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選択的夫婦別姓の議論の問題点は?メリット・デメリット以前の「議論そのものに対する違和感」


「選択的夫婦別姓の議論そのものへの違和感」についてまとめてみた

この記事では、「選択的夫婦別姓」について取り上げる。しかし、よくあるような「選択的夫婦別姓のメリット・デメリット」みたいな話をするつもりはない。「選択的夫婦別姓」に関してはそもそも「議論の前提がおかしい」みたいに感じているので、その辺りについて言語化出来たらいいなと思っている。

ちなみに、僕は別に結婚する予定など特にないのだが、それでも「選択的夫婦別姓」には大賛成だ。「早くやれよ!」と思っているぐらいである。この制度が実現しない理由が分からない。この点だけを以って「日本ってヤバい国だな」と感じるほどである。

しかしこの記事では、そういう話には触れない。そうではなく、「こういう議論であるべきでは?」みたいな話が出来たらいいなと思う。

「『選択肢を増やす』かつ『一定の合理性を持つ』もの」に関しては、「制約を課す側」がその理由を明確に主張すべき

まず僕は、「選択的夫婦別姓に関しては、反対派がその論拠を明確に主張すべき」という意見を持っている。世の中的にはたぶん、「選択的夫婦別姓の賛成派の主張を広めて法案成立を目指す」みたいな流れになっている気がするのだが、個人的にはそうではなく、「反対派が反対の理由を明確に示せなかったら、選択的夫婦別姓は採用されるべき」みたいに考えているというわけだ。まずはこの辺りの理屈から説明していこうと思う。

選択的夫婦別姓はそもそもだが、「他者に何かを制約するもの」ではない。「選択的」と頭についているように、「そうしたい人はして下さい、したくない人はしなくていいです」というのが大前提である。つまり、「人々の選択肢を増やすもの」というわけだ。

そして僕は、「『人々の選択肢を増やすもの』は基本的に認められるべき」という感覚を持っている。例外もあるが、大体の場合「選択肢が少ない」より「選択肢が多い」方が「より良い」と判断されることが多いと思う。「選択肢が少ないこと」に価値を見出す人がいてももちろん全然いいが(僕も、状況によってはそういう判断をすることがある)、ただ社会全体としては、「選択肢が多い方がいいよね」という判断基準が採用されて当然だろう。

だから、「人々の選択肢を増やすもの」に対しては、「それに反対する人」、つまり「人々に制約を課す側の人」がその理由を明確に示す必要がある、というのが僕の大前提である。選択的夫婦別姓に関しても、賛成派は基本的に「人々の選択肢を増やす」主張をしているわけだから、この場合も「人々に制約を課す側の人」、つまり反対派が「制約を課す理由」を明示すべきだと考えているのだ。

もちろん、なんでもかんでもというわけではない。例えばだが、「電車は公共性の高い乗り物なのだから、全国民の運賃をタダにしろ」という主張があるとしよう。これも「人々の選択肢を増やすもの」ではある。しかしやはりこの主張に対しては、「いや、それは無理でしょ」と感じる人の方が多いと思う。つまり「人々の選択肢を増やすもの」の中にも「当然否定されるべきもの」があるというわけだ。

というわけで僕はここに、「一定の合理性」という基準を加えたいと思う。つまり「『一定の合理性を持つ、人々の選択肢を増やすもの』は基本的に認められるべきで、そこに制約を課すのであれば、反対派が明確にその理由を主張すべき」というのが私の基本的な発想なのである。

じゃあ「一定の合理性」とは何だろうか? これは明確に定義出来るようなものではないし、状況によっても判断基準は異なると思う。というわけで、「選択的夫婦別姓には『一定の合理性』があるのか?」の話をしようと思うが、僕は「ある」と考えている。そこにも色んな判断があり得るだろうが、例えば「日本以外の多くの国が同様の仕組みを備えている」みたいな要素を挙げてもいいかもしれない。「同様の制度を既に社会実装している国がある」という事実は、「一定の合理性」と捉えてもいいんじゃないかという判断である。

さて、こういうことを書くと、「外国がやっているからって日本も追随しなきゃいけないのか」みたいな反論を抱く人が出てきそうだが、よく読んでほしい。僕はそんなことまったく書いてはいない。僕の主張は、「『一定の合理性を持つ、人々の選択肢を増やすもの』は基本的に認められるべきで、そこに制約を課すのであれば、反対派が明確にその理由を主張すべき」であり、そしてその「一定の合理性」のいち要素として「外国で既に社会実装されている」という例を挙げたに過ぎない。「一定の合理性」の判断は別に何でもいいし、「外国で既に社会実装されている」という点は議論の本質ではないというわけだ。この辺り、誤解しないでいただけるとありがたい。

「それが『伝統』かどうか」をは一体誰が決めるのか?

さて、ここまでで僕は「選択的夫婦別姓に関しては、反対派が『反対の理由』を明確に示すべきである」という主張をしてきた。というわけで次は、「反対派が主張する『反対の理由』」について考えてみることにしよう。

反対派は色んな反論をしていると思うのだが、まず「通称の使用で対応できる」という主張は僕にはマジで意味が分からない。僕の理屈を採用するなら、「通称の使用」より「夫婦別姓」の方がはっきりと「選択肢が増える」からだ。僕はここまで書いてきた通り、「『人々の選択肢を増やすもの』は基本的に認められるべき」という考えを持っているので、「通称を使用すれば概ね大丈夫でしょ?」みたいな主張にはまったく合理性が感じられない。「夫婦別姓」と比べれば明らかに選択肢が少ない(対応できる状況が制約される)「通称の使用」を採用すべき理由などないと僕は思う。

となれば、反対派の主張はざっくりと「『日本の伝統』にそぐわない」みたいな話に集約されるのではないかと僕は考えている(ただし、選択的夫婦別姓に関する議論をちゃんと追っているわけではないので、「他にも反対の理由がある」ということであれば教えてほしい)。

で、この「伝統」というのが僕にはよく分からない。「伝統」に対する違和感は色々とあるのだが、そもそも「それが『伝統』であるかどうかを、一体誰が決めるのか?」という点に最も納得がいっていない気がする。僕には「そんなの、人それぞれの受け取り方次第だろ」としか思えないのだ。

さて、僕は別に「『伝統』をちゃんと定義しろ」みたいに主張したいわけではない。例えばだが、個人が「これは『日本の伝統』だなぁ」みたいな感想を何に対して抱いたとても、それは全然自由だと思う。それが、他人から見たら違和感を抱かせるような感想だとしても、「その人がそれを『伝統』だと感じたのならそれでいい」と僕は考えている。

しかしそのことと、「『伝統である』という理由で他者の行動・価値観を制約すること」はまったく異なる次元の話だろう。これは別に「伝統」の話に限らないが、どんな場合でも「あなたが何をどう感じようと自由だが、それを私に押し付けるなら論拠を示してくれ」と感じるのは自然なことだと思う。

例えば、「未成年だけどお酒を飲みたい」という主張に対しては、「それは法律で禁じられている」という論拠を示すことが出来る。あるいは、高校生が「髪を染めたい」と思っても、それが校則で禁止されているなら従うしかないだろう。このように、「他人の価値観を制約する」のであれば、「納得できる論拠」を示すことが必要だと思っている。

そしてその「納得できる論拠」に「伝統」は含まれないというのが僕の考えだ。いやもちろん、関係者全員が「『伝統』は『納得できる論拠』である」と認めているのであれば問題ない。「祭り」などはその一例だろう。例えば「なまはげ」。昔は恐らくだが、「なまはげ役は、住人の許可なく家に入って子どもを脅かすことが許されている」みたいな祭りだったのだと思う。関係者が皆その「伝統」を許容しているのなら何の問題ない。しかしさすがに近年はそうもいかず、「住民に許可を取ってから家に入る」みたいに変わったという情報を見聞きした記憶がある。つまり、従来の「伝統」が「納得できる論拠」として認められなくなったということだろう。

そしてこの点からも理解できるように、「伝統」は「関係者の価値観によって変化するもの」と捉えるべきだと僕は思う。だから、先に問うた「『伝統』は一体誰が決めるのか?」に対する僕なりの答えは、「その『伝統』に関わる関係者全員」ということになる。そして「関係者全員がその『伝統』を許容している」という状況が成り立っている限り、その「伝統」は「納得できる論拠」として認め得る、というわけだ。

この話を選択的夫婦別姓に当てはめると、戸籍の問題は日本国民全員に関係するのだから、「日本国民全員が賛同している場合のみ、『伝統』が『納得できる論拠』として機能する」ということになる。そして「日本国民全員が賛同していないこと」は明らかなのだから、反対派が主張する「『伝統』だから」という理屈は成立しない、と僕は考えているというわけだ。

ちなみに、ネットで調べると、「夫婦同姓は130年前に明治政府が西洋の影響で取り入れたもので、150年前には『妻は結婚後も以前の姓を名乗るべき』と公式に通知されていた」みたいに書かれていた。「130年の歴史」を「伝統」と捉えるかどうかはそれぞれの価値観次第だが、そもそも西洋の影響で取り入れたというなら、今また変化している西洋の影響を受け変更したって別に問題ないはずだ。本当に、こういう理屈がどうして伝わらないのかはとても謎である。

そもそも「伝統」を変えてはいけないのか?

さて、「伝統」に対するもう1つの違和感は、「『伝統』を変えてはいけないのか?」である。

例えば「切腹」は「日本の伝統」と言っていいんじゃないかと思うが、既に廃れているし、「『切腹』は『日本の伝統』なんだから復活させよう」なんて主張する人もまずいないはずだ。あるいは「年賀状」。こちらは今も文化として残ってはいるが、かなり廃れてきていると言えるだろう。しかしだからといって、「年賀状」に関わる人(郵便局員など)以外で、「『年賀状』は『日本の伝統』なんだから失われてはいけないし、だから保護すべきだ」なんて主張する人もまずいないと思う。

ここから判断できることは、「『伝統』だから残すべき」と主張している人たちには、「残すべき伝統」と「残す必要のない伝統」の区別が存在する、ということだろう。僕はそもそも「『伝統』だから残すべき」なんて風には思っていないので、「残すべき伝統/残す必要のない伝統」の区別も特にないが、「夫婦同姓は『日本の伝統』なんだから残すべき」と主張している人は、その区別をしているはずである。

であれば、「『伝統』だから残すべき」と主張している人は、「夫婦同姓は『残すべき伝統』である」という判断の論拠を示さなければならないと僕は思っている。彼らがもし、「『伝統』であれば”すべて”残すべき」と考えているのであればまだ納得する余地はあるが、そんなはずがないだろう(まあそういう人も一部にはいるかもしれないが)。だから「残すべき伝統/残す必要のない伝統」をどのように区別しているのかの判断を明確に示さなければ辻褄が合わないと僕には感じられる。

さて、もちろん僕だって、反対派の言いたいことをそれなりには理解しているつもりだ。「通称使用」だとか「日本の伝統」だとかいうのは別に彼らの主張の本質ではなく、「もっと嫌だなと感じていること」があるのだと思う。しかしそれはあまり賛同されないし、主張としても弱いことが分かっているから、それで、最も核となるような話を表に出さずに、「通称使用」「日本の伝統」みたいな主張をしているのだろう。だから、彼らの言っていることにこうやって真正面から理屈を突きつけたって、意味がないことぐらいは分かっている。分かってはいるが、しかしやはり、この選択的夫婦別姓の議論に関しては、あまりにも反対派の議論の仕方が理不尽に感じられるので、無駄だと分かっていてもこうやって理屈を紡ぐしかないような気もしているというわけだ。

最後に

日本は今、「異次元の少子化対策」みたいな名前を付けてどうにか出生率を上げようとしているはずだが、僕は「選択的夫婦別姓を法案化する」というのはかなり良い「少子化対策」だと考えている。何故なら、そうすることによって「政府が本気で少子化対策に本腰を入れた」ということが、全国民にはっきりと伝わるからだ。逆に言えば、「選択的夫婦別姓すら実現できない政府に、有効な少子化対策なんか出来るわけないだろ」みたいな気分が漂っていることも否定は出来ないと思う。

さらに言えば、「長年俎上に載りながらもまったく議論が進んでこなかった」という事実は、「少子化対策に政府が本腰を入れた」というメッセージを発信する上でむしろプラスになるとさえ考えている。だから、国が本気で出生率を上げたいのなら、まず選択的夫婦別姓を認めるべきだろう。そうすれば、「選択的夫婦別姓の法案を成立させた政府なら何かやってくれるかもしれない」という期待感を抱かせることにも繋がるはずだ。

選択的夫婦別姓というのは、「戸籍制度」云々の話だけではなく、このように「少子化対策の機運を盛り上げる起爆剤」としても機能するはずで、だから、政治家にはそういうものとして認識してもらえたらいいのになとも思っている。

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