などあれば自由に書き込んでください。
 それでは、今月は、矢野新刊、作家の特集問題、福嶋×蓮實論争(未満?)の三本立てでお送りします。

ディズニーシーに咲くエキウム・ウィルドプレッティ

 矢野利裕『「国語」と出会いなおす』(フィルムアート社)が出た。おススメ。ぜひ買って読んでみてください。評論家や批評家ってけっこう似たようなことをやってしまいがちだけど、矢野は唯一無二な視点を持っていると思う。この本(国語本と呼ぼう)でもそれが発揮されている。「文学」を「国語」という観点からクリティカルに相対化できているし、論の筋道もスリリング。
 ただ「いいね」だけだと面白くないので、二点ほど指摘しておきたい。矢野の特筆すべき点は、大衆や通俗といったいかがわしい文脈をフォローしているところなんだよね。とくに最近の言論界隈の傾向は、道徳的なものや形式(原理論)的なものにこだわりがちなので、そのなかでも彼の唯一無二性が見られるわけです。
 ただ国語本では、矢野の言葉を用いると「公的領域」を獲得するという話が強い。国語本のテーマは、解釈の卓越性(文学)より共同性(国語)を再検討しようというものだと思う。その共同性は他者との公的・理性的繋がりであって、共感的な繋がりが切り落とされている。矢野のよさは、たとえばポップソングや物語が公共性と共感性──公的領域と私的領域──を併せ持っているところの危うさをジグザグする論述にあるんだけど、国語本では前者に偏っていると感じた次第。教室ではなく自室やライブで聴くポップソングも共同性に関わっているのに、今回はDJ・矢野利裕より教師・矢野利裕が際立っているんじゃないか。なのでとくに終盤はやや説教くさい。
 あと、柄谷行人ら「批評空間」勢にフォーカスしすぎているかなと感じた。「文学」サイドの批評家の代表として柄谷らが出てくるんだけど、一方で「国語」を出すなら、江藤淳や福田恆存にも言及があってよかったのではないか。しかし国語本はゼロ年代以降を射程にしているので、これはないものねだりの感想ではあるね。
 とにかく、国語本は文学史的にも貴重な仕事だと思っている。おそらく国語教育者からも文学関係者からも嫌味をいわれることは目に見えているが(どこかのレビューで発見した)、それが批評なのだ!

 『群像』乗代雄介の特集を、『文學界』金原ひとみの特集を組んでいる。乗代特集VS金原特集。前者は批評家(江南亜美子)との対談、乗代論、作家の新作、全単行本改題と充実している。いい仕事だと思う。ところで乗代ってもうキャリア十年なんだねえ。
 そして後者の金原特集は、元アイドルのタレントとの対談に、いろんな作家らの相談を金原が回答するというお悩み相談コーナー。文学と真正面から取り組まないことで、文学作品を普段読まない層を取り込もうとしているのはわかる。アイロニーでしょう。他のジャンルではなかなかない。釣り専門誌を買ってみたら、「魚の分布に影響を与える気候変動Q&A」とか「高齢化する釣り人のためのケア論」とかばっかりだったらどうか?
 文学の外に開いているように見える金原特集は、実は内輪受け・内輪ノリ感が強く、ガチ文学をやってる乗代特集が逆に新規ユーザーにフレンドリーだったりする。ここは難しいところ。文学って、他のジャンルと同様、職業化・専門化されるものだけど、誰もが参入できるアマチュアリズムも持ちあわせた奇妙なジャンルなのです。とくに批評はその最たるもので、だから小林秀雄は、批評家ってなんやねん、って問いを抱かざるをえなかった。
 いずれにせよ、そういう意味で金原特集も間違っているわけではない。ただ私が編集人なら逆にしますね。金原を超絶真面目に特集し、乗代はヤクザな特集にする。「ノリ散歩 武蔵野台地篇」なんていかがでしょう?

 32年ぶりに復刊した『新沖縄文学』(96号)がとてつもなく力が入っている。これは買いでしょう。沖縄文学はもちろんのこと、地方文学の現状と対策を知るうえでも必携では。属人的な考えはよくないかもだけど、絶望の中では、そこにたずさわる人たちの情熱こそが希望、という思いを強くするしかない。

 少し前になるが、『現代詩手帖』(4月号)の特集「モダニズム詩再考」も地味によかった。神戸などの地方にスポットが当てられている。モダニズムは普遍性・形式性を追求するゆえに、逆にローカルカラーの特殊性が垣間見えるような気がした。

 再び『群像』。福嶋亮大蓮實重彥を批判している。「戦後思想の盲点──蓮實重彥氏に応える」。経緯は、福嶋が「ハン・ガンのアンビギュイティ」を『群像』3月号に発表、それを蓮實が工藤庸子との「対話」(『群像』5月号)で批判し、今月号の福島の批判にいたるというもの。もう一回蓮實(あるいは別の誰か)からリアクションがあれば論争認定でしょう。全て『群像』で起こっていることなので、おそらく両者承知なのかな。
 話題は日本のハン・ガン受容をめぐる評価について。福嶋が文学作品に歴史や政治を導入する立場で、蓮實がそれに対して批判的な立場と推測される。凡庸な言葉で簡略化すれば、カルスタVSテクスト論になるだろうか。蓮實がどんな理由から福嶋論を批判したのか読み取りにくいので、暫定的な評価ですが。福嶋にしてみれば通りすがりにビンタを食らった感があるかもしれない。
 福嶋の苛立ちはわかる。被害者ナラティブが無批判に受容されている状況はその通りだし、また最近は戦後史といえば(戦後史に限らないが)江藤と加藤典洋しか言及されないという指摘もその通りだと思う。どんなに論が優れていても、この二人をチョイスした時点でセンスないなあと思ってしまうよね。
 ただ、ハン・ガンに限らず、アジア(もっぱら韓国だが)を含む戦後史については、文学研究の成果もそれなりにあるし、批評家には親韓派(?)の川村湊もいる。もちろん日本の加害性も議論されてきた。ちょうど『すばる』で特集が組まれた「ハン・ガン 死と再生の文学」で川村が論考を発表している。なので、加藤典洋に全て代表されるかのような議論には異議がなくはない。私が擁護する必要もないのだが。
 そういえば、2000年に参加した小森陽一ゼミは、通年で在日文学を読むという授業だった。当時流行していたカルスタが重宝されていた。どちらかというとテクスト分析が好きだったので(入学試験の口頭試問で「キミはカルスタをバカにしてないか?」と仏文の研究者から指摘された)、やや肩透かしだった記憶がある。
 論争って編集人もまあまあ大変なはず。調整とか、場合によっては忖度とかもしちゃうだろう。とはいえ、売れてて問題を起こさない作家や評論家を起用するよりも、論争もやむをえないとする編集人を私はこっそり尊敬しています。

 楽しんでもらえましたか? 今回は初回なので長めに書いてしまったけど、いつもこんなに書きません。ではまた次回!(あるか?)

▶中沢忠之。凡庸の会。文学+WEB版編集人。アジサイが好き。

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