【本】夏川草介「神様のカルテ0」感想・レビュー・解説
強くなりたいな、と思う。
強く生きられる人間になりたいなと思う。
強さとは、優しさのことだと思う。
『優しさというのはね、想像力のことですよ』
主人公の一止は、ある患者からそんな言葉を聞く。
『まどかさんが、タッちゃんにありがとうって』
タッちゃんと呼ばれた男は、悩みつつも決断したある行動に対して、そうお礼を言われる。
『学士さんから聞いて手を合わせてるんです』
見も知らぬ人のために祈る女性がいる。
彼らは、自分たちの無力さを知っている。生きている中で、その様々な経験の中で、そう納得せざるを得ない経験をたくさんしてきたのだろう。だけど、無力であるということが、何も出来ることがないこととイコールではないことも、また彼らは知っている。
自分たちの無力さをちゃんと分かった上で、無駄ではないか、傷つけはしまいか、悪い結果を招きはしないかと悩みながら、そんな素振りを見せないまま自分なりの結論を行動で見せていく。
彼らは、自分がしたことを誇らない。それが当然のことであるように振る舞う。そしてそれを、殊更騒ぎ立てない仲間がいる。現代社会においては「不器用」と称されるだろう人々なのだけど、そんな彼らの生き方がとても眩しく見える。
誰かから褒められたいだけのために優しくするとか、自分のしたことを誇らしげに語るような振る舞いとか、どうも世の中にはそういう態度が溢れているように思うし、僕の中にもやっぱりそういう気持ちがある。それは、決して悪いことではないとは思うのだけど、でも強くはないと思うし、そしてかっこ良くもないと思う。この物語に出て来る人物たちは、皆かっこ良い。今の自分との距離感に目眩がしそうなほどだけど、あぁこんな人になれたらいいのにな、と思わされた。
そして、強さとは、孤独のことだと思う。
『時間がありません。生きるつもりなら、立ち上がってください』
強靭な忍耐力を持つ女性は、そう言って死の淵から男を引き上げる。
『生きる理由なんてものは、しっかり生きてから考えればいいんだよ』
高い高い山をようやく乗り越えた男は、実感を込めてそう諭す。
『帰るために…、登ったのです』
一瞬の沈黙の中にすべてを雲散させた男は、そうやって前を向く。
孤独と付き合っていくことは、なかなかに難しい。それには、終わりがないからだ。ないように見えるからだ。どこまでどこまでも、永遠に孤独が続くように思えるからだ。
実際に、孤独は永遠に続く。自分でその孤独に、ピリオドを打たない限り。
『一人ぼっちなのは自分だけじゃない。人はみんなひとりなんだって』
僕は、孤独への耐性はある方なのだと、最近まで思っていた。でも、案外そうではないのかもしれないなとついこの間感じて、なんというか、少しショックだった。とりあえず、そういう自分を認めることにして、孤独との闘いは、まあこれからというところだ。
誰にも見られていない、誰の存在も感じられない。そんな場所にいるのは、やっぱり辛い。そんな時に、何を支えにするか。それを他者に求めることは、発想としては簡単だけど、問題の解決にはたぶんなっていない。他者は、常に自分の世界にいるわけではないからだ。支えにしていたものが、スッとなくなってしまうこともあるだろう。結局それは、時間稼ぎとか、問題の先送りのようなものでしかない。
自分の内側に、何か支えになるようなものを持つこと。結局それしかないという結論までは来ているのだけど、なかなかそれが難しい。そういう時に、「みんなはどうしてるんだろうなぁ」と考えてしまって、自分はまだまだだなと思う。
結局、自分で見つけるしかないのだ。
『生きていれば死にたくなるようなことは山ほどある。それでも生きるって選択肢が選べるだけ俺たちは幸せなんだ。』
強い人は、弱い人の立場を理解した上で、厳しい態度を取ることもできる。自分の中に、きちんと芯があるからだろう。そういう人に、僕もなれたらいいなと思う。
内容に入ろうと思います。
本書は、「神様のカルテ」シリーズに関係する人物を中心に据えた短篇集です。
「有明」
医師国家試験前の、最後の追い込みの時期を過ごす一止。彼らは、「6年生最強」と呼ばれるある一派を構えていて(本人たちにはそんな自覚はないのだが)、成績優秀な辰也を中心に、毎朝の学習に勤しんでいる。50過ぎで医師を目指すシゲさんや、そんなシゲさんに遠慮のない言葉を飛ばすまどかなど、個性豊かな面々との勉強は、暗記暗記の毎日に刺激を与えてくれる。
そんなまどかが、朝の勉強会に、顔を出さなくなった。
「彼岸過ぎまで」
『24時間365日』
そんな看板を据えるようになったのは、事務長が代わったからだ。ソロバン勘定と交渉が得意な優秀な人間だが、いかんせん利益に寄りすぎていると不満を漏らす者もいる。地域の救急医療を担う本庄病院は、今日も相変わらず忙しい。
本庄病院を支えてきた古参の医師たちが、新しくやってきた事務長とやり合いながらどうにかこうにか進めてきた日々。国の方針が変わり、医療の現場は「合理化」か「患者を第一に」かを選択せざるを得なくなっている。事務長のやり方は、間違っているとは思わないが、しかしやりきれない思いも残る。
ある日、内科部長の板垣は、飲み屋で事務長を見かける。
「神様のカルテ」
本庄病院に初の研修医としてやってきた一止。「24時間365日」の看板を見てここに決めたという、やはり筋金入りの変人である。研修医の生活は、数年間は「初めてのことばかり」と言われる。そんな中一止は、早速とんでもない「初めて」を引くことになる。
末期のがん患者。治療して持ちこたえるかどうかギリギリという状況で、さらに患者のある特殊な希望が重なる。一止は、研修医として、医師として、そして人間として、彼とどう対峙すべきか、日々悩まされることになる。
「冬山記」
30年ぶりの冬山。縦走路から落ちて生きているというのは、僥倖という他ない。とはいえ、脚は折れている。さすがにここまでかもしれない。そんな時彼は、幻想を見た。幻想という他ない、それはありえないような声と姿だった。
皆、何かを求めて山にくる。それが何かは人それぞれ違うけれども、それでも、みんなきちんと、生きて帰るために、山に登るのだ。
というような話です。
僕は、「神様のカルテ」シリーズを、すべて読んでいるわけではない。1・2は読んだが、3は読んでいない。そして正直僕は、1・2に対する評価は高くない。
読んだのはもう大分前だから、どうしてそういう評価になったのか分からない。けれども、この短篇集を読んだ今、こう思う。1・2を読んだ時から年を取っているし、昔とは何か精神状態が変わっているのかもしれない、と。
この短篇集は、とても良かった。正直、1・2に対する僕個人の評価が高くないので、全然期待しないで読み始めたのだけど、とても良かった。ちょっとびっくりするくらいに。
人間のかっこよさは冒頭で少し触れたから、こちらでは先に、舞台について触れることにしよう。
どの話も、医者や医療と何らかの形で関わりを持つ。僕たちは医者や医療に対して、「患者」としての立場でしか関わることはない。大抵の人はそうだろうと思う。しかし、当然「医者」側の世界があり、そしてその世界は、様々な困難が取り込まれたまま淀むしかなかった、一種の魔窟と言ってもいいような環境だ。
努力だけでは、どうにもならない世界だ。
例えば、50過ぎて医師を目指しているシゲさんには、医学を学ぶ環境というのは残酷的に厳しい。医学部に入学出来る学力を持ちながら、卒業試験のあまりのハードルの高さに眩む。人それぞれ、持って生まれた学力の差、そして当然年齢の差が、圧倒的な現実となって突きつけられる。シゲさんがどんな思いで医学部を目指しているのか、それは分からないけど(シリーズ作のどこかに登場したのかもしれないけど)、「思い」だけでは突破できない。
例えばある医師は、こう呟く。
『徹夜で百人助けても、一人でも見逃しが出たら、即抹殺されるのがこの仕事なんだ』
どれほどの使命感を持とうとも、日本の医療制度を取り巻く環境の厳しさに太刀打ちすることは難しい。医療事故はすぐに報道され、一気に社会問題に発展する。もちろん、人の命が関わっているという理屈は分かるが、僕にはこの風潮は行き過ぎに感じられる。同じ人間だ。絶対にミスをしないなんてことはありえない。
しかし、何故か医師にはそれが求められる。しかも、昼も夜もないような壮絶な環境で仕事をしているのにも関わらず、である。
また医師は、国の方針から逃れることはできない。本書では、国が国庫を節約するために、医療の現場に対して通達しているDPCという方針について触れられている。詳しくは書かないが、それが医療の現場をより複雑にしていることは間違いない。
『ただ、人を救うというだけの医療が、ずいぶんややこしいものになってきたという思いは、しみじみとした実感を含んでいる』
医療の裏側を垣間見る機会は多くはないが、本書を読むだけでも、その殺伐とした雰囲気を伺うことが出来る。使命感や切なる思いだけでは乗り越えられない、不条理と残酷に満ちている。どんな医師として生きていくかの選択によっても、それぞれの生き方は様々に違うだろうし、そこで待ち受ける出来事も様々に違うことだろう。もちろん、泥水ばかり飲んできただろう医師も数多くいるだろうし、国民皆保険制度と結びついている以上、国の方針と決別出来ないのだから、これからもそれに振り回されていくことだろう。
それでも本書は、そんな世界の中に咲く、美しい花を描き出そうとする。
例えば、一止のような医師の存在が、どれだけ現実とかけ離れているのか(あるいはいないのか)、それは僕には分からない。もし一止のような医師の存在が現実離れしているのだとすれば、そういう意味で本書はファンタジーなのだろうけど、しかしだからこそ存在価値があるのかもしれないとも思う。たぶん現代は、医師も患者も疲れきっている。状況は、どんどん悪くなっていくだろう。そういう中で、希望を感じられる物語があるというのは、とても良い。
『私の仕事は、先生方に完璧な診療を求めることではありません。先生方が完璧に近づけるように環境を整えることにあります』
医師ではなく医療に関わる者の、こうした覚悟が、今も医療現場を支えている。
『栗ちゃんの判断が間違ってるって思ったときは、遠慮なくぶっ飛ばしてやるからよ』
どうにもならない現実を飲み込むための生き様を、背中で見せようとする者が現場にいる。
そうしたことすべてが、医療という、様々な有象無象を内包した複雑怪奇な世界を紡ぎ上げている。そしてそんな世界の中で生きる住人の生き様は、僕たちに、「人間とは何か?」という問いを突きつけてくるようでもある。
「生きるとは何か?」を考えさせるようとしているようにも感じられる。
さて、本書の登場人物たちは、ほとんど皆饒舌ではない。性格的に大人しいものもいれば、言葉にしないという「生きる術」を体得している者もいるだろう。
そういう人たちの物語だからこそ、「語られない言葉」の重みがずしっと来る物語だと思う。彼らが、恐らく飲み込んだのだろう言葉が、彼らがそれを飲み込んだ音と一緒に、行間から染み出てくるように感じられる。そして、その「多くを言葉にしない」関係性が、実に絶妙に成り立っている。
現代は、言葉が過剰な世の中であるようにも思う。過剰な言葉で溢れている、という言い方の方が正確だろうか。「何かを装飾する」だけの言葉が、無意味に宙を飛び交っているような世の中に思える。
装飾することが得意なだけでは、自分を大きく見せることは出来るかもしれないが、自分自身を大きくすることはできない。この物語の登場人物たちは、人間が大きい。だからこそ、余計な言葉で自分を飾り立てる必要がない。自分の存在を、自分の生き様によって示すことが出来る人達だ。環境的に、そうならざるを得なかった人たちが織りなす人間の折り重なり合いが、丁寧に掬い取られていく。
どう生きるべきか。
その問いへの答えを、僕たちは迷い続けながら探し求めていく。その過程こそが「生きる」ということなのかもしれないと、彼らの「生きることへの闘い」を見守りながら、そんな風に思った。素晴らしい物語でした。涙ぐんでしまう場面もいくつもありました。是非読んでみてください。
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