【映画】「こちらあみ子」感想・レビュー・解説
今村夏子の原作を読んだとき、衝撃を受けたことを覚えている。大分昔に読んだので既に、内容も読後感も忘れてしまっているのだが、「とんでもない作品だった」という記憶だけは強烈に残っている。
映画も、とても良かった。
この作品の凄まじさは、「あみ子視点」で最初から最後まで完結するという点だと思う。
物語の舞台がいつの時代なのか分からない。スマホが一度も出てこなかったし、「写ルンです」が当たり前のように使われていた時代のはずなのだ(確か、最近また「写ルンです」がブームになっているという話を聞いたことがあるので、ワンチャン令和が舞台という可能性もあるが)。そしてそういう時代においては恐らくまだそんなに浸透していなかっただろう「ADHD」や「発達障害」といったような症状を、主人公のあみ子は有していると思う。
本でも映画でも、色んな物語に触れてきたが、「ADHD的な子どもを外から描写する」ような作品はあっても、「ADHD的な子ども視点で世界を描く」ような作品はそう多くはないはずだ。
そしてこの作品は、そのなかなか難しいハードルに挑み、成功していると思う。
あみ子視点で物語が進むというのは、こういうことだ。あみ子の周囲は、「あみ子の存在を直接的な、あるいは間接的な原因として変わっていく」ことになる。その変化は、ほとんどの場合「悪い」ものだ。例えば、物語の進展と共に、あみ子の家族は少しずつ崩壊していく。
しかしあみ子には、その現実が理解できない。これは、「崩壊を引き起こしているのが自分であると認識できない」というだけではない。あみ子は、「自分の周囲が崩壊していること自体に気づけていない」のだ。
そしてその視点を、観客も体感することになる。
観客は、「突然母親が狂乱する」「突然兄が変貌する」「突然父親が冷たくなる」という変化を体感する。もちろん観客は、その変化が「突然」ではないことを頭では理解できる。そこにあみ子が関与しており、あみ子のせいでその変化が引き起こされているのだと理解できる。しかし、「自分が原因の中心にいる」と自覚できないあみ子視点で物語が展開されるため、変化の過程はかなり限定的に描写されると言っていいだろう。
つまり観客は、「物語の展開自体は頭で理解できる」が、「視覚的な描写としては、あみ子が感じているのと同じように『突然』出来事が展開しているように感じられる」という体感のまま映画を観ることになる。これはなかなか稀有な体験だと言っていいだろう。
この物語で面白いのは、あみ子が周囲の人間に「何故?」「どうして?」と聞き返さない点にあると思う。これは、状況を理解できていないあみ子が、そもそも「理不尽」を感じていないと受け取ることも可能な描写ではある。しかし、すべての場面で、あみ子が理不尽を感じていないとは考えにくい。
この点に関して興味深いもう1つのポイントは、あみ子の周囲の人間があみ子に「○○をしてはいけない」というようなことをほぼ言わない、ということだ。僕の記憶では、映画の冒頭で、後妻である母親があみ子に「インド人やはだしのゲンはもうしないって約束できる?」みたいなことを言うのだが、その場面だけだったと思う。それ以外で、あみ子の言動について「そんなことをしてはいけない」と注意する描写は描かれないと思う。
たぶんこの両者は共鳴している。つまりあみ子は、「ダメ」と言われないからこそ「何故?」と聞き返さないのだと思う。
過去の回想シーンはほんの僅かしか描かれず、あみ子がそれまで家族や周囲とどのようなやり取りをしてきたのかは勝手に想像するしかない。しかし恐らくだが、あみ子と付き合いの長い者たちは、「あみ子には何を言っても仕方ない」という諦めを既に獲得しているのだと思う。たぶん、「ダメ」と禁止すれば「何故?」と返ってくるようなやり取りを無限回も繰り返してきたのだろう。だから、後妻であり、あみ子との関わりがまだ薄い母親だけが、「あみ子に注意する」という「意味を成さない行為」を行うという描写になっているのだと感じた。
映画では何度か、あみ子が「理不尽」を感じただろう場面も描かれる。例えば、「おばけが怖いから」という理由で夫婦の寝室で寝ると宣言したあみ子を父親が無言で追い出す場面などは非常に印象的だった。あの場面であみ子は、間違いなく「理不尽だ」と感じたはずだ。
しかしあみ子は何も言わない。そしてたぶんそれは、「諦め」とかではないはずだ。あみ子は恐らく、「理不尽だが、自分の行為が咎められたわけではない」と判断しているのだと思う。「ダメ」と直接的に言われれば、「何故ダメなのか」を確認したいという気分になるが、「ダメ」と直接的に言われていない状況では、そもそも「自分に非がある」とさえ認識できないはずだ。
そんな風にこの物語では、徹底して「あみ子には何も理解できない」という描写が重ねられていく。後半のある場面で父親が、あみ子に直接、
【あみ子には分からないよ】
と口にするのだが、その言葉さえ伝わらないと理解している父親のこの言葉は、「俺は疲れた」を言い換えたものだと思う。父親の最後の選択には、もし映画を見ずに設定だけ聞いたら「あり得ない」と感じるような非常識なものかもしれないが、映画をずっと観てきた観客には、「それも仕方ないか」と感じてしまうだろう。
そしてこの「あみ子には何も理解できない」という点は、ある意味では救いでもあると感じさせられた。あみ子は、どんな状況に置かれても、「自分という存在が傷つけられた」という受け取り方をしない。少なくとも、僕にはそう見える。母親が泣き崩れても、大好きなのり君が自分のせいで謝らされても、優しかった兄に邪険にされても、あみ子はケロリとしている。
もちろん、あみ子の内面まで見えるわけではない。あみ子はあみ子なりに傷ついているかもしれない。しかし観客は、この映画を「あみ子視点で観ている」というスタンスで最後まで観ることができる。観客自身があみ子と一体化しているような、そんな鑑賞体験になるだろうと思う。だからこそ、「あみ子はきっと傷ついていない」という感覚が仮に錯覚なのだとしても、その錯覚に気づかないままリアルのものとして受け取ることができる。
あみ子と生活を共にすることは、周囲の人間を「不幸」にする。あみ子には悪意も自覚もないから、余計に状況はややこしい。しかし、「あみ子が自身の”暴力性”に気づいていない」という点だけは、まさに「不幸中の幸い」と言っていいだろう。
ただし、ずっとそのままというわけにはいかない。今はまだ「子どもだから」という理由で許される行為も、大人になればなるほど許容されなくなる。場合によっては、無自覚に法律に抵触する可能性もあるだろう。
あみ子が変化できず法律に引っ掛かるとしても、あみ子が変化して「過去の自身の”暴力性”」に気づくとしても、どちらもあみ子にとって「不幸」だと言うしかない。あみ子にどんな「幸福な未来」があり得るだろうかと考えさせられてしまった。
あみ子ほどかどうかはともかく、あみ子と同一線上に生きている人や、その周囲にいる人もきっとたくさんいるはずだ。そういう人たちが「幸せな未来」を生きられる社会であってほしいと感じさせられた。
あと、映画全体とはまったく関係ない疑問だが、あみ子が通う中学の机の脚が、テニスボールの上に載ってて、「なにこれ?」と思った。初めは、「教室の床中にテニスボールが散乱していて、学級崩壊が起こっている」という描写なのかと思ったのだが、よく見たらすべての机の脚にテニスボールがついていて驚いた。
で、調べてみたら、「机を動かしても音がうるさくならない工夫」として実際に行われているそうだ。
最近の学校だと標準装備なんだろうか? とにかく、このテニスボールにはメチャクチャ驚いた。
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