【映画】「エディントンへようこそ」感想・レビュー・解説
いやしかしホント、これは凄まじい物語だったなぁ。僕はフィクションでもリアル寄りの物語が好きなのだけど、本作は、割とリアルな感じで展開しつつ、最終的にはちょっととんでもない狂気へと連れて行かれてしまう。その感じはホントに良かった。実話を基にしているわけじゃないと思うけど、「コロナ禍を経た我々」にとっては「地球上のどこかで実際に起こっていた出来事」だと受け取っても別にいいんじゃないかという気がする。
さてそれで、全然違う話をするが、本作を観ながら、「50年後、100年後に、本作『エディントンへようこそ』はどんな風に観られるんだろう?」と感じた。そしてその感覚はそのまま、僕が夏目漱石や川端康成などの古典作品を読むのが不得意な理由とも重なる。
本作『エディントンへようこそ』は、「誰もが経験したコロナ禍」という共通体験があってこそリアルに感じられる気がする。そして、それを実際に経験しなかった人には、「何がどうしてこうなった?」みたいな感じになるんじゃないかと思う。コロナ禍は、あらゆる意味で狂気的だったなと思うが、しかしその狂気を全世界の人間が共通に経験せざるを得なかった。しかも、「誰もが同じような経験をしている」ということを誰もが理解できる状況にあったのだ。SNSなどなかった時代にはここまでの共感は生まれなかった気もするので、ある意味で「有史以来、初めて人類が経験した状況」と言っていいのではないかと思う。
そしてそれは、同時代を経験しなかった者が後から座学で学んでもなかなか感覚的に辿り着けないだろうなと思う。そして同じようなことを、古典作品を読む時に感じる(あるいは、映画『七人の侍』を観た時にも感じた)。当時の社会情勢や人々の価値観などを後天的に学ぶことは可能だが、やはり実感するのは難しい。そしてそういう状況では、作品で描かれていることを作者が意図した通りに受け取ることは難しくなるよな、と思う。
さて、この話は本質的には本作には対して関係はないのだが、多少関わりを見出すことは可能だ。
本作では、BKM(Black Lives Matter)運動が加速するきっかけとなった「ジョージ・フロイド事件」も描かれる。2020年5月に実際に起こった事件だ(本作の舞台は2020年の5月である)。事件自体はミネソタ州で起こったのだが、本作の舞台であるニューメキシコ州でもBLM運動が広まる。中心となるのは、若い世代の白人だ。彼らは「自分たちは特権を持つ白人だ」と自覚し、そしてその事実を恥じているようだ。詳しくは理解出来なかったが、彼らが住むセビーセ郡はプエブロという土地と接しているようで、そしてどうやらこのプエブロは先住民が住む(住んでいた?)土地らしいのだ。だから彼ら白人は「白人が奪った土地に住んでいる」みたいな点についても恥じる意識を持っているようだ。
さてそれで、本作の主人公は保安官のジョーで、彼の部下にマイケルという黒人がいる。サラという白人の少女(後に分かるが18歳らしい)とちょっと親しくなったようだが、付き合っているわけではない(あるいは別れたのか?)ようだ。で、治安を守る側にいるマイケルは、市長がロックダウンを宣言したエディントン市で行われているBLMのデモを鎮圧するのだが、そのデモの中にサラがいて、マイケルはさらにこんな風に言われる。
【あなたはこっち側に来るべき。これは私の闘いじゃない。私は偽善者よ。それでもこの場に立って闘ってる。】
これは要するに、「BLM運動は黒人こそ声を上げるべき」という主張だろう。で、僕は「私は偽善者よ」という言葉が印象的だった。彼女も、「かつて白人が黒人を奴隷として使役していた」という事実を座学で学んだだけだろうし、黒人差別の歴史だって同じだろう。だから「自分には黒人の気持ちは分からない」と言っているわけだ。しかし、同じことはマイケルにだって言えるんじゃないかと思う。差別が無くなったわけではもちろんないが、「すべての黒人が等しく差別されている」という状況ではないだろうし、保安官としてジョーから昇進も示唆されているマイケルは、もしかしたら「自分だって別に、差別の歴史が分かってるわけじゃないんだけどなぁ」なんて感じかもしれない。
僕は当然、BLM運動は良いことだと思うし、そこに白人が率先して関わっている状況も素晴らしいと思う。しかしやはり、「その時代、その状況を経験していない人には分からないことなんて山ほどあるよな」と思うし、そういう部分を無視しちゃいけないよね、とも思う。
そんなわけで、僕は当然「多様性」が重視されるべきだと思っているのだが、しかし本作を観て改めて、「多様性は分断を生むよな」と感じた。正直、これは避けがたいだろうなという感じがする。
本作では、先述したBLM運動も分断を加速させる要素として出てくるが、発端は「コロナウイルス」である。舞台となるエディントン市を含むニューメキシコ州では、州の命令で「マスク着用」が義務化された。そしてさらに、エディントン市の市長であるテッドはロックダウンを決めた。「必要最低限の外出以外認めない」みたいな感じだろう。
そんな中、保安官のジョーは「自分はマスクを着けない」と言い張っている。表向きは「喘息の症状があり、マスクをすると呼吸がしにくい」ということのようだ。もちろん、それだけが理由なら尊重されるべきだが、実はそうではなさそうだ。彼は様々な場面で、「コロナは問題だが、エディントンにコロナはない」「存在しないウイルスのせいで家族や隣人に敵意を向けていいのか?」などと発言していた。要するに、「ウイルスによって大変な状況に陥っている」という状況そのものを否定しているというわけだ。2020年5月といえば、ダイヤモンド・プリンセス号での感染蔓延から数カ月後と言ったところ。日本では4月に初めて緊急事態宣言が出されたが、その頃の感染状況はどうだったんだろう(もう思い出せない)。ただ、小さな町であるエディントン市でも「マスクをしていないのは少数派」であり、だからジョーのようなスタンスは受け入れがたいものとして認識されていたようだ。
しかし、(恐らく)圧倒的な少数派であるはずの「マスクしない派」であるジョーが、保安官(しかもそのトップ)であるという事実が問題をややこしくする。これが一般市民なら(良いか悪いかは別として)無理やりどうにか出来るだろうが、保安官となるとそうもいかない(アメリカの事情は良くわからないけど、保安官は警察みたいな存在なんだろうし、本作には警察は基本的に出てこなかったから、保安官=警察という認識で良いと思う)。市長は当然、ジョーに対して「マスクを着けろ」と指摘するが、ジョーは「エディントン市で法律を作ってから言え」と反論する。これもアメリカの事情を知らないのでよく分からないが、保安官が「州」ではなく「市」に属しているのであれば、「州がゴチャゴチャ言ってても、市のルールが存在しないなら俺は従わない」みたいな屁理屈を通そうとしているのかもしれない。
さて、これだけでも十分ややこしいが、保安官と市長の間にはさらにややこしい状況が存在する。保安官の妻ルイーズは昔市長と付き合っていた(本人は「付き合っていた」というほどじゃないと否定していたが)のだ。ジョーは、理由はよく分からないものの精神的に参っている(不安障害か何かだろうか)妻のことをとにかく心配していて、本人の意識としては妻を最優先に考えているつもりだ(色々あって、本作では行動が伴っていない場面が目に付くが)。そして、ここでは書かないが、ジョーはルイーズに関して、テッドにある疑惑を抱いている。つまり、この両者の間には「私怨」のようなものがあるというわけだ。
まあ、その「私怨」の話は多様性には関係ないが、本作はこのように「主義主張や価値観の相違による対立」が浮き彫りにされる状況が用意されている。
さて、人によって「多様性」の定義は異なるかもしれないが、僕は「異なる考えを持つ者がいても否定しない」と捉えている。そして、そのような「多様性」が尊重される社会が実現すべきだよな、とも思っている。ただ、やはりそれは相当に難しい。何せ、本作の話で言うなら、「感染予防のためにマスクを付ける」と「マスク着用を拒絶する」という2つの考えは生活上の問題を生むからだ。
エディントン市ではロックダウン後、スーパーマーケットは「マスク着用」「人数制限」を設けて営業を続けているようだ。それで、中に入れないでいる人が店の外に間隔を空けて並んでいる。そしてそこを通りかかったジョーが、店員から入店を拒絶されている住民の姿を目撃する。マスクを着けていないからだ。ジョーは車を降り、店員に「入れてやれ」と告げる。店員は渋々入店を許可した。
州のルールでマスク着用は義務化されたし、店主としても「マスクを着けていない人間が店内にいると何が起こるか分からない」と感じるだろうし、だから「マスクをしていなければ入店拒否」となる。まあ、当然だ。そして、その立場を維持しようとすれば、どうしても「マスクを着けていない人」を否定するしかない。どれだけ「多様性」を意識していようが、「生活上の問題」が生じるのであれば否定せざるを得ないし、それは仕方ないよなと思う。
もちろんそれは、マスクをしない側も同じだ。ジョーはともかくとして、「喘息のためにマスク着用は難しい」というのは「生活上の問題」だし、だとすれば「マスクを着けて入店する」という考えを否定せざるを得ない。
僕は宗教全般が好きではないし、だから「どっちの神の方が正しい」みたいな話はどうでもいい。そしてそういう「観念的な話」に関しては、「別に実害が無いなら、相手の主張も認めたら良くない?」と思えてしまう(まあ、恐らく「いや、これは実害なんだ」みたいに主張すると思うのだけど)。ただ、「生活上の問題」がある場合は「相手の主張を受け入れようと思っても出来ないんだよ」ってことだし、ここには「多様性の限界」があるよなと感じる。
昔から連綿と続く宗教間の問題を除けば、本作の後半の展開のように「お互いの主張がぶつかりあったことでとんでもない展開になってしまう」みたいなことはなかなかないだろう。とはいえ、誰かが不利益を得ていることは確かだろうし、そしてそれは大体の場合少数派になるんだろうなと思う。僕らは、こういう現実に対してどんな対処が取れるんだろうと思う。「多様性は推し進めるべきだ」という主張と「それによって『生活上の問題』が生まれる」という主張は表裏一体だ。難しいなと思う。
さらに「『多様性』には何でも含めていいのか?」という問題もあるだろう。というのも本作では「フェイクニュース」や「陰謀論」なんかも扱われているからだ。
「どんな価値観であれ尊重すべきだ」という話になると、「コロナウイルスは製薬会社がワクチンを売るために作ったものだ」とか「私は人々を救うために神に選ばれた」みたいな主張も同列に並べられることになる。個人的には「そんなまともじゃないものは駆逐されるべきだろう」と感じられてしまうが、しかし「そんなまともじゃないもの」を真剣に信じている人もいるわけだ。その人にとっては「紛れもない真実」なわけで、ではどのようにして「尊重されるべき価値観」と「尊重しなくていい価値観」を区別すればいいんだろう、と思う。
そういうことが、本作を観ているとどんどん分からなくなっていくだろう。ムチャクチャな主張をしているように思えるジョーが妻にはメチャクチャ優しかったり、ロックダウンを宣言した市長は息子が遊び歩いているのを止められなかったりする。また、本作の冒頭は「市長が経営するバーから通報があって、ジョーが出向く」というシーンから始まるのだが、ここでは「ロックダウン中でテイクアウトのみと決まっているはずなのに、市長が店内に客を入れている」という問題が浮き彫りにされる。市長は「議員と政策について話しているんだから、それがどこであろうと『議会が開かれている』という認識だ」みたいなことを主張するのだが、まあ詭弁という感じがする。市長は「ホームレスが店内に入ってこようとする」という理由で保安局に連絡をしたのだが、ジョーは「開店中なら、どうして彼を入店拒否するんだ?」と皮肉を言うのである。
まあ実際のところは「市長もジョーも正しくない」みたいに考えるのが正しいんだと思うが、しかしこの2人が共にある程度以上の権力を有する人間だからこそややこしくなる。そしてそこにBLM運動や私怨、あるいは「SGMK社のデータセンター建設誘致」などの問題が重なり、混沌としていくというわけだ。
そして、より大きな話をすると、「中東で起こっている問題も、発端を遡ればこういう小競り合いから始まったのかもしれないな」なんて感じたりもする。もはや解決など不可能に思える複雑な問題と化してしまったが、そこに至るまでの過程には、個人あるいは小規模な集団間でのゴタゴタが火種として存在していたんじゃないか、と。そんな風に考えると、本作の見え方もまた少し変わってくるかもしれない。
あと、個人的に印象的だったのは、ラストの展開における「誰と闘っているのか分からない」みたいな状態だ。「誰と闘っているのか分からない」というのはもしかしたら、僕の理解力の無さの問題かもしれないが、それはそれとして、「具体的な個人間の小競り合いとして始まった問題が、結果として誰と闘っているのか分からないみたいな状態に行き着いてしまった」みたいな展開もまた、リアルの世界を凄く踏襲している感じがした。ネットの炎上なんかが典型的だが、「本質的な意味での当事者が置き去りにされている議論やバトル」が世の中に多すぎるように思う。「誰が誰と闘っているのか分からなくなっている」みたいな感じがするし、そういうリアリティをネット上ではなくリアルの戦闘として描き出しているのが本作のような感じがした。
というわけで、個人的にはメチャクチャ興味深く観れた映画だった。あと、普段から役者のことは認識出来ないけど、エンドロールを見て「そうか、ジョーはホアキン・フェニックスか」と思ったし、エマ・ストーンもしばらくしてから認識出来た気がする。他の役者のことは全然知らないけど、恐らく有名な人なんだろう。そういう有名な人を起用しながら、「その役者らしさ」みたいなものが綺麗に消えている感じがあって、それが監督の手腕なのか役者の演じ方なのか良く分からなかったが、その点も印象的だったなと思う。
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