【映画】アニメ「君の膵臓がたべたい」感想・レビュー・解説
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しかし、ストーリーは全部分かってるのに、相変わらず泣けるなぁ、キミスイは。
今まで色んな物語に触れてきて、たまに「自分に似てるな」と感じるキャラクターが出てくるのだけど、キミスイの主人公ほど似てると感じるキャラクターは、なかなかいないような気がする。一見、「キミスイの僕」と「僕」は全然違うように見えるだろう。「僕」は、割と社交性もあるし、人との関わりを遮断していない。小説はたくさん読んでいるけど、「キミスイの僕」が小説という物語世界が現実以上のものだ、ここにこそ没頭する価値がある、と感じているのに対して、「僕」はそこまででもない。「僕」にとって読書は、「暇つぶし」か「仕事」のどちらかだ。
そんな風に、見え方は色々違うと思うのだけど、本質的な部分は凄く似ていると思う。人間に関心がないし、誰かと積極的に関わろうとはしないし、色んなことを諦めて生きている。そして、自分が何を考えているのか、自分がどんな風に見られているのか、それを言語化する。そういう部分に僕は、すごく共通項を感じるし、「僕」が「キミスイの僕」のような、本ばかり読んでいて友達がいなくて静かに生きている、みたいな人生だった可能性は十分にあると思う。
「キミスイの僕」の本質的な部分に、自分が入っていけるからか、僕は小説でも実写映画でもアニメでも、キミスイに触れる度に泣けてくる。たぶんその根底にあるのは、羨ましさなのかな、と思う。
たぶん、桜良と出会った「キミスイの僕」のことが、きっと僕は羨ましいんだろうと思う。
『君と私の関係は、どこにでもある言葉じゃもったいない』
そう、僕が目指しているような関係性も、まさにここにある。「友達」とか「恋人」とか「夫」とか、なんでもいいんだけど、そういう簡単な名前で括れないような関係性を、僕も本質的に目指しているんだと思う。
桜良はずっと、二人の関係性のことを「仲良し」と表現していた。そう、彼らの関係は、そういう判然としないような言葉でしか表せない。「友達」でも「恋人」でもない、そして一番大事な点は、お互いがそのままの状態を良しとしている、ということだ。二人が、不安定な関係性のまま、名前が付くような分かりやすい関係性に「転んで」しまわない、ということが、とても大事だ。
名前の付く関係性は、とても普遍性が強くて、誰にとっても重要だと思えるようなものだから、名前が付いている。だから、そういう関係性に「転んで」しまうきっかけや圧力みたいなものは、日常の中に転がっている。みんなそれが当たり前で自然だと思っているから、「何かにつまづいた」なんて思うことなしにそのきっかけや圧力を受け入れるけど、二人は、そうじゃない方がいい、ということが分かっていた。だから、そのままで留まった。
もちろんそれは、「桜良の命があと僅かしかない」という、非日常的な状況によって支えられている。桜良と「キミスイの僕」が、仮に何らかの形で出会うとしても、桜良があと僅かの命だ、という状況ではなかったら、この関係性はまず成立しなかっただろう。
キミスイの物語で一番好きなセリフがある。
『君はきっとただ一人、私に日常と真実を与えてくれる人なんじゃないかな』
医者は真実しか与えてくれない。家族は、私の言葉に過剰に反応して日常を取り繕おうとする。友達もみんな、言ったらそうなると思う。君だけが、真実を知りながら、私と日常をやってくれる。
だから、君と遊ぶのが楽しいの。
この認識がなければ、二人の関係性は成立しないのだ。
正直に言えば、桜良も「キミスイの僕」も、キャラクターとしては非常にステレオタイプだと思っている。桜良は、誰とでも明るく接することが出来るクラスの人気者。「キミスイの僕」は、本ばかり読んでいて人と関わらない地味な男。それぞれのキャラクターは、よくある物語によくある感じで登場するような、割とよくいるキャラクターだな、と僕は感じる。
でも、まったく正反対の場所にいるこの二人が、『君はきっとただ一人、私に日常と真実を与えてくれる人なんじゃないかな』という切実な理由で関係性を持つという奇跡的な状況によって、ごく自然に関わり合いを持つようになる、という設定が、この物語をとてもエキセントリックなものにしている、と僕は感じる。作者の意図通りなのか、それは分からないけど、桜良と「キミスイの僕」が共にステレオタイプ的なキャラクターである、というのは、二人の関わりのエキセントリックさを際立たせるという意味で、とても重要な要素だと僕は感じるのだ。
桜良は、家族以外の人間に、自らの病気のことは隠していた。「キミスイの僕」がそのことを知ったのは、たまたまだ。何故桜良がそれを隠していたのかは、先ほどの引用の通り、言ってしまえば桜良にとっての好ましい「日常」が失われてしまうからだ。
こういう感覚が切実に理解できる人というのは、結構いるんじゃないか、と僕は思う。
若干ネタバレかもしれないが、作中の登場人物のキャラクター的に想定できる言動だと思うので、ラストの方でのあるやり取りを書いてしまおう。
桜良の死後、「キミスイの僕」は桜良の親友である恭子を呼び出し、桜良がずっとつけていた「共病文庫」という日記を見せる。恭子はそれを読み号泣するのだが、読み終えて「キミスイの僕」に、『絶対に許さない』と言う。病気のことを、なんであなたが私に教えてくれなかったのだ、と。
『教えてくれたら、もっと桜良と一緒にいられた。部活だって辞めた。学校だって辞めた。もっと桜良と一緒にいられたはずなのに…。絶対に許さない』
それを聞いて僕は、「だから言いたくなかったんだろうよ」と思ってしまった。そう感じる人は多いんじゃないか、というのが僕の予想だ。
部活も辞めて学校も辞めて一緒にいる時間を作るというのは、全然「日常」じゃない。確かに、一緒にいる時間は増えるだろう。しかし、病気のことを知らずに会っていた時間は、時間は短かったかもしれないがすべて「日常」だったのに対して、病気のことを知って切実さと共に一緒にいる時間は、時間がどれだけ長くなったところですべて「日常」ではなくなってしまう。そんな時間を過ごしたくはない、という桜良の気持ちを、僕は凄くよく理解できる。
だから、僕自身も「キミスイの僕」のように、「日常と真実を与える人」でありたいと思っている。
「僕」が「キミスイの僕」のような立場に置かれた時、どんな風に振る舞えるか分からない。でも、僕自身は、「キミスイの僕」のような存在でいたい、とずっと思っている。何故なら、僕にとってその方が、誰かの「真実」に近づける、と思っているからだ。
残酷なことを書くが、「親友」であった恭子は、「私に取り繕った日常しか与えてくれないだろう」と思われてしまったがために、「真実」を教えてもらえなかった。僕は、それは嫌だな、と思う。僕は、「相手が見せたいと思うもの」を否定するつもりはないのだけど、「相手が見せたいと思うもの」が出来る限り「真実」に近いといいな、という希望は持っている。そして、そうである可能性が高くなるように、自分の振る舞いをデザインしているつもりだ。
『生きるっていうのはね、誰かと心を通わせることそのものを指して生きるっていうんじゃないかな』
僕は桜良のように、そんな真っ直ぐなことは言えないが、人とのかかわり合いの中で、「真実」を見せても大丈夫だと思ってもらえる存在でありたい、と思っている。
内容に入ろうと思います。
僕が桜良と出会ったのは、病院の待合室でのことだ。ベンチに置かれていた本を何気なく手にとった僕は、それが「共病文庫」という名の日記で、日記の書き手が膵臓の病気でそう遠くない内に死んでしまうことを知った。そして、その日記を書いていたのが、クラスメイトの山内桜良だったのだ。
桜良は、余命が短いことを知ってもなお、同情や労りのような感情を見せない僕に、凄く関心を持った。そして僕が言った「君は君の好きなように生きていけばいい」という言葉を突き返し、「私は君を巻き込みたい」と言って、桜良は友達のいない地味なクラスメイトである僕と一緒にいるようになった。
意思らしい意思を持たず、桜良に連れ回されるがままになっている僕は、やはり桜良が死んでしまうということを重く受け止めはしない。そんな僕を「ただ一人、日常と真実を与えてくれる人」と感じる桜良は、死ぬまでにしたいことを僕と一緒にやっていくことにする。
僕は、クラスの人気者である桜良と仲が良いと噂され、面倒なことになっているが、桜良はそんなこと気にしない。「君はもっと人と関わった方がいいよ」と言って、相変わらず僕を連れ回していく。
そんな桜良との関わりを、少しずつ楽しいと感じるようになる僕だったが…。
というような話です。
何度も書くけど、好きなんだよなぁ、キミスイ。関係性として、僕の理想的なものだ。もちろん、「死」というものを間に挟まずにこういう関係性を成り立たせることが出来るのか、それはこれからの僕の頑張り次第なのだけど、観ていて、いいなぁ、という感覚が凄くある。
「友達」でも「恋人」でもない彼らの関わり方は、「正解」というものがない。世の中では、「友達だから」「恋人だから」という理由で、色んな「正解」が生み出されていくのだけど、彼らの場合、関係性にはっきりとした名前がつかないために、「正解」もまた存在しない。「正解」がないから「不正解」もない。彼ら自身も、そして観ている側も、そういう不文律みたいなものを共有することが出来るから、彼らの「あり得ないような日常」を受け入れられるんだろうと思う。普通ではあり得ないけど、でも彼らには「正解」も「不正解」もないんだから、これをこのまま受け入れるしかないよな、みたいな。
そしてそんな風に関わることで、二人の中だけで成立する「当たり前」が少しずつ積み上がっていく。
恭子を初めクラスメイトたちは、彼らの関係性を理解しない。そりゃあそうだ。名前が付かない関係性があると思っていないし、彼らの「当たり前」は二人の間でしか成立しないのだから。けれど、二人は、そんな周囲の圧力を無視することが出来た。その最大の理由が、やっぱり「病気」なんだよなぁ。時間がない、という共通認識こそが、彼らの関係性を成立させていくのだ。そういう意味で、物語の設定と彼らの関係性が、とてもうまく結びついていると思う。
みたいな話は、書こうと思えばいくらでも書けちゃう気がするから、この辺で止めておこう。
最後に、どうでも良いけど気になったことを二つ書いて終わりにしよう。
まず、エンドロールを見ていて「ん?」と思ったことがある。本書には、「星の王子さま」が割と重要なアイテムとして登場していて、エンドロールでその表記があった。ただもう一冊、彩瀬まるの「やがて海へと届く」の表記があって、「ん?」と思った。どっかで出てきたかなぁ。図書館が舞台だったり、「キミスイの僕」の部屋にも本がたくさんあるから、本の背表紙が映る場面は多々あったし、ちゃんと見てないけど、きっと実在する本もたくさんあるんだろう。だから、そういうものの一つとして登場したわけじゃなくて、作中で何か意味のある形で登場したんだと思うんだけど、それがどの場面なのか僕には分からなかった。
そしてもう一つ。このアニメには「カフェ・スプリング」という名前の喫茶店が出てくるのだけど、これは実在のモデルがあるのかもしれないなぁ、と思った。というのは、閉店を示す看板が「CLOSE」という表記になっていたからだ。
英語的には、この表記は「CLOSED」じゃないと不正解らしい。けどアニメの中では「CLOSE」になっていた。作画上のミスかもしれないけど、もしかしたら実在するモデルがあって、そこが実際に「CLOSE」という表記なのかな、と考えたのでした。
という、まあほんとにどうでもいい話で感想を終わりにしようと思います。
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