最近感じる、「◯◯ハラスメント」への違和感

「◯◯ハラスメント」という言葉を、とかくよく耳にするようになった。個人的には、「ハラスメント」という言葉の広がりには功罪あると思っている。「ハラスメント」という言葉が浸透することで、今まで問題だと思われていなかったことが課題として顕在化するようになったことは、とてもいいことだと思う。

しかし今回僕が書きたいことは、「ハラスメント」という言葉の広がりによりマイナス面だ。「ハラスメント」という言葉の使用範囲が広がることで、「ハラスメント」の本質が見えにくくなってしまっている、と僕は感じる。

「ハラスメント」という言葉に、本来的にどんな意味があるのか、僕は正確に知っているわけではないが、「セクシャルハラスメント」「パワーハラスメント」「アカデミックハラスメント」など、当初「ハラスメント」という言葉が出てきたものの背景には、「関係性の不均衡」がある、と僕は理解している。

セクハラであれば男女、パワハラであれば上司と部下、アカハラは教授と学生、と言ったように、「ハラスメント」が生まれる状況には本来、「元々存在している、関係性の不均衡」が存在する。そして、同じ立ち位置にいない者同士の間で、強い側が弱い側に何かをする、ということが「ハラスメント」の本質だ、と僕は考えている。

そして、「ハラスメント」という言葉が、こういう状況を指すものとして使用されるのであれば、その言葉の広がりは非常に良いと考えている。「ハラスメント」というのは、行為そのものではなく、関係性に不均衡が存在する上での行為に問題があり、そのことに強い側が気づけていないことが多いのは事実であり、「ハラスメント」という言葉がその状況を顕在化させていると思うからだ。

しかし、最近の「ハラスメント」の使用には、違和感を覚える。

例えば直近だと、「ロジハラ(ロジックハラスメント)」という言葉があるようだ。「正論を言って相手を追い詰める人や行為」のことを指すようだが、上記の前提に立てば、この状況は「ハラスメント」とは認定し難い。というか、「ハラスメント」であるか判断できない、と言った方がいいだろう。

僕の中では、「ハラスメント」というのは「関係性の不均衡」が必要なので、正論を言ってくる相手が誰なのかが重要だ。それが上司なら「パワハラ」だろうし、教授なら「アカハラ」だろう。しかしそれが友達だとしたら?そこに「ハラスメント」という言葉を当てはめるべきではないだろう。

つまり、現在の「ハラスメント」という言葉の使用は、「関係性に不均衡があるために立ち向かえない」という状況を指すのではなく、「(性格的に、あるいは周りの空気的に)立ち向かい”にくい”」という、個人の資質に関わる問題にすり替わっている、と感じている。

もちろん、僕自身もむしろ、性格的に「立ち向かい”にくい”」人間なので、気持ちは分かる。そういう「◯◯ハラスメント」という言葉が出てくる度に、「そうだよなぁ、確かにそういう状況はしんどいよねぇ」と共感する。しかしだからと言って、その状況に対して「ハラスメント」という言葉を使ってしまったら、問題の本質が覆い隠されてしまう。というかきっと、問題の本質を覆い隠すために「ハラスメント」という言葉を使っている、という言い方の方が正しいだろう。

「立ち向かい”にくい”」という個人の資質の問題であるのに、「ハラスメント」という言葉を使うことで、あたかもそれが自分以外の問題であるかのように見せることが出来る。そういう意味で、非常に便利な言葉ではある。同じ感覚を持っている人が、特に若い世代には多いだろうから、「◯◯ハラスメント」という言い方は支持を受けるだろう。そこで留まっているならいいのだけど、その言葉の使用は、若い世代の外にももちろん伝わっていく。そしてそこで、違和感が生まれるのだ。

しかし、「ハラスメント」という言葉には、「強い側が気付いていない」という暗黙の了解が付帯する。そして、世の中の大体の場面において、年齢が上の人の方が強い側であることが多い。だから、強い側にいる年上の人間は、年下の人間の「ハラスメント」という言葉の使用に、面と向かって反論することが難しくなる。ここに問題の難しさがある。本当は、「個人の資質の話が、『ハラスメント』という言葉を使うことで覆い隠されているだけ」であるのに、一旦「ハラスメント」という言葉を獲得すると、あたかもそれが「強い側は気付いてませんよね、はぁ(溜め息)」みたいなニュアンスを帯びることになり、年上の人間が反論し”にくい”状況が必然的に生まれてしまう。

「ハラスメント」という言葉には、こういう謎のややこしさが付随してくるようになってしまったがために、本質的な「ハラスメント」であるはずの「セクハラ」「パワハラ」「アカハラ」までもが、「なんだか触れたらややこしい気がする」というイメージになってしまっている気がする。そうなると、社会的な問題として解決するべき本質的な「ハラスメント」が、矮小化されてしまう、ということになってしまうのではないか。

というのが、ここ最近僕が「◯◯ハラスメント」という言葉に対して感じている違和感だ。

言葉の使い方一つの話ではあるが、上述のような問題はジワジワと降り積もっているように感じるし、「ハラスメント」を取り巻く状況が改善されにくい環境が強化されてしまうだろうなぁ、と思う。

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