【映画】「タンゴの後で」感想・レビュー・解説

いつもの如く、私はマリア・シュナイダーのことも、『ラストタンゴ・イン・パリ』という映画の存在も知らずに本作を観た。本作のテーマに対して「現代的」という言葉を使うのは適切ではない気もするが(別に現代だけの問題ではないから)、とはいえ非常に「現代的」だと感じさせる物語だった。公式HPによりと、マリア・シュナイダーは「映画の撮影現場での問題について声を上げた最初の女性の一人」だそうだ。1972年か。不愉快な時代だったことだろう。

本作で描かれるのは、「映画『ラストタンゴ・イン・パリ』の撮影で『性加害』があった(のではないか)」という問題である。で、まずは僕が「(のではないか)」と書いた理由に触れておこう。

本作で描かれるのは、現代の価値観では間違いなく「性加害」と断言できるだろう。そこは揺るがない。ただ一方で僕は、「昔起こった問題を、今の価値観で判断すること」に戸惑いを感じることがある。もちろん、本作で描かれていることは「いつどのような環境であっても『悪』と判断されるべきこと」ではあると思う。しかし、少し極端な例を持ち出すが、例えば「殺人」は「いつどのような環境であっても『悪』と判断されるべきこと」だと誰もが諒解するはずだが、しかし「戦争中」であればその判断は多少変わるはずだ。なのでやはり、「昔の出来事」は「その時の社会を取り巻く常識・価値観」などを元に判断されるべきだと思っている。

で、僕には「1970年当時の映画業界の常識的判断」を知らない。現代を生きる僕には「イカれてる」と感じられるが、しかし、当時の映画業界でもそうだったのかは分からない。

というのも、本作では当然、「映画『ラストタンゴ・イン・パリ』の撮影風景」も映し出されるわけだが、まさに「性加害」とされるシーンを撮影している時、女性を含めた撮影スタッフは誰も何も言わなかったのだ。

もちろん、ここにもややこしい問題があり、映画業界には「監督をヒエラルキーのトップとした権力構造」がある(あった)はずなので、「『このやり方はマズい』と思っていても言えなかった」だけかもしれない。もちろん、そういう可能性も考慮してはいるが、しかし同時に、「良い作品を作るためには、こういうやり方も仕方ない」程度の認識だった可能性もあるだろう。

私はこのように考えてしまうので、「(のではないか)」と書く。

さて、今僕が書いた話はあくまでも「客観的な視点」からのものであり、当時の映画業界の常識がどうであれ、「マリアが『性加害』だと思ったのなら『性加害』である」という判断は当然成り立つと思っている。だから、「マリア視点」で言えば、「映画『ラストタンゴ・イン・パリ』の撮影で『性加害』があった」と断言していいだろう。

そして本作は、そんなマリア・シュナイダーを主人公に据えた映画である。というわけで、ざっくり内容を紹介しておこう。

シングルマザーの母親の元で育ったマリアは、16歳の頃、父親と再会した。父は、名優ダニエル・ジェラン。撮影現場に入れてもらい、父親の交友関係と関わりを持ったりした。しかしそのことを母親は良く思わなかったようで、娘を家から追い出す。

その後マリアは、知り合いのプロデューサーに頼み込んで女優の道を歩み始めるのだが、しばらくは端役しかもらえなかった。しかし19歳になった彼女にチャンスがやってくる。ベルナルド・ベルトルッチ監督から作品へのオファーが来たのだ。しかも、マーロン・ブランドに次ぐ主演の立場だという。その映画の脚本は、裸のシーンや性描写が多かったが、マリアは脚本を読んだ上でそのオファーを受ける決断をする。

撮影は順調に進んだ。マーロン・ブランドとも、最初こそ緊張したものの、すぐに慣れた。マーロン・ブランドは常に気遣ってくれるし、監督も演技を褒めてくれる。マリアは彼女自身も、撮影にはほとんど問題を感じていなかったと思う。

しかしある日。リハーサルを終えたマリアの元に監督がやってきて、「物足りない」という話をする。もっとシーンに緊張感を与えたいという。マリアは、監督が具体的に何をどう変えたいのか分からないまま変更を了承する。そして、「リハーサルはしますか?」と聞くが、監督からは「本番にしよう。シーンに身を委ねて」を言われる。

そして本番が始まる。その時に撮られたシーンは、公開後に物議を醸し、マリア・シュナイダーの名を広く知らしめたものの、誤ったイメージを広めるきっかけともなった。

彼女はこのシーンで、「私は犯された」と感じていた。

というような話です。

本作の予告は何度か観たが、先述の通り映画『ラストタンゴ・イン・パリ』の存在すら知らなかった僕には、「どういう映画なのか」はさっぱり分からなかった。ただ、映画を観始めてから、「マーロン・ブランド」という、さすがに僕でも知っている俳優の名前が出てきたので、「なるほど、これは事実を基にした映画なんだな」ということがはっきりしたのである。どうやら、マーロン・ブランドもベルナルド・ベルトルッチも既に亡くなっているようで、その事実は本作の制作にどう影響を与えたのか(あるいは与えなかったのか)は分からないが、「亡くなっているから描けた」みたいな部分もきっとあるんだろうなとは思う。

さて、この記事の最初の方でも書いたが、僕は「昔の出来事は、その当時の常識に照らして判断したい」と考えていることもあり、「マリアが『性加害』だと感じたシーンの撮影の是非」についての判断は難しいなと感じてしまう。もちろん、繰り返しになるが、「現代の価値観では明らかに性加害」だし、あるいは「いつの時代であっても起こるべきことではない」とも思っている。ただ、この出来事に関して、「何が、あるいは誰が悪いのか」みたいなことを判断するのは少し難しいなと感じている。

で、僕には1つよく理解できなかったのは、「映画『ラストタンゴ・イン・パリ』でマリア・シュナイダーが一夜にしてトップスターになった」という部分である。僕は『ラストタンゴ・イン・パリ』をそもそも観ていないので、作品の良し悪しは判断しようがないが、マリア・シュナイダーが一気にトップスターへと駆け上がったということは、映画『ラストタンゴ・イン・パリ』は評価されたということなのだろう、きっと。

ただ同時に、マリア・シュナイダーに対しては厳しい批判も出たようだ。まあこれは「賛否両論が激しかった」ということで十分理解は出来る。作品を熱狂的に評価した人もいたし、「ポルノ映画」だと受け取ってマリア・シュナイダーを批判する人もいた、ということだろう。SNSがある現代ではもしかしたら「悪評」の方が大きく広まって「マリア・シュナイダーがトップスターに駆け上がる」みたいなことにはならなかったかもしれないが、当時はマスコミの力の方が強かったはずなので、「賛否両論あるが、作品は名作だ」みたいな評価になり、マリア・シュナイダーも注目されるようになったということなのだと思う。

この点に関しては、自分なりにこのように理解した。

で、個人的に気になるのは、「『公開後に持ち上がった自身への悪評』がもしなければ、マリア・シュナイダーはこの状況を許容できていたのだろうか?」という点だ。本作では、この点の描写が曖昧で(まあ、既に本人が死亡しているので仕方ない部分はあるだろうが)、マリア・シュナイダーが一体何を問題視していたのかが少し見えにくかったなと思う。

誤解されたくないので書くが、僕は別に「ポジティブな評価が得られるのなら、性加害のような撮影も許容すべき」みたいな話をしたいのではない。そんなことは他人がとやかく言うことではないだろう。ただやはり考えてしまうのだ。もしも、映画『ラストタンゴ・イン・パリ』の公開後にマリア・シュナイダーへと向けられる視線のほとんどが「称賛」「絶賛」だったとしたら、彼女は、過去の記憶を書き換えるようにしてあの撮影時の状況を許容できていたのだろうか、と。

こんな風に書くのは、本作を観ていると、「マリア・シュナイダーは、公開後の悪評に嫌気が差した」みたいに感じられてしまうからだ。もちろん、「撮影時に『犯された』と感じた」のは確かだろうし、その傷が無くなることはないだろう。ただ、作品や自身の演技が大絶賛され、さらにその後の仕事においても「魅力的な役」のオファーが殺到し、「映画『ラストタンゴ・イン・パリ』への出演によって人生が好転した」と感じられるような状況になっていたとしたら、もしかしたら彼女は「撮影時の状況」を許容できたのではないか。若干、そんな風に見えてしまったことも確かである。恐らくそれは、本作の監督の意図とは違うと思うので、ちょっと残念なポイントだったかもしれない。

「性加害を受けたことに傷つく」のと、「性加害を受けてまで完成させたシーンによって自身が酷評されたことに傷つく」のとでは意味が違う。もちろん、その両者はマリアの中で混じり合っていると思うのだが、本作ではむしろ後者の方が強く描かれている感じがあって、少し焦点がぼやけるなと感じた。

さて、本作において明確な「酷さ」を感じたのは、むしろ「その後の対応」である。父親は、マリアと食事した際に、「良いチャンスをものにしたじゃないか」と言う。「自分はチャンスを掴むのに苦労したから、お前はラッキーだ」みたいに言うのである。あるいは、事務所の社長だろう人物が、マスコミへの取材に対して「あのシーンは脚本にはなかった」「私の意思とは無関係に行われた」みたいな”暴露”をしていることに対して、「事実がなんだ」「取材も演技だと思え」みたいに言ってのけるのだ。現代の言葉で言えば、これらは「セカンドレイプ」ということになると思うが、僕にはこういう言動の方が酷いものに感じられた。

というのも、父親も事務所の社長も、「マリアが『性加害を受けた』という認識を抱いている」と理解しているからだ。理解した上でそうしているのである。一方で、問題のシーンの撮影においては「認識に齟齬があった」という点にも問題があったように感じていて、だから状況は少し違う。個人的には、父親や事務所の社長の振る舞いの方が「明確に悪」だと断言できるように感じられた。

業界のことは知らないが、今では「インティマシーコーディネーター」などが導入され、映画の撮影現場における役者の待遇は良くなっているのだとは思う。しかし、もちろんゼロということはないだろうし、またどれだけ業界が改善しようが、「かつてそういう被害を受けた」という事実が和らぐこともない。そして、そんな改善の道筋には、マリア・シュナイダーのような「勇敢に声を上げた人物」がいたのだという事実も忘れてはならないだろう。

なんとも感想を書きにくい作品だったが、色々考えさせられたし、映画業界に限らず、社会がこういう問題から速やかに解放されるべきだなとも感じさせられた。

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