【映画】「君たちはどう生きるか」感想・レビュー・解説
なかなか面白かった。この映画については、特に積極的に調べるまでもなく、なんとなくの評価が視界に入ってくるので、かなり良い評価と、かなり悪い評価で二分されているような印象だった。そんな印象のまま観に行ったが、「全然面白いじゃん」と僕は思った。
映画を観た人の感想として、「難しい」「よく分からない」みたいなのが結構ある気がしたが、個人的には、「それまでのジブリ作品だって同じじゃない?」と思う。別に、『ハウルの動く城』『千と千尋の神隠し』『もののけ姫』だって、「難しい」「よく分からない」作品だと思う。少なくとも、どれか1つ作品を取り上げて、「これは、これこれこういう作品です」なんて滔々と喋れる人はそういないだろう。だから僕には、『君たちはどう生きるか』を観て「難しい」「よく分からない」と言っている人の気持ちが、イマイチ理解できない。
もう少しこの話を続けよう。別にこれは『君たちはどう生きるか』の話ではないのだが、僕は世間の人が「好き・嫌い」ではなく「良い・悪い」で語るのがあまり好きではない。というのも、「良い・悪い」で評価することは、「自分の責任」を回避しているように感じられるからだ。
「好き・嫌い」で語る場合、その責任は、そう感じた「自分」にある。しかし、「良い・悪い」の場合は、「作品」に責任があると言えるだろう。だから、自分に責任が及ぶ「好き・嫌い」ではなく、自分の責任を回避しやすい「良い・悪い」で評価したがるんじゃないか、と感じてしまう。
まあ、これは本当に『君たちはどう生きるか』には関係ない話である。閑話休題。
冒頭、戦争の描写から始まったので、「ジブリ作品だが、ファンタジックなものではなく、『風立ちぬ』に近い雰囲気なのかな」と思った。しかし、とある理由から主人公一家は地方へと疎開することになる。主人公・マヒトの母親の係累はどうやら一角の人物であるようで、マヒトは豪邸(の一角にある離れ)で暮らすことになる。そしてその豪邸の隣に、「大叔父が作ったらしい謎の塔」があり、ここを起点にファンタジックな物語が展開されていく、というストーリーになっていく。
そこからの展開は、個別に見ていけば色々と奇っ怪な要素が山程出てくるのだが、大枠はシンプルだと思う。「アオサギ(きっかけ)」に誘われ、「叔母さんを救う(目的)」のために、マヒト少年が旅に出る、という展開だ。時空が歪んでいたり、宮沢賢治的世界観のセキセイインコがいたり、年齢が若返ったり、「わらわら」という謎の存在がいたりと不可思議なことは山程あって、それぞれは観客が独自に解釈したらいいんだろうなぁ、と思う。その辺りの「余白」の作り方はさすがだなと思う。
そしてそういう中でも、「妊娠している叔母さん」「熟して飛んで生まれ変わる存在」「若返り」「死んでる存在の方が多い世界」「食べられそうになること」「神隠し」「代替わり」など、生と死、あるいは流転を想起させるようなモチーフが山程詰め込まれていく。恐らく、神話やら哲学やらなんやかんやの知識をたくさん持っている人であれば、そういうモチーフをよりたくさん見つけることが出来るのだろう。今までも宮崎駿は、様々な形で「(人間に限らない)生と死」を描き続けてきたように思うのだが、この作品には、そういう「宮崎駿イズム」みたいなものがドドーンと詰め込まれているような感じがした。
冒頭で提示される「戦争」という背景も、映画を最後まで観ると必然だったように感じられた。
僕がこの映画を観て強く感じたことは、
<美しい世界の醜さ、醜い世界の美しさ>
ということだ。
具体的には触れないが、マヒトは最終的に、「美しい世界を選ぶか、醜い世界を選ぶか」という選択を迫られる(たぶんあれは、そういうシーンなんだよなぁ)。マヒトには、「美しい(はずの)世界に留まって、この世界をより美しくする」という選択肢もあった。しかしマヒトは、その選択肢を蹴った(んだよね、きっと)。つまりそれは、「戦争が続く『醜い世界』に帰る」という選択を意味する。
では、マヒトが「醜い世界」を選んだ理由は何だったのか。これは僕の勝手な予想だが、それは「生命が誕生すること」にあるんじゃないかと思う。マヒトはある場面で、元々いた世界で「生命」がどのように誕生するのかを知る。その場面ではそれ以上のことは描かれないのだが、恐らくそれは同時に、マヒトが今まさに旅をしている世界では「生命」が生まれないことを示唆しているように感じられた。
また、あるペリカンがマヒトに、「私たちはある目的のためにこの世界に送られた」と語る場面がある。この言葉も、マヒトがいるのが「死の世界」であることを示すものだろう。
作中に登場する「美しい世界」がいかにして成り立っているのか、その具体的な描写はないが(もしかしたら、色んな名称やら設定などが何らかの哲学や思想と呼応していて、分かる人には分かるような作りになっているのかもしれないが)、少なくともマヒトが旅をしている時点では、「美しい世界」では「新たな『生』はなく、『死』ばかりがある世界」なのかもしれない。恐らくそれは、この「美しい世界」の創造主にとって理想の状態ではなく、だからこそ「代替わり」によってさらなる変化を求めているのだと思う。いずれにせよ、その「美しい世界」には「生」が存在しない。
そう考えてみると、何故叔母さんが「産屋」にいたのか、の理由も説明できるかもしれない。映画の中で、「産屋を覗くことは禁忌」という表現が出てくるが、裏を返せば、それほど重要視されているということだろう。別の場面では、「子どもがいるから食べない」なんてセリフがあったりもする。これらはすべて、「この世界において、『生』があまりにも待望されていること」を示しているだろうし、裏を返せば、「この世界にはあまりにも『生』が存在しないこと」を示唆していると言えるだろう。
一方、マヒトが元々いた世界は、まさに今戦争によって無惨に人が死んでいくろくでもない世界だが、しかし確実に「生」が存在する。新たな「生」が生まれる世界なのだ。そして、叔母さんを探し出すために「美しい世界」を旅して回ったマヒトは、最終的に、「どれほど醜かろうが、『生』が存在することの美しさには敵わない」という結論に至ったのではないか、と思う。
この<美しい世界の醜さ、醜い世界の美しさ>という捉え方は、本当に映画の最後の最後でフッと頭に浮かんだので、映画全体を通してそんなモチーフで彩られていたのかどうか、今の僕には分からない。しかし恐らくだが、「美しい世界には『死』が、醜い世界には『生』が満ちている」というような描写で、上手く対比されているんじゃないかという気がする。
また、割と冒頭の方で、マヒトが結構謎な行動をする。その行動そのものは、無理やり説明をつけようと思えばつけられる。だから、凄く違和感があるというほどでは決してないのだが、やはり映画全体の中では少し「浮いた」要素であることは確かだと思う。
しかし映画の最後で、マヒトが「悪意」という言葉を使って自らの行動を説明する。何故そんなことを言ったのか、はっきりとは分からないので想像でしかないが、「『悪意』に満ちた自分は『美しい世界』には相応しくない」と相手に告げるためだったのか、あるいは「『醜い世界』に戻るための踏ん切りを自分の中でつけた」のか、あるいは別の理由だったのか。その辺りは分からないが、冒頭で提示された「僅かな違和感」が、映画のラストの方でちゃんと回収されたのが良かった。
この映画では、アオサギ・ペリカン・セキセイインコと色んな鳥が出てくるが、何故「鳥」がこんなにもたくさん出てくるのか分からないし、「結局あのアオサギはなんだったんだ?」みたいなこともイマイチ良く分からない。ってかまあ、そんなこと言ったら分からないことだらけではあるが、「そういうのは、それぞれ好き勝手解釈してね」って感じでいいんだろうし、それが浅くても深くても、どんな解釈も許容されるんじゃないかと感じるぐらいの余白の広さは素敵だと思う。
ここからは、ちょっと拡大解釈だが、まさにこの点こそ、タイトルである『君たちはどう生きるか』の意味なのかもしれないと思う。つまり、「自分で考えろ」ということだ。
今の時代、調べれば何でも分かるし、自分で考えなくても様々な知恵・知見・ライフハックみたいなものが世の中に溢れている。もちろん、そういう生き方を否定するつもりはないし、映画『君たちはどう生きるか』も同様だろう。しかし同時に、「それでいいのか?」という問いは投げかけているのではないかとも感じる。「君たちはどう生きるか」という問いが、僕には「与えられたものを考えもなく受け入れ享受するだけの生き方でいいのか」という意味に聞こえてくるのだ。
そう考えた時、「難しい」「よく分からない」という感想は、敢えて厳しい言い方をすれば「不正解」ということになるだろう。別に「難しい」「よく分からない」と感じてもいい。ただ、そこで立ち止まっていていいわけじゃない、というわけだ。「難しい」「よく分からない」という感覚をSNSなんかで呟いて、それで終わってしまったら、「君たちはどう生きるか」という問いに呼応出来ていないと言えるだろう。「難しい」「よく分からない」を終着にするのではなく、起点にする。そういうスタンスこそ、これからを「どう生きるか」に必要とされるものなんじゃないか……。
と、大分我田引水感が強いが、そんな解釈もまた「正解」と言っていいと思う。「難しい」「よく分からない」と言って思考停止することが「不正解」なのだから、それがどんな発想であれ、自分の頭で思考して導き出したものであれば、すべて「正解」なのだ。
そんな風に、自分の頭で色々考えて見てから、他の人の感想を読んでみる。それこそ、「地球儀を回すように」。そんな風にすると、また色んな見え方がするのではないかという気がする。
「地球儀」に「正しい位置」が無いのと同じように、『君たちはどう生きるか』の受け取り方にも正解はない。そしてそれは、すべての創作物に対して同じことが言えるだろう。そんな風に考えると、『君たちはどう生きるか』というタイトルは、宮崎駿の「あまねく創作物に触れる際のスタンス」に関する、切なる願いであるようにも聞こえてくるかもしれない。
もちろん、これも勝手な妄想だが、しかし同時に「正解」でもある。
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