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スパイ版『深夜特急』の読み所は帰国後の生き方―沢木耕太郎『天路の旅人』

一時期、中国のチベット自治区や四川省、青海省のチベット文化圏をよく訪ねました。標高四、五千メートルの荒涼とした高原風景や遊牧民の暮らし、チベット仏教文化にすっかりハマってしまったからです。

「チベットってどこ?」というかたも多いと思いますけど、現状では中国の西南地方となっています。

チベット関連の旅行記もたくさん読みました。そのなかで抜群に面白かったのが、西川一三さんの『秘境西域八年の潜行』です。日中戦争当時、密偵として内蒙古から青海省、チベットまで潜入し、終戦後もヒマラヤを中心に旅を続けたという壮大な旅行記です。文庫全3巻計1900ページのボリュームで、記述は細かく、これを書かずにはいられないという執念が伝わってきました。

沢木耕太郎さんが『天路の旅人』と題して西川さんに関するノンフィクションを書いたと知ったとき、私は「西川さんご本人があれだけ詳細な記録を残しているのに、何を今さら…」と思いました。

ただ、『秘境西域〜』は細かすぎて少し読みにくいんです。読み通して最も印象に残ったのは、にじみ出る西川さんの執念でした。ですから、『天路の旅人』がとっつきやすい読み物になっていれば読んでもいいかな、と上から目線で考え、しばらく放置していました。

で、ようやく読み終えました。結論からいうと、私は間違ってました。意外なほど心を動かされました。早く読んでおけばよかった…。

題材となった旅自体は当然同じなのですが、『天路の旅人』の西川さんはみずみずしい旅人です。読み始めて間もない頃、「あれ? こんなエピソードあったかな?」と思うことが何回もありました。でも、『秘境西域〜』をめくると、確かにほぼ同じ出来事が書かれてるんですよね。

このあたりは沢木さんの筆遣いのスゴさです。執念の記録というより、西川青年の成長物語のようです。密偵、物乞い、修行僧を主人公とする『深夜特急』といった感触になっています。

『天路の旅人』には、いくつか新事実が書かれています。

まず、中公文庫の3冊が完全版ではなかったということです。西川さん自身が「文庫版あとがき」で、「三年がかりで書きあげた三千二百枚の原稿の『完全出版』」だと書いているのに、実はかなり削られていたというのです。これには仰天しました。

次に、単純な誤植や本人の思い違いなどです。そうした事実をはっきりさせただけでも『天路の旅人』の意義はあると思います。

でも、私が感動したのは『天路の旅人』のそうした部分ではありません。さらにいえば、「旅」の描写でもありません。西川さんの帰国後の部分です。この本は、帰国後の西川さんについて書かれた序章と第1章、第15章、最終章、あとがきのためにあるといってもいいほどです。

西川さんは帰国後の生活について積極的には話さない様子、というか無関心な様子だったと沢木さんは書いています。ですから、一部を除いては、夫人や娘さんが語った内容のようです。

西川さんはそもそも密偵の任務をまっとうしたわけではありません。途中からは旅自体が目的になっていましたし、帰国後も外務省には相手にされませんでした。

『秘境西域〜』を書き上げたとはいえ、チベットやインドに興味のない人、旅に興味のない人、要するに世の大半の人にとっては、大して意味のない記録でしょう。何かを成し遂げたというような説明しやすい人物ではありません。

たまに訪ねてくる記者や読者がいても、今で言う承認欲求のようなものにもとらわれず、元日以外ひたすら淡々と働き、世間的にはほぼ無名のまま亡くなりました。

ご本人が実際に何をどう考えていたのかは完全にはわかりません。だからこそ想像の余地が生まれて、人の生き方というものについて思わず考えさせられます。

大きな任務を達成して称賛されることがなくても、こんなに豊かな体験をして、地に足のついた生活を送った人がいた…。成功とは無縁の私のような一般人にとって、これは一種の救いにもなり、励みにもなる物語なんですよね。いえ、もちろん西川さんのことは偉大だと思ってますし、自分とはとても比べられないのですけれど。

沢木さんがいったん取材を中断し、西川さんの最晩年や死後のことも書けたからこそ、深い読み物になったのだと思います。西川さんの生原稿を入手した件といい、沢木さんは本当に「持っている」んだなあと感嘆しました。

もしこれから読もうという人がいるのであれば、この本に関しては、「あとがき」を先に読まないことをおすすめします。沢木さんが文芸誌に『天路の旅人』を発表した後、単行本化までの間に判明した事実が「あとがき」に書かれているからです。これは本編中のとある問題に関わるエピソードで、いかにも西川さんらしいと思わせる内容でした。

沢木さんも書いている通り、帰国後の西川さんについては、江本嘉伸さんの『西蔵漂泊 チベットに潜入した十人の日本人』でも取り上げられています。こちらの西川さんは取材当時71歳。まだ元気にお話をされていた様子で、日本社会への批判も飛び出しています。

でも、やはり西川さんの著書を読んで、あらためてこの偉大な旅人に敬意を表したいですね。もちろん『天路の旅人』に登場しないエピソードも多数あります。最も私の印象に残っていたチベット高原のあるエピソードも割愛されてました。


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