【映画】「ユートピアの力 ル・コルビュジエとドーシ インドのモダニズム」感想・レビュー・解説

なかなか面白いドキュメンタリー映画だった。建築って、そこまで好きなわけではないんだけど、「建築思想」みたいなものは面白いと感じられることがあったりするし、しかも本作では、「あのル・コルビュジエがインドの都市をゼロから設計した」というわけで、そのスケールも含めて面白いなと思う。

冒頭、ル・コルビュジエの言葉として、「ユートピアとは、明日の現実である」という言葉が表示された。そしてまさに、インドのチャンディーガルという都市は、「ユートピア」を目指して設計されたのだそうだ。

本作では、ル・コルビュジエがどのような思想で都市の設計を行い、それが具体的にどのように具現化されているのかを追いながら、最終的には「ユートピアは実現されたのか?」という問いに収斂していく。後で詳しく触れるが、素晴らしい思想で生み出されたチャンディーガルは、それ故に発展し、そしてその発展故に壊れていった(「壊れた」というのは言い過ぎかもしれないが)。「理想を立ち上げること」は出来ても、「理想を維持し続けること」は難しいということだろう。

ではまず、作中に登場する人物がチャンディーガルの街をどのように捉えているのか色々と挙げてみよう。

【自然と調和した生活が送れる街】
【オープンでより自由な街】
【(昔から)妻や恋人と手を繋いで歩くことが出来た。インドの他の街ではそんなことなかなか出来なかった】
【芸術家が必要とする自由が、ここでは普通だった】
【デリーには確かにチャンスがある。しかし、渋滞など忙しない。ここでは、時間や生活の質と言った大事なものが得られる】
【芸術家、批評家、作家がこの街に住みたいと思うのは、街に魂があるからだ】
【芸術家に必要なことは、すべてこの街がくれた】
【チャンディーガルの人はデリーに住む人とは違う。話し方や見知らぬ人との対応が違うんだ。街のあり方が、行動に反映されているんだよ】
【この街ではル・コルビュジエから逃れられない。常に頭上に座っているみたいに感じられるよ】
【私がやっているような反政府的な活動は、他の街では恐らく出来なかっただろう】

多くの人が、街のあり方が自分に与えている影響を語っている。そしてそれは、ル・コルビュジエが組み込んだものに起因しているのだと実感しているらしい(ただ、後で書くと思うが、「街の成り立ち」について知っている住人は少ないようで、本作は要するに「そういうことを実感し、語れる人が出演している」ということになる)。

また、ル・コルビュジエ自身は妻への手紙の中でこんな風に書いていた。

【こんなに穏やかな静けさを感じたことはない。壮大な空の下の街にいるんだ。時を超えた風景だよ。
私はここに宣言する。私はここで人生の仕事を成し遂げるだろう。】

元々の立地的に「田園都市」になることは確定していたようだが、ル・コルビュジエはそういう要素を上手く活かしながら都市へと作り変えていったのだろう。

それで、本作に登場した者たちの実感の中核にあると言えるのが、「チャンディーガルは『人間』を中心に設計されている」という点ではないかと思う。作中では誰かが、「インドの大半の街は、人間が中心に置かれていない」と話していた。ル・コルビュジエは「人間を機械にしない」ことを意識していたのだと語る者もいた。

まずは、自然。ル・コルビュジエも感動した「時を超えた風景」に都市を造る上で、ル・コルビュジエはたくさんの公園を作った。街の1/3が緑らしい。公園には心身の発達を促す健康器具などが置かれている。

またチャンディーガルの中心部にレジャーバレーという緑地帯を設けた。ル・コルビュジエはこれを「都市の肺」と呼んだそうだ。ル・コルビュジエは「人は自然に回帰する」と考えていたようで、都市設計の基本に自然を置いたのだろう。

凄いのは、街中の木はすべて番号で管理されている、という話。街を作る際に数千本の木を植えたらしいが、すべてに番号が振られ、そして法律で伐採が禁じられているという。「そこまでするか」という感じではあるが、それぐらいしないとインドだとすぐ木とか切られちゃいそうだなとも思うし、必要な措置だったのだろう。

さらに誰かが「チャンディーガルは歩行者の尺度で作られている」とも言っていた。もちろん人々は車で移動するのだが、歩行者の目線が優先されている(「優先されている」という表現はなかったが)というわけだ。〇〇までは歩いて45分、〇〇までは歩いて15分、みたいな指標がベースとして存在するのだそうだ。

しかし車のこともちゃんと考えられている。インドでは人口増加に伴って交通渋滞が問題になっている都市が多い中、チャンディーガルでは道路システムを7つの階層に分けることで、人と車を分離し、それによって、渋滞も大気汚染もない街になっているのだという。

誰かがチャンディーガルを「共生のための実験場」と呼んでいたが、その言葉通り、チャンディーガルにはインド各地からあらゆるタイプの人(民族、宗教、思想など)が集まっているという。そういう違う人たちが共生できる環境になっているのは、ル・コルビュジエが「人間」を中心に街を設計したからだろう。

ル・コルビュジエにとって「建築」というのは、「より良く公平で調和の取れた世界を目指すこと」だったという。さらにル・コルビュジエがチャンディーガルの設計を頼まれたのは、インドがイギリスからの独立を果たした直後だった。人々が自由を求めて闘っていた時代だったからこそ、ユートピア的な理想主義が時代に合っていたという時代背景もあったようだ。そのような観点からチャンディーガルは、なかなか類例のない都市計画として進んだのである。

さて、チャンディーガルにおいて、自由や民主主義を最も象徴するのが、「キャピトル・コンプレックス」と呼ばれる区域である。

チャンディーガルでは「人間中心」の思想が行き渡っているという話は、チャンディーガルの街全体を空から見た場合にも認識できるという。先程「都市の肺」という表現を紹介したが、これも街全体を人に喩えたものだ。そしてキャピトル・コンプレックスはその場合における「頭」に相当する箇所に配置されている。

キャピトル・コンプレックスというのは、ル・コルビュジエがコンクリートで作った議会、市庁舎、高等裁判所の3建築を含む区域のことだ。ここには「開かれた手」と呼ばれるモニュメントがあり、自由の象徴かつ街のシンボルになっている。2016年にル・コルビュジエの作品がまとめて世界遺産登録されたが(日本の国立西洋美術館も含まれている)、その中にこのキャピトル・コンプレックスも入っている。大きな広場を構えた造りになっていて、元々は広く市民に開かれている場所だった。

しかし、1995年にインドの当時の首相を狙ったテロ事件(と言っていたと思うんだけど、ネットで調べても該当しそうなのが出てこない)を契機に一般への解放は取りやめとなり、今では許可されたガイドツアーのみが入れるという形になってしまったそうだ。この点に関してある人物が、「ル・コルビュジエが公共のために作ったものすべてが政府に奪われてしまっている」「政府に公共物を奪う権利などないはずだ」と憤っていた。まあ確かにその通りだろう。

で、本作ではこの辺りから、「チャンディーガルの良くない側面」も映し出されるようになる。猛暑やモンスーンなどに晒されることでコンクリートは老朽化している(まあこれは、元々恒久的なものではないという認識だったから仕方ない)。また、インド国内でも最高の平均所得となっているため、それに伴って人口も流入、元々50万人と想定されていた都市に100万人が住んでいる。さらにそのせいで、計画段階では生み出されるはずがなかった「スラム」も出来てしまっている。土地も家もかなり高騰しているようで、中流階級は生活を成り立たせるだけで困難なのだそうだ(ただ、今でも不動産の60%は市が管理し、所得に応じて振り分けているとも説明されていた)。

また、チャンディーガルは56の「セクター」と呼ばれる区分けがなされていて、本来これは「街の機能をスムーズにするため」みたいな理由で作られていた。のだが、今ではどのセクターに住んでいるかが階級を示すものになってしまっている。セクター2・9は大金持ちだが、セクター22は下位中流階級、と言った具合である(ただ、初期からこの街に住んでいる人が、「自分は徒歩3分以内に公園が7つもある場所に住んでいるが、富裕層は公園にアクセス出来ない」みたいなことも言っていた)。

さらに、自然を大事だと考えていたル・コルビュジエは、「隣町との境界には、20kmの緑の壁を造る」と構想し、実現させた。そして「ここには建物を建ててはならない」と法令で定められていたにも拘らず、そのルールを最初に破ったのがなんと政府だったそうだ。人口増加に対応するために、モハリ、パンチクラという新たな街を造り(恐らくこれが、緑の壁を壊して作った街なのだろう)、そこに高層マンションを作ったそうだ。理想主義から始まった街が物質主義に飲み込まれてしまったのである。ある人物は、「多くの人が、幸せというのはより多くの物を持つことで、貧しい者に共感し平等な社会を作ることだとは考えていない」と嘆いていた。

と、これらは「一般的な住民の感覚」と言ったところだが、作中に登場するような「ル・コルビュジエの思想を理解している者たち」にもまた別の問題がある。

チャンディーガルにある、ル・コルビュジエが生み出した建築大学では、ル・コルビュジエの誕生日を祝うそうだ。そしてその話からある人物は、恐らく自虐的な意味を込めてだろう、その状態を「(ル・コルビュジエに対する)絶対的な崇拝」と表現していた。しかし同時に、「それでは疑問を抱けない」とも言っていたのである。

で、確か同じ人物だったように思うのだけど、「生きている街が博物館になりかけている」「生きている街には成長が必要だ」とも語っていた。

しかし同時に、こんな感覚も存在するのだという。

【世界遺産になったことで、時代に合わせて成長させるより、すべてをこのまま残したいと思う人も多くいる】

なるほど、難しい問題である。ただ、別の人物は、「核となる価値観が分かっていれば、変化は容易だ」とも話していた。形あるものをそのまま残すのではなく、思想や価値観の核を捉えて、そこをブレさせなければいくらでも変われるというわけだ。

しかしこの点にも問題がある。建築大学で教授(だったかな?)を務める女性は、教員を対象にしたワークショップをよく開くらしいのだが、その中で、「キャピトル・コンプレックスに入ったことがある人」は2~3人、「この街の成り立ちをしっている人」は3~4人しかいない、みたいなことを話していた。チャンディーガルには、「共通理念」としての法令(木を伐採してはいけないなど)もあるが、しかしその法令も広く知られているとは言えない状況だという。

本作には、「都市活動家」という肩書きの人物が何人か出てきて、「よく分からない肩書きだな」と思っていたのだけど、最後まで見て、「ル・コルビュジエの思想がこの街の生活にどう息づいているのかを伝えようとする人」ってことなのかなと思った。街が作られた当初は、住んでいれば誰もが感じられた(のだろう)それらの思想は、人口の流入や時代の変化などによって受け取りにくくなってしまった。このままでは、「ユートピア」を目指したチャンディーガルはその姿を変えてしまうかもしれない。恐らく本作の制作者にはそんな危機があって、だからこの映画を作ったんじゃないかなという感じがする。

そんなわけで、なかなか興味深い作品だった。冒頭で、「近代的な計画都市というのは、20世紀では数少ない」みたいに言われていて、そもそも「計画的に都市を作れることがレアケースだろ」と思ったりするのだけど、そんなレアケースにして成功例と言っていいだろうチャンディーガルの来歴と現状には色々考えさせられた。誰かが「チャンディーガルは単なる街ではない。〇〇であり、考え方である。だから、この街から学んでほしい」(〇〇の部分は、どうにも自分のメモが読めなかった。「生物」って書いてありそう)と言っていた。以前、『街は誰のもの?』というドキュメンタリー映画を観たことがあって、その問い自体も面白いなと思ったのだけど、「街を設計する」っていう発想もなかなか興味深いもので、勉強になった。

しかし、「上手くいった事例だからこそ人が集まってしまい、人が集まったことで問題が発生する」っていうのは、避けようがないよなぁ、と思ったりする。「ル・コルビュジエには『よくやった!』って気持ちと『やりすぎだよ』って気持ちがある」みたいに言っていた人がいたが、確かにそんな風に言いたくもなるかもしれない。難しい問題だ。

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